2006年02月02日14時03分掲載  無料記事
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ライブドア事件

今こそA・スミスの「正義の法」を重視するとき      安原和雄(仏教経済塾)

 ホリエモンこと、ライブドア前社長の堀江貴文容疑者(33歳)が証券取引法違反事件で逮捕されて10日ほどになる。私はマネーゲームに狂奔する堀江前社長らを「企業人はカネの奴隷か」と題して、批判記事を掲載した(05年10月15日付仏教経済塾)。ホリエモン的言動を批判した手前、ここらで一言もの申さないわけにはいかない。 
 まずは「ホリエモンは小泉路線の申し子」という認識をもつことである。そして市場経済を行き過ぎた利己主義から守るために「正義の法」の重要性を説いたイギリスの経済学者アダム・スミス(1723〜90年)に学ぶことをすすめたい。 
 
▽一代の寵児から容疑者へ転落 
 堀江逮捕のニュースを聞いて、まず連想したのは、ニコラス・リーソンという弱冠28歳のイギリス人の男である。なぜこの男なのか。異常なカネ儲け、マネーゲームで身を滅ぼす事例は少なくないが、彼こそはその究極の一例なのである。 
 
 彼は「金融バクチで1〇〇〇億円すった男」「この若者が女王陛下の銀行ベアリングスをつぶすまで」(『ニューズウィーク日本版』誌、1995年3月15日号)と大々的に報道され、一躍世界の話題をさらった。イギリスのエリザベス女王の流動資産は当時約1億ドルといわれ、その大半を運用していたベアリングス社(223年の歴史を誇るイギリスの名門)が95年2月、この男の投機の失敗が原因で倒産した。 
 
 彼はベアリングス社のシンガポール現地法人で主任トレーダーとして、おもに日本の先物株式売買を担当していた。それが同年1月の阪神大震災をきっかけに急落、合計10億ドル(約1000億円)を超える大穴をあけてしまった。稼ぎまくって有頂天になっていた彼は、逃亡中、警察に身柄を拘束され、一代の寵児から一挙に容疑者へと転落した。ホリエモンも同じ運命をたどったといえよう。 
 
▽メディアの記事、論評を批評する 
 逮捕以来、一般メディアは関連記事、論評を山ほど提供してきた。そのうち印象に残った記事、論評は以下の通りである。これを参考にしながら(必ずしも賛成という意味ではない)考えたい。 
*藤原正彦氏「問題は市場原理主義」(1月28日付『毎日』・論点 ライブドア事件を考える) 
*東谷暁氏「錬金術の始まりに過ぎぬ」(1月29日付『毎日』・21世紀を読む) 
*石橋襄一氏「考えよう、<この国のかたち>」(1月31日付『毎日』・「みんなの広場」) 
*小宮山量平氏「同時代を生きる当事者として」(同日付『毎日』夕刊・特集WORLD) 
*星浩 編集委員「<ご都合主義>自民の素顔を映す」(同日付『朝日』・政態拝見) 
*高成田享 論説委員「<改革者>の側面を重視」(2月1日付『朝日』・海外メディア 深読み) 
*柴沼均 記者「<閉塞感打破>は評価に値」(同日付『毎日』・記者の目) 
 
▽閉塞感打破への期待は幻想に 
 若者から中年の世代までには「ホリエモンは既成概念や閉塞感を打破しようとした」という評価がかなり高いらしい。しかし彼の起業、そして企業価値の最大化をめざす企業買収・合併はしょせん株による大儲け、マネーゲームによる蓄財の話である。 
 新事業の展開にあまり関心がなく、だから「人の心はカネで買える」と言ってのけることもできるのだろう。こういう拝金主義の言動に期待をかけるのはいささか志の次元が低すぎないか。期待は幻想に終わるほかないだろう。 
 
 彼は改革者だったのだろうか。いわゆる小泉改革路線上に位置づけられることは間違いない。だからこそ昨年の総選挙に引っ張り出し、武部自民党幹事長が堀江前社長を「弟です。息子です」と叫んで応援もしたし、小泉首相自身「堀江青年」を高く買ってもいた。 このいきさつからみれば、ホリエモンの言動は小泉改革路線の申し子といってよい。こういう認識を疑問視する意見もあるが、それはいわゆる小泉改革なるものの本質が十分に理解されていないからである。 
 
▽小泉改革の正体は危険な路線 
 いわゆる小泉改革の正体は、新自由主義、あるいは新保守主義と呼ぶべきもので、自由市場原理主義と軍事力重視主義の双方のグローバル化をめざしている。これは中曽根政権時代に始まり、小泉政権でほぼ仕上げ、ポスト小泉政権で仕上げることを目論んでいる。 
 
 前者の自由市場原理主義は、企業の自由な利益追求を容易にするために公的規制の緩和・廃止すなわち民営化・自由化をすすめる。郵政の民営化はその代表例である。マネーゲームのすすめもその延長線上にある。 
 これがもたらすものが一握りの「勝ち組」とその他大多数の「負け組」への色分けであり、企業・高額所得者の負担軽減と一般国民の負担増、過労死・自殺・ストレスの増大、失業・非正規雇用者の急増、連帯感・倫理観の喪失、拝金主義の横行―などである。昨今の人命軽視などの世の乱れは、ここに主因がある。 
 「民」(みん)を繰り返し唱えているが、これは利益追求第一の民間企業の「民」を指しており、決して「民」(たみ=一般市民、民衆)を幸せにする道ではない。 
 
 もう一つの軍事力重視主義は、憲法9条の改悪(自民党新憲法草案によると、戦力不保持と交戦権の否認の条項を削除し、自衛軍を正式の軍隊として保有すること)、さらにいわゆる米軍再編と「世界の安保」による日米安保体制・軍事同盟の強化をめざしている。これは世界規模で軍事力を行使しようとする路線で、世界の中で孤立を招く危険そのものの路線である。 
 
 このような自由市場原理主義と軍事力重視主義は車の両輪の関係にあり、しかも日米一体のもとにこの路線のグローバル化をめざしているところに特色がある。「自民党をぶっ壊す」は小泉首相の口癖だが、「日米軍事同盟をぶっ壊す」とは断じて言わないところに注目したい。 
 
▽新自由主義・新保守主義の継承 
 しかも以上は決して新しい考え方、思想ではない。20世紀初めの頃の市場経済万能主義が招いたものが1929年の世界的な大恐慌であった。大恐慌とともに企業破綻、銀行倒産、失業増大、弱者の痛み増大など市場経済の破綻が一挙に露呈した。 
 その再発防止策として第二次大戦後にいわゆるケインズ政策(財政赤字も辞さない積極的な財政拡大政策)が実施され、同時にさまざまな公的規制が強化された。これが福祉国家であり、財政赤字の増大と大きな政府、企業と高額所得者への税負担増、自由な企業活動の抑制をもたらした。 
 
 そこから新自由主義、新保守主義による反撃が始まった。1980年代のアメリカのレーガノミックス(レーガン政権時代の「小さな政府」と「軍拡」をめざす新保守主義政策)、イギリスのサッチャリズム(サッチャー首相時代の民営化・自由化政策と福祉削減)、日本の中曽根ミックス(中曽根政権時代の軍拡路線と構造改革という名の自由化・民営化政策)がそれで、目下の小泉改革路線は大筋ではその継承にほかならない。 
 
▽小泉首相こそ抵抗勢力のリーダー 
 大恐慌時代をはさんで歴史的にみれば、新自由主義、新保守主義は市場経済万能主義という保守への回帰・復活であり、それに軍事力重視主義が加わった。 
 一方、小泉改革では自らの存立基盤である自民党を「ぶっ壊す」と叫ぶのだから、そのエネルギーは前例がない。だから保守=守旧でありながら、「新」でもある。私はそのグループを「新保守派」あるいは「新守旧派」と呼びたい。 
 
 もう一つ強調する必要があるのは、小泉首相の対米追従、日米軍事同盟へのこだわりぶりは、頑迷そのものであり、対米関係の改革にはあくまでも抵抗勢力として振る舞っていることである。この意味では小泉首相こそ、ほかならぬ抵抗勢力のリーダーなのである。改革派とはお世辞にもいえない。 
 
▽「改革派対守旧派」の構図は目を曇らせる 
 英フィナンシャル・タイムズ紙はホリエモン事件を「新興勢力対守旧派」という構図で世界に広めたと伝えられる。しかしマネーゲームはアメリカでは80年代に隆盛をきわめた。日本の場合、それから10年も遅れてやってきた成金ゲームである。これまでにない現象という意味では「新」だが、新しい時代を担う「新興勢力」とはいえないだろう。 
 
 小泉首相自身が小泉改革に難色を示す自民党内の一派を守旧派=抵抗勢力と呼んだことから、「小泉改革派対守旧派」というとらえ方が一般的になっている。しかし、私の観察によれば、この両派の対立は自民党内の「コップの中の嵐」であり、「同じ穴のむじな」の蹴飛ばし合いにすぎない。実体は保守派(あるいは守旧派)の新・旧の争いとみたい。決して改革派が立派で、一方の守旧派がお粗末なのではない。そういう視点を失うと、目が曇り、小泉改革の正体が見抜けなくなるだろう。 
 
▽マネーゲームは徒花にすぎない 
 堀江逮捕によってマネーゲームが終わることを期待するとしたら、それは見当違いである。スーザン・ストレンジ著『カジノ資本主義』(岩波書店)が指摘するように資本主義はすでにカジノ(賭博場)化しており、マネーゲームとカネをめぐる犯罪は今後も絶えないだろう。 
 
 自民党保守政権が自由市場原理主義の旗に執着するかぎり、第2、第3の拝金主義者、ホリエモンが登場してくるのは避けがたい。それを歓迎するかどうかは、それこそ人それぞれといえよう。 
 だが、マネーゲームは、地球環境の汚染・破壊、資源エネルギーの枯渇を背景にモノの生産拡大が行き詰まりに直面している市場経済に咲いた徒花(あだばな)にすぎない。新しい時代の到来―などと錯覚する愚を犯してはならない。社会に閉塞感を生んでいるのも実は自由市場原理主義であることを、この際しっかり胸に刻んでおきたい。 
 
▽<この国のかたち>をどうつくる? 
 肝腎なことは日本の将来設計図をどう描くかである。石橋襄一氏は『毎日』の投書欄「みんなの広場」で次のように問いかけている。 
 「最近のこの国を見ていると、(中略)この国が沈没してしまうような気がしてならない。(中略)司馬遼太郎氏が生きておられたら<この国のかたち>をどのように考えられるだろうか」と。適切なテーマ設定というべきである。 
 
 小宮山量平氏は『毎日』の「特集WORLD」で次のように語っている。 
 「世の中には物欲よりはるかに豊かな世界がある。あらゆる欲と潔く対決する清貧の思想だ。単なる貧乏ではなく物の本当の価値を知ること。ノーベル平和賞を受けたマータイさんの<もったいない>も清貧に通じる」と。いいかえればこれは仏教でいう「足るを知る」精神であり、それが豊かさにつながるという思想である。 
 
 私はもう一つ、ジャーナリストの大先達で、元首相の石橋湛山に学んで、「小日本主義のすすめ」を提唱したい。これは簡素、非暴力、平和のすすめであり、反「自由市場原理主義」、反「軍事力・軍事同盟重視」、反「石油浪費経済」、反「拝金主義・マネーゲーム」などを主な柱とする。(詳しい内容は「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「小日本主義のすすめ」1・2などを参照) 
 
▽アダム・スミスの「正義の法」を重視するとき 
 どういう国のかたちをつくるにせよ、制度としての市場経済を前提にする以上、そこにどういうルールを設定するかは避けて通れない課題である。まずは古典、アダム・スミス著『国富論』をしっかり読むことから始めたい。次のように指摘している。 
 「各人は、正義の法を破らないかぎりは、完全に自由に自分の思う方法で利益を追求し、(中略)競争することができる」と。 
 
 「正義の法」をいかに市場経済の中に組み込んでいくか、それが最大の課題である。スミスといえば、自由放任の競争を説いたことで有名になっているが、実はそれは誤解である。彼は自由競争の重要性を力説したが、決して勝手気ままな自由放任をすすめたわけではない。自由競争を「正義の法」の範囲内に限定しているのである。 
 
 スミスは経済学者であると同時に道徳哲学者でもあった。だから経済の分野の道徳、倫理、公正を重視した。人をけ落としてまで自己利益を独り占めすることを極度に嫌った。決して野放図な競争を賛美したわけではない。特に日米の新自由主義者、新保守主義者たちの間でこの点の勝手な読み違えが横行していることを指摘しておきたい。 
 
 かりにいまスミスが生きているとしたら、昨今のマネーゲームをみて何というだろうか。「市場経済を汚すのはいい加減にしなさい。1人、2人が刑務所に放り込まれるだけでは終わらない。市場経済自体の命取りになることを忘れないように」という程度のお叱りで済めば、感謝しなければなるまい。 
以上 
 
*仏教経済塾のホームページは 
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/ 


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