2006年02月23日10時51分掲載  無料記事
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【追悼】高木文雄・元大蔵次官の思い出        安原和雄(仏教経済塾)

  06年2月14日急性心不全で亡くなった元大蔵事務次官(元国鉄総裁)の高木文雄さん(86歳)の告別式(06年2月21日、東京・港区の増上寺大殿にて)に駆けつけたときには、ちょうど宮沢喜一元首相(元大蔵大臣)の弔電が披露されているところであった。高木さんが主税局長だった頃、私は毎日新聞経済部の大蔵省(現財務省)担当記者で、高木さんには格別の思い出がある。以下にそれを紹介し、記録に留めておきたい。 
 それは大蔵事務次官(在任は1974〜75年)就任にまつわる、いまだから話せるエピソード、その裏話である。 
 
 いまから30年もさかのぼるが、当時は円切り上げ(71年)後、ほどなくフロート(為替変動相場制)へ移行し、おまけに第一次石油危機(73年)も加わって騒然としていた。いまのような首相官邸主導と違って官僚支配(特に予算編成権を握っていた大蔵官僚が突出)が濃厚で、大蔵省事務レベルのトップ、事務次官に誰が座るかは大きな関心事であった。 
 同期入省の橋口収主計局長と高木主税局長が次官レースを争うという官僚人事としては異例の展開となった。 
 
 各紙はほとんどが橋口説に立っており、それが多数説であった。主計局長が次官に就任するのが慣例の人事でもあったからである。もう1つ当時、田中角栄首相主導で列島改造のための国土庁(現国土交通省に統合)を新設し、その初代次官に誰を据えるかが、話題となっていた。田中首相に近い高木さんが請われて国土庁次官に座るだろうという説が流布されていた。 
 しかし私はこの多数説に「違うな」と感じていた。チーム取材の結果、高木大蔵次官の線が濃厚という感触を得た。 
 
▽高木さん本人から取材 
 ある夜、ぼつぼつ書き時だと思い、私は高木邸へ電話を入れ、「高木大蔵次官誕生へ、という記事を書く準備を進めている」と話した。これに対し、高木さんは上機嫌な口調で次のように答えた。 
 「そうか。安っさん、ついに書くか。ただ念のため、澄田さんに話しておく方がよい」と。澄田さんとは、澄田智日銀副総裁(大蔵次官を経て、副総裁に在任中で、後に日銀総裁に就任)のことで、私は直ちに澄田邸へ電話を入れた。電話口に出てきた澄田氏は明言は避けたが、「まあそんなところだろう」というニュアンスで語った。 
 折り返し高木邸へ再度電話をして「澄田さんに話した。書きますよ」と伝えた。高木さんはひと言「そうか」であった。翌日の朝刊で「高木氏、大蔵次官へ」と報じたのは毎日新聞のみであった。 
 
 後で耳にした話だが、私が高木邸に電話したとき、各社の担当記者が取材のため詰めかけており、高木さんを囲んで盃を重ねていたらしい。だから上機嫌だったのだろう、その席に取材記者がいなかったのはわが毎日新聞だけだったらしい。 
 
 さてこれからがむしろ勝負どころであった。依然として他紙の多くは「橋口大蔵次官」、「高木国土庁次官」にこだわっていた。そう報道したりした。このため格好の週刊誌ダネにもなった。いったい毎日新聞と他紙とのどちらの報道が正しいのか、というわけである。 
 
 1か月近くも経った頃だったろうか、ある夜のこと、本社の経済部デスク(副部長)からわが家へ電話があった。「政治部情報だが、田中首相派の建設大臣が『初代国土庁次官は高木だ』としゃべった。この情報は確度が高いと言っている。どうするか。判断を任せる」という内容である。私は「再取材してみましょう。その結果を電話するまで、政治部情報は絶対に記事にしないように」と念を押して受話器を置いた。 
 
 私はしばらく考えた。政治部情報を記事にしたら、先の経済部ニュースを自ら否定するわけだから、「大蔵次官人事で迷走する毎日新聞」と週刊誌あたりに冷やかされることは目に見えている。かといって政治部のいう「建設大臣情報」を否定するためには、新しい情報をつかむ以外にない。そうでなければ、政治部も納得しないだろう、と。局面は社内対立にまで発展しかねない雲行きであった。 
 
▽「ベストの人間が大蔵次官に」 
 私は竹内道雄大蔵省官房長(後に大蔵次官を経て東京証券取引所理事長などに就任)宅のダイヤルを回した。運良く在宅であった。次のように問いかけた。 
 「実をいうと、『田中派の建設大臣が国土庁次官は高木さんだと言っている』という政治部情報がある。毎日新聞は高木大蔵次官説をすでに報じている。高木さんが国土庁に出て行く可能性はあるのか」と。 
 
 これに対し官房長は次のように答えた。 
 「建設大臣が何を言っているのか知らないが、大蔵省人事のあり方として大事なことは、わが省にとってベストの人間が次官になるということだ。ベストの人間を他の省庁に出して、お余りが大蔵次官になるということはありえない」と。 
 ここで2人のうちどちらがベストなのかとわざわざ聞き返すようでは取材能力を疑われる。前後の事情が分かっていないと、このやりとりも意味のはっきりしない禅問答のように聞こえるだろうが、私は次のように理解した。 
 冒頭の「建設大臣が何を言っているのか知らないが、・・・」は大蔵人事について建設大臣の言うことなど意味はない。気にするな、と。 
 次に「ベストの人間・・・」は、私の「高木さんが出て行く可能性はあるのか」という質問への答えだから、その意味するところは明白である。 
 
 私は直ちに経済部デスクへ電話を入れ、「官房長に確認した。すでに報じた高木大蔵次官の線を修正する必要はない。政治部情報はボツにするように」と強調した。建設大臣情報に振り回されないで、私の言を信じてくれたデスクには感謝している。 
 
 なぜこの局面で官房長を選んで、確認の電話を入れたのか。「人事は官房長」というのは常識だが、それ以外に実は裏話がある。 
 以前、官房長に人事一般について質問をしたことがある。「局長にまで残るのは同期の中でも少数だ。それまでに何人も辞めて貰うわけだが、引導を渡すときに何というのか。有能な君には残念だが、分かってくれ、とでもいうのか」と。 
 官房長の返答は「それは違う。君はこれ以上残っていても局長になる可能性はない。いま転出するのは君のためだ、と明言しないとダメだ。君は有能だ、などといったら、有能な俺の首をなぜ切るのだ、と抵抗して辞めようとしない。皆さんプライドがあるからねー」であった。 
 私は「ははあ」と思わず笑ってしまったが、なるほどリストラにからむ人事とはそういうものか、とも思った。このやりとりの記憶はいまなお鮮明に残っている。 
 
▽多数説必ずしも真ならず 
 そういうタイプの官房長だから、私の確認の電話に逃げを打つような態度はとらないだろうという確信があった。結果は期待通りであった。当時の福田赳夫大蔵大臣(後に首相に就任)が「高木大蔵次官」の人事を正式に発表したのは、それからさらに1か月近くも後のことであった。 
 
 この人事の取材で得た教訓は「多数説必ずしも真ならず」で、これはいまも私の思考原理のひとつになっている。 
 
 次官レースを争った橋口、高木両氏はお互いによき競争相手であったと思う。こういうよきライバルが存在してこそ、官僚組織も活性化するのではないか。競争のない組織は停滞する。 
 高木さんとは高木研究会でごく最近までお付き合いをいただいたが、すでに他界した橋口さん(国土庁次官の後、公正取引委員会委員長、広島銀行頭取などを歴任)とも晩年まで時折盃を重ねた。私が会長役を務めている「モラル会」の名誉会長が橋口さんという関係でもあった。両先輩とのひとかたならぬご縁には感謝するほかない。 
合掌 
 
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