2006年03月05日12時42分掲載
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【コラム・戦中派の目】中国の作家、謝冰心さんの思い出 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)
昭和20年、中国の戦場にいた私は、敗戦後、中国陸軍総司令部に留用されて働いた。翌21年夏、帰国後は、その縁故で中国駐日代表団のモータープールに職を得た。中国名でGHQのライセンスを取り、ジープで走り回る毎日だった。
代表団の幹部職員に、呉文藻博士という鶴のように痩身の初老の紳士がいた。その夫人が有名な女流作家、謝冰心女史であると聞いたときは驚いた。作品からは想像もできない地味で気さくなおばさんなのである。
私が謝冰心さんの小説を読んだのは昭和15年頃だった。中国の現代小説は話し言葉で書かれていたので、文学的興味よりも中国語の会話を学習するために読んだのである。他にも郁達夫や郭沫若の作品などを読んだが、語学の勉強のためだったので、内容も題名も忘れてしまった。だから謝冰心さんに会っても「あなたの作品を読みました」とは言えなかったが、女流作家としての人気はよく知っていた。
夫妻は麻布の有栖川公園内にあった中国代表団から程近い官舎に、孫かと思うほど幼い小学生の娘さんと三人で暮らしていた。
昭和22年初夏の日曜日、当直の私は謝冰心さん母子を乗せることになり、ジープではなく黒塗りのシボレーで世田谷の成城学園に向かった。戦災を免れた高級住宅街の一角で、焼け跡の下町とはまるで違う整った身なりの婦人たちが出迎えた。謝女史を囲む昼食会であった。
門前に車を止めて待っている私にも、当時貴重な米飯の昼食が振舞われた。五目寿司である。これはいけないと不安になった。いくら美味しくても五目寿司は冷えた料理である。中国では「冷えた飯は腹を壊す」と言い伝えられている。日本兵が苦力(クーリー・労務者)に握り飯を与えたが、食べなかった。それほど冷や飯は嫌われる。成城夫人たちはそれをご存じないのだった。
案の定、2時間余りたって帰路に着くなり、謝冰心さんは言った。「あなたもお昼ご飯食べた?」「あの冷たいご飯、私、喉を通らなかったのよ。皆さん平気で食べていたけど、日本では冷たいご飯を食べるのね」と驚いていた。
家に着くと、「何か作って食べましょう。あなたも食べてゆきなさい」と、自らチャーハンを作ってご馳走してくれた。
やがて中国本土は共産党の支配するところとなり、国民党が台湾に逃げ込んで数年が過ぎた頃、経済学者である呉文藻博士が北京にいると聞いた。あの人情味あふれる謝冰心女史と娘さんも一緒だろう。その後は消息を聞くこともなかった。
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