2004年03月01日22時54分掲載
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直原涼子:ラテン世界への穴(1)ブラジル映画『シティ・オブ・ゴッド』
今年1月27日、第76回アカデミー賞に、ブラジル映画『シティ・オブ・ゴッド』の監督賞、脚本賞、撮影賞、編集賞のノミネートが決定した。2002年には、カンヌ国際映画祭、東京国際映画祭、ハバナ国際映画祭、2003年には、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞ノミネートと、数々の映画祭を騒がせた映画だ。
リオのファベーラ(スラム街)、「シティ・オブ・ゴッド」を舞台としたこの映画は、観光客が決して目にすることのない、いや、実際ブラジル人でも外部の人間には知る由もない、そこで起こる貧困と暴力の連鎖を描いた映画だ。しかしこの映画は、人々の感情に強く何かを訴えるような恩着せがましいタイプの映画ではない。ただ淡々と現実を私達の前に突きつける映画なのだ。
この映画に対して感服してしまうことのひとつが、綿密に構成されたストーリー展開である。60年代、70年代、70年代終わり、と時間を軸にしたシティ・オブ・ゴッドの街全体のストーリー展開と、そこで生活をする人物を軸にしたストーリーを見事に紡ぎ合わせていく。そして街全体の出来事の目撃者であり、貧困と暴力から抜け出し、フォト・ジャーナリストになることを目指す少年ブスカペによって、この映画は語られるのだ。
映画は70年代終わりから始まる。鶏を調理するための包丁を研ぐ音、鶏の羽をむしるリズム、鶏特有の挙動不審な動き、これら全てがサンバのリズムと絡み合い、映画の観客全てをシティ・オブ・ゴッドの中に取り込む。逃げた鶏を追いかけるギャングらと、突如現れた警官との対立に挟まれたブスカペの語りによって、過去の回想へと物語は繋がれていく。
60年代、もともと公営団地として開発された「シティ・オブ・ゴッド」には、住む場所を求めて貧しい人々が流れてくる。貧困から、銃を使っての強盗はよく起こすが、人を殺さないのがここのチンピラらのモットーである。この時代は、ブスカペの兄達の時代であり、「優しき三人組の物語」として過去が語られる。「優しき三人組」は荒稼ぎのため、悪ガキリトル・ダイスの考えたモーテル襲撃を実行。しかしその襲撃は、思いもよらぬ未曾有の惨劇となってしまう。
時代は70年代へと進み、高校生になったブスカペは恋と写真に夢中だ。ある日彼は、元同級生でドラッグ・ディーラーとなった友人からマリファナを安く手に入れるため、とあるアパートへやってくる。そこへちょうど現れたのがリトル・ゼと改名したリトル・ダイスとその親友ベネだった。ここで、シティ・オブ・ゴッドがどのようにドラッグに支配されていくようになったかを示す「アパートの物語」の挿入と、リトル・ダイスがモーテル襲撃後、どのように生きてきたのかを物語る「リトル・ゼの物語」が始まる。モーテル襲撃事件をきっかけに銃で人を殺す快感を覚えた彼が、強盗からより荒稼ぎできるドラッグ・ディーラーと転身し、街全体を掌握する過程が語られる。
リトル・ゼによるシマ全体の支配は、それまでの抗争をなくしたため、人々からは歓迎されていた。しかし他のシマへの支配の拡大を目指すところから、70年代終わりの全面抗争を起こす「終焉のはじまり」の物語へと続いていく。そして、ラストには、映画のオープニング・シーン、ブスカペがリトル・ゼらギャングと警官との対立の間に立たされるシーンへと、ストーリーは輪を描いて回想から現在へと舞い戻るのである。
普通物語を語るのに、主人公の視点や行動に伴って一本線上に語られるのがもっとも単純で判りやすい。一人を中心に置くために、他の人からの視点は省略される。そのため善人と悪人という主人公からみる主観がつきやすいものだ。しかしこの映画は、物語の語り手は置くものの、多くの登場人物の視点から物語が紡ぎだされているために、何が良いとか誰が悪いという単純明快な判断を私達に課すことはない。実際、様々な人間関係によって現実は編成されている。それを上手く映画に取り込み、ストーリー展開させてしまったのがこの映画である。それぞれの登場人物がどのように絡み合い、関係が循環しているのかを見事に私達にわかりやすく提示しているのだ。
この映画の物語は常に円循環している。シマを抑えるリーダーが抗争によって殺されてはまた新たなリーダーが現れるといった構造、ファベーラにおける世代交代、治安や社会問題の悪循環といったものが、映画のオープニングとエンディングが同じシーンで結ばれているという構成によって、より強調されて私達に迫る。また、堅気であった二枚目マネが、リトル・ゼによって彼女をレイプされ、家族を殺されることによって、ギャングの道へと歩むその経緯は、暴力が暴力を生む悪循環を象徴している。また、リトル・ゼへの復讐のため暴力に手を染めていくマネも、新たな堅気の少年を暴力の世界へと招くこととなる。マネの発砲によって殺された銀行の警護員の父を持つ少年。その少年は、マネへの復讐のために銃を持つのである。支配の拡大のために武器を与え、その自分の与えた武器によって自分の命が奪われる。そして新たな世代交代と同じ暴力の連鎖が、ファベーラでは繰り返されている、そして繰り返されていくのだろう。
ブラジルの貧困、犯罪、麻薬、暴力などの問題のひとつであるファベーラを扱うこの映画は、社会性が強いだけでなくエンターテイメント性も強い。それは、監督がブラジルCM業界を代表する演出家であることが納得できる映像のキレの良さや、音楽の効果によってである。60年代はセピア色に染まった映像と共に、暖かい落ち着いたメロディで表現され、70年代には青味がかった映像の上にブラジリアン・ロックが流れ出す。また、出演する多くの子供の表情にも圧巻されるものがある。実際にファベーラに住む一般の子供達を集め、長い時間かけワークショップで訓練をさせた。映画の中では、彼らに即興で作らせた台詞や演技を用いたシーンが多いという。だからこそ彼らの表現があんなにまでもリアルなのだ。
何はともあれ、時間をかけ、知恵を絞り、綿密に計算されたこの映画の2月29日(日本時間3月1日)のアカデミー受賞式の評価と結果はいかに・・・。たかがアカデミー賞、されどアカデミー賞。楽しみである。(直原涼子)
直原涼子 東京生まれ。札幌育ち。津田塾大学卒。高校時代にオーストラリアに留学。そこで出会ったラテンアメリカ出身の他の留学生から大きな衝撃を受け、その後ラテンアメリカを訪問するとともに、同地域に関する研究を個人的に進める。さらにアジア、アフリカ、ヨーロッパ歴訪。ラテンアメリカ映画、文学、演劇、音楽に精通。本年3月より『マスコミ市民』に映画時評を連載。
好きなもの:旅行、お茶、幕末
苦手なもの:お酒、勘定、スポ根
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