2006年04月15日17時47分掲載  無料記事
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【コラム・戦中派の目】中国の鉄道線路を持ち去った日本軍 中谷孝(元日本軍特務機関員)

  戦争を知らない日本人に、日中戦争の私の体験を話すと「エッホント、マサカ」という声が返ってくることがある。平時の常識では考えられないことが多かった。戦場の常で、残虐な話など聞き飽きる程だったが、略奪も軍の組織が“作戦”という名目で行なうと、当事者に余り罪悪感が無いようだ。 
 
 私の勤務していた蚌埠(パンプー)特務機関の管轄する安徽省の揚子江北側に、南北に通じる鉄道が二路線あった。一つは南京の対岸、浦口(プーカオ)から蚌埠・徐州・天津を通り北京に至る大幹線“津浦鉄道”。他に、揚子江上流、裕渓口から北に巣県、合肥県を通り、淮南炭鉱の積出し口、田家庵に至る全長約200粁(キロメートル)の淮南鉄道である。昭和18年頃だったと記憶するが、この淮南鉄道を日本軍が撤去すると知らされた。考えられないことだ。 
 巣県、合肥県には特務機関も現地事務所を置いている。私は昭和16年、新任の機関長櫻庭大佐の初度巡視に随行した折りに利用したことがあったが、沿線には人口が密集していた。この重要な鉄道を日本軍が一方的に廃止するなど無茶なことをするはずはないと思ったが、説明を聞いて唖然とした。大本営参謀の思いつきだった。南方戦場で鉄道を敷設しているが、内地は鉄不足でレールを送れない。そこで中国の線路を外して送ることにしたというのである。 
 撤去される現地はたまったものではない。路盤はそのまま自動車が走れるから、さほど不便ではないというが、巣県、合肥県の住民にとっては、生活必需物資の輸送ができなくなる。この沿線、民間の自動車は一台もない。単線の鉄道路盤は狭くて、荷馬車は軍用トラックと共存できない。自給自足の農民は別として、一般都市住民にとっては大変な事態である。併し、日本軍が住民の立場を考慮するはずはない。秘密裏に準備が進み、蚌埠には工兵の鉄道隊が到着し、直ちに現地に向かった。淮南炭の積出しは田家庵で船積みし、淮河を下り、蚌埠で鉄道に積み替えるルートのみになった。 
 最初の話では淮南―蚌埠間に最短ルートの新線を敷くということだったが、遅々として進まなかった。中国の鉄道を占領したからといって、勝手に線路を持ち去るなどと想像もできなかったが、戦争とはそういうものなのだ。その頃から、南方へ向かう輸送船の撃沈される数が激増した。果たしてあのレールが南方の戦地に届いただろうか。 
 
 レールを外した路盤は自動車が走れるようにはなったが、既に自動車用ガソリンが逼迫していた。各部隊の割当量も減らされる一方で、特務機関の現地班には事実上ゼロに等しかった。内地では民間車軸は木炭車に替わっていたが、戦場まで、代用燃料を使うことになったのである。淮南鉄道撤去の影響はあまりに大きかった。 
 昭和19年12月、淮河上流の古都寿県で、1人で情報工作に当たっていた私は、合肥に転勤命令を受けた。鉄道のない合肥には行きたくはないが、やむを得ない。田家庵まで船で下って、合肥警察隊の連絡トラックに便乗して任地に向かった。警備隊本部ではドラム缶1本だけ、最後の一戦用のガソリンを残してあると言っていたが、連絡用のトラックはアセチレンガスで走っていた。 
 配当される自動車燃料はペール缶に入ったカーバイド(炭化カルシウム)である。ガス発生器にカーバイドを入れ、タンクから水を垂らすとアセチレンガスが発生する。運転手は必要出力を予測して水を垂らしながら走る。ガスと同時に化学反応で熱が出る。すると、当然、水蒸気も発生する。これが禍の原因になった。途中、カーバイドを詰め替えながら走るが、時折、力が無くなって、遂に停まってしまう。水蒸気が凍結してパイプが詰まってしまうのだ。パイプを外し、焚火で溶かして又走る、又停まる。繰り返すうちに暗くなり、途中の分遣隊に一泊する羽目になった。外套を着たままでも、毛布一枚の夜は眠れなかった。結局、80kmを二日がかりで着任するはめになった。 
 この道路がわたしにとって忘れることのできないものとなったのは、昭和20年3月16日のことである。業務連絡の為、巣県に出張することになり、日本軍に協力する南京国民政府第一方面軍のトラックに便乗した。私は第一方面軍の王占林師長とは、昭和14年、彼が日本軍に帰順した当時以来の付き合いで、親しい仲だったので、日本軍のトラックより気楽に便乗していた。日本で開発した木炭車はアセチレン車よりはましであった。釜の中で不完全燃焼して発生する一酸化炭素を燃料として走るのである。 
 巣県に一泊して、空の弾薬箱を積んだトラックに便乗して帰路に就いた。便衣(中国服)を着ていた私は、ソフト帽の上から頬かぶりして弾薬箱の上に座っていた。午後2時過ぎ、橋を渡り終わったとき、突如、大きな衝撃とともにトラックは右に倒れながら土手から飛び出した。地雷にかかったのだ。何も覚えていないが、かすかに足の下に美しい青空が見えた記憶がある。まっさかさまに放り出されたのだ。重症を負い、後遺症に苦しんだ。 
 戦後40歳過ぎて、日本で専門医の診断を受けたが、頚椎捻挫、外傷性硬膜下出血であったといわれた。全く命拾いである。淮南鉄道撤去の影響は大きい。 
 
 そして8月15日、敗戦と同時に合肥県城は敵に囲まれた。敵の各部隊は日本軍の武器を手に入れようとひしめいていた。然し、警備隊は現地での武装解除を嫌い、淮南まで移動することを決定、19日払暁、総員脱出した。城外でわずかな銃撃を受けたが戦闘にはならず、脱出は成功したが、居留民の保護はタライ回しで決まらない。結局、身軽な立場の私が引き受けざるを得なかった。 
 合肥には29名もの民間人が入り込んでいたとは知らなかった。将校用慰安婦、隊外酒保(兵用飲食店)経営者、物資買付商人等であったが、2才の幼児を連れた夫婦者もいた。この烏合の衆を、炎天下、全く日陰のない道を80kmも死なせずに歩かせて、九竜崗の領事館出張所まで連れて行く自信はなかった。1日目の午後、早くも部隊に死者が出た。下痢患者は脱水症状に弱い。2日間の予定を3日掛けることになり、2晩星を仰いで寝た。 
 29名の水の確保が大変だった。休憩中、農家に走り汲み置きの水を飯盒と水筒に分けてもらった。九竜崗に着いて、領事館員に引き継いだとき、急に疲れが出た。今時の流行語だが、自分を褒めてやりたい。淮南鉄道撤去の影響は日本軍にも大きくのしかかった。自業自得である。 
 
 戦争に常識は通用しない。戦場で紳士的な軍隊など見た事もない。同情心、良心を捨てなければ戦争はできないことを、私は7年間充分に体験した。 


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