2005年11月13日23時58分掲載
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フランスの中東政策に変化
フランスの中東政策は、イスラエルとの完全な妥協、屈服を拒み続けてきたアラファトパレスチナ自治政府議長の死後、シリア、イランと距離を置き、米国とイスラエルと親密になった。ミドル・イースト・オンライン10日付で、パリからクリストフ・ロクファヴィー氏が報告している。(ベリタ通信=齊藤力二朗)
内容は以下の通り。
アラファト氏の死後1年が経過し、フランスの中東政策は、シリアとイランに対し強硬になったことに加え、イスラエルと米国に接近が明瞭になる方向に変化した。
2004年10月11日、パリ郊外の病院で死去したアラファト氏のために、フランスは一国の大統領レベルの告別式典を行い、軍楽隊が演奏する中フランス要人が多く参列した。
それから一年、フランス外務省は「フランスは、パレスチナ自治政府が催しフランスが招待されるいかなる式典にも出席する」と述べるに留まり、それ以上踏み込んだ声明はなかった。
しかし、フランス外務省は「フランスがこのパレスチナ人指導者の歴史的役割を認めることにやぶさかではない」と仄めかした。
フランス外務省のスポークスマン、ジャン・バティスト・マティエ氏はシラク大統領が昨年語った言葉を繰り返し、アラファト氏を賞賛した。「勇気を備え、40年間にわたりパレスチナ国民の権利を認めさせる闘争を具体化してきた人である」
アラファト氏をパリ郊外の軍事病院へ入院させ、シラク大統領が彼を見舞ったことは、米国とイスラエルが彼を孤立化させようと圧力をかけたにも関わらず、フランスとこのパレスチナの指導者との伝統的、歴史的関係の深さを表している。
フランス国際関係学院の中東専門家、ジュディス・カーヘン女史は「フランスはたびたび、イスラエル人と米国人が望んでいたアラファト氏の孤立化を拒否した」と語っている。
さらに、イラク戦争を巡る対立を経て、中東政策のレベルで米国と接近したいとのフランスの願望を強調し、「しかし、恐らくアラファト氏死去とは別の理由からフランスの中東政策は変化した」と付け加えた。
一方、国際・戦略研究所のパーラー・ミカエル氏は「フランスがアラファト氏を受け入れたことで、アラブ諸国政府がフランス外交を賞賛するようになり、アラブ人から好感を持たれた」と語った。
そして、この好感は「パワー・バランスで変えられることはない。米国の意見がこの地域で圧倒的に幅を利かせ、アラブ諸国政府は、フランスの意向より米国の意向に歩調を合わせている」と付け加えた。
ミカエル氏は、この現実が「自国の中東政策を再評価するようフランスに促している」と語った。
フランスとイスラエルの接近は、両国間の関係が冷えた後、7月シャロン首相がパリを訪問したことで明瞭になった。一方アラファト氏の名はもはや、両国の関係を曇らせるものではなくなった。
フランスのイスラエルとの関係の復調は、10月にパリを訪問したパレスチナ自治政府のアッバス議長に対する大きな支援に対応している。そのため、フランスはパレスチナと良い関係を継続出来た。
また、(アラファト氏死去以前より始まっていた)レバノンにおけるシリアの影響力に歯止めを掛けるため、国連レベルで米国と密接な協力をすることで、フランスは自国を米国の中東におけるパートナーであると表明できるようになった。
これに加え、イランの核計画に対するフランスの毅然とした態度は、イラク戦争を巡る対立とアラファト前議長の件で両国間に生じた緊張後の米国人の目に映るフランスのイメージ向上に貢献した。
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