2006年05月05日10時59分掲載
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検証・メディア
06年「憲法」社説を読んで 「平和への責任」を捨てたのか 安原和雄(仏教経済塾)
かつて新聞の「社説」を書く立場にいたジャーナリストの一人として憲法記念日(5月3日)の大手メディア6紙の社説を読んだ。その印象は、東京新聞1紙を除いてなぜ「平和への責任」を捨ててしまったのか、である。急速度でメディアの変質が進行しつつあるという想いが消えない。国家権力にすり寄る大手メディア―とあえて形容しても誇張とはいえない状況である。このままでは60年以上も前の戦前、戦時中の過ち―軍事同盟と戦争賛美の大合唱―を繰り返すことにもなりかねないという自省の念はないのだろうか。
まず6紙(5月3日付)の社説見出しを紹介しよう。
朝日新聞「軍事が突出する危うさ 米軍再編 最終報告」
(4日付「国民と伝統に寄り添って 天皇と憲法を考える」)
毎日新聞「憲法記念日 情熱をどう取り戻すか 改正空騒ぎのあとしまつ」
読売新聞「在日米軍再編 同盟を深化させる行程表の実行」
「憲法記念日 小沢さんの改憲論はどうなった」
産経新聞「在日米軍再編 首相は実現に向け努力を」
(2日付「あす憲法記念日 脅威への備えは十分か 9条改正して自立基盤を作ろう」)
日本経済新聞「在日米軍再編を日米の共通利益に」
東京新聞「<平和>を生きた責任 憲法記念日に考える」
一見して分かるように全紙が憲法にしぼった社説を掲げているわけではない。これは日米の軍事、外務担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)が1日ワシントンの国務省で開かれ、在日米軍再編の「最終報告」が決まり、公表されたからである。ただこの「最終報告」と平和憲法の改定とは密接に絡み合っていることを承知しておきたい。 以下ではそういう視点も含めてコメントを加えたい。
▽明言を避けて、逃げ腰の朝日新聞、
朝日新聞は次のように書いている。
「今回の最終合意では、日米同盟を<グローバルな課題>に対するものと位置づけた。民主主義や人権などの価値を共有する国として、共通の戦略目標を追求するとの原則は分かる。だが、日米の国益がいつも重なるとは限らない。文化も歴史も、取り巻く国際環境も違う。きょう59歳を迎えた日本国憲法の理念もある。日米で戦略的な優先順位が異なることはあって当然だ」と。
この文章の中で気になるのは、「・・・は分かる。だが、」という言い回しである。この種の表現が多すぎないか。「軍事のない同盟は存在しないが、軍事が先走りする同盟は危険だ」も同様である。軍事同盟そのものを容認しながら、軍事行動にちょっぴり疑問符を付けてみせる手法はいただけない。
軍事突出や「最終合意」に疑問が多いのであれば、なぜ「軍事同盟や最終報告は賛成できない」と明言しないのか。翌日の4日付社説で何を論ずるのか、興味と期待を抱いたが、なんと「天皇と憲法を考える」である。憲法記念日に憲法9条問題に正面から立ち向かわない朝日の論説陣は何を考えているのか。逃げ腰というほかない。
▽憲法問題を情熱にすり替える毎日新聞
毎日新聞の「情熱をどう取り戻すか」という社説は、持って回った表現が多く、一読しただけでは真意が容易につかめない奇妙な内容である。こちらも情熱をかき立てて読み直してみよう。つぎのように指摘している。
「憲法改正は理屈だけでは到底動かない。変えたい人間の情熱を呼び起こさなければ絶対にできない大事業だ。そのためには政治の中心にいる首相にその情熱がなければできない。そもそもそこが欠けている。もし憲法に起因する諸矛盾を解消し、目的をはっきり持った日本国を再建しようとするなら、首相から選び直さないとできない」と。
憲法は改定すべきだが、小泉首相にその情熱がないから、事がうまく運ばない。次期首相には積極的な改憲派の人物を据えるべきだ、とでも言いたいのか。
問題は、憲法をどう変えるのか、あるいは変えるべきではないのか、そこを社説はどう考えるのか、である。
「憲法改正という日本では政治的に最大の難事が必要になるであろう現実は、集団的自衛権の行使と自衛隊の海外派遣がどうしても必要になる時と見られていた」と述べているところをみると、集団的自衛権行使と海外派兵のための改憲が必要という認識らしい。
この2つの柱はまさに自民党の新憲法草案(05年10月正式決定)と今回の在日米軍再編の最終報告がめざすところである。肝心な点を曖昧にして改憲問題を情熱にすり替える「めくらましとごまかし」(社説の言葉)は返上したい。
▽改憲を主張する読売、産経新聞
読売新聞はかねてから改憲を主張してきた。今回の在日米軍再編について「日米同盟が、質的な変化を遂げ、新たな段階に入る」と冒頭で指摘した後、次のように書いている。
「最終合意を受けた日米共同声明は、日本及びアジア太平洋地域にとどまらず、<世界の平和と安全を高める上で>日米同盟が極めて重要としている。イラクやイランの国名を挙げ、中東への関与も明確に視野に入れている。変化にあわせて、日米同盟の目的、理念を柔軟に見直し、日本の役割と責任を明確にするのは当然のことだ。それが日米同盟を一層深化させる道でもある」と。ここでは日米同盟の深化を全面的に肯定している。
一方、憲法記念日にちなんだ社説「小沢さんの改憲論はどうなった」では改憲論者の小沢一郎民主党代表が最近消極的姿勢に変化しているという認識に立って、「憲法改正には国会議員の3分の2の賛成が必要だ。現状では民主党の賛成なしには憲法改正はできない」と小沢代表が改憲に積極的に取り組むよう促している。
産経新聞は憲法については、いわゆる抑止力は不可欠という立場から「日本が激動する東アジアで生きぬくためにも脅威への備えを怠ってはならない。核心は9条の改正である」と主張している。
また在日米軍再編については「日本の平和と安全だけでなく、世界の安定に資するものと評価したい」と述べている。
読売、産経共にいまでは日米安保体制=日米軍事同盟の強化を目指す政府与党との運命共同体の一員を自任し、その広報マンよろしく振る舞い続けるハラらしい。
▽石油確保のため軍事同盟を重視する日本経済新聞
日経新聞は経済専門紙らしく、石油資源確保の観点から米軍の抑止機能を重視し、つぎのように指摘している。
「日米のGDP(国内総生産)の世界シェアは日本11.5%、米国29.1%であり、あわせて40%を超える。したがって日米が同盟で結ばれている事実は世界の安定にとって意味がある。紛争の地、中東への日本の原油依存度は90%であり、米国のそれは15%とされる。日本経済は世界の安定を基礎にする。機動的な米軍の存在には紛争抑止機能がある。基地提供でそれを支えるのは、同盟国の責任であり、日本自身の安全保障のためでもある」と。
有限資源で、しかも埋蔵地域がいちじるしく偏した石油に依存する石油浪費経済は、必要以上に自然から資源を収奪するため、それ自体暴力的であるが、その石油を軍事力という暴力手段でにらみを利かしながら確保するのは、二重の意味で暴力的である。
こういう暴力に果たして正当性と持続性があるだろうか。軍事力によって安定と安全が確保できないことは、かつて米国はベトナム侵略から敗走したこと、さらに現在米軍のイラク攻撃が挫折に見舞われていること―などから証明済みではないのか。
▽平和を願って道理を説く東京新聞
「<平和>を生きた責任」と題した東京新聞社説は冒頭で社説の趣旨を「歴史の歯車を逆転させてはいけない。憲法の役割が変質するのを見過ごすようでは、平和の時代を生きることができた者の次世代に対する責任が問われる」と要約している。つづいて平和憲法を擁護する立場から以下のような重要な論点をいくつか提示している。
*「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」―この憲法第99条は、前文の「平和の誓い」や第9条の非戦非武装宣言とともに憲法の核心部分である。憲法は国民にあれこれ指図するのではなく、公権力を縛るものである。
*敗戦を機に日本国民の間に価値観の大転換が起きた。戦争による紛争解決から国際平和主義へ、軍国主義から民主主義へ、滅私奉公から個人の尊重へ、・・・軍事を最優先にしない価値観が確立した。ところが、経済的繁栄の中で多くの日本人が初心の継承を忘れ、戦後的価値観を劣化させてしまったようにみえる。
*改憲が政治テーマになっているいま、改憲論者の狙いをしっかり見極めなければならない。
*自民党の新憲法草案は「帰属する国や社会を愛情と責任をもって支え守る責務」を国民に求めている。これは憲法を「公権力の行動規範から国民の行動規範へ」の転換を求めるものである。
*前文や第9条の改正は「戦争ができる国」の復活を意味する。勝利を目指せば軍事を優先せざるを得ないのは論理的帰結である。憲法観、国家観の根本的な逆転換といえる。
*日本社会では自由競争政策のあおりで少数・異端者、弱者への寛容さ優しさが薄れている。相手の気持ちを理解しようとしないナショナリズムも台頭してきた。
*国家も国際社会も、全体の調和を保ちながら各個人、各国家が個性を発揮する「粒あん」のようでありたい。そのためには互いに相手を尊重することが基本である。
以上、東京新聞の道理に基づく主張や提案には同感である。しかも見出しに「平和を生きた責任」をうたい、新聞としての「責任」を明記したことに、品格ある社説として敬意を表したい。これに比べれば、他紙の社説はいかにも見劣りがするのは否めない。大づかみにいえば、「平和への責任」を投げ捨ててしまったものとみるほかない。
▽ジャーナリズムは「権力の監視役」を堅持すること
もちろん新聞がどのような主張を展開するか、それは自由である。しかし譲れない一線がある。それはジャーナリズムが「権力の監視役」としての役割を放棄しないことである。これを忘れては、「ジャーナリズムの堕落」という以外に私は表現を知らない。
もう一つ、私は日米安保体制=軍事同盟の解体が必要だと考えており、したがってその強化路線には反対する立場にこだわりたい。その理由は以下のようである。
*軍事力という暴力を肯定するわけにはいかないこと。日本が憲法前文の「平和共存」と9条の非戦・戦力不保持の理念を投げ捨てて、「戦争への道」を選択することは、それこそ「国家の品格」にかかわること。
*軍事同盟は世界的にみて、解体ないし弱体化の方向にある。在日米軍の再編による日米軍事力一体化とその強化は、歴史の流れに逆行する愚策であること。
*世界が直面している「いのちへの脅威」は地球環境の汚染・破壊、異常気象、感染症、飢餓、貧困、水不足、食糧不足―など多様であり、軍事力中心の安全保障観は陳腐化していること。したがって新たな「いのちの安全保障」観を確立すべき時代であること。(拙論「<いのちの安全保障>を提唱する―軍事力神話の時代は終わった」足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、06年1月刊・参照)
▽歴史の失敗に学ぶべきこと
国としての進路を誤らないためには、歴史の失敗に学ぶことは避けて通れない課題である。ここでの歴史の失敗とは、いうまでもなく国を挙げて侵略戦争に進み、日本人の犠牲者310万人、アジア諸国の犠牲者約2000万人ともいわれる計り知れない惨禍をもたらした事実である。
その道程を振り返ってみると、昭和はじめの改正治安維持法(死刑、無期刑を追加)実施(1928年=昭和3年)によって言論・思想の自由つまり権力を批判する自由は封じ込められた。ここから戦争という昭和の悲劇への地ならしが始まったとみていい。政府・与党が今国会で成立を図ろうとしている共謀罪新設法が改正前の治安維持法に相当するという強力な反対がある。
侵略戦争の始まりを告げたのが満州事変(1931年=昭和6年)であった。ここから現在の状況を「満州事変前夜」とする見方がある。このアナロジー(類推)には一理ある。というのは自民党が目指す憲法9条の改悪によって正式の軍隊を持つことになれば、一段と強化された日米安保=軍事同盟体制下では米軍と一体となって日本軍隊が軍事力を公然と行使する「戦争への道」につながることは明らかだからである。
▽今は、戦前の「日独防共協定」調印当時、という見方も
「満州事変前夜」はたしかに一理ある見方であるが、私は事態はもっと先へ進みつつあるのではないかと考える。あえて歴史的アナロジーを使えば、今は「日独防共協定」調印(1936年=昭和11年)当時とみるべきではないだろうか。この日独防共協定はやがて日独伊3国同盟調印(1940年=昭和15年)へと拡大し、その翌年41年12月、アジア太平洋戦争が始まり、ここから未曾有の悲劇の泥沼へ落ち込んでいく。
なぜ今、日独防共協定調印当時なのか。その理由は2つある。
1つは日本はすでに事実上参戦しているからである。満州事変はすでに飛び越えているとみたい。
人道支援の名目で自衛隊をイラクへ派兵しているが、たしかに米軍と一体となった地上戦闘には参加していない。しかし見逃せないのはインド洋に自衛艦2隻を常時配置し、米軍向けを中心に石油の補給を行っている事実を重視したい。
どうも日本では補給、輸送、修理などの後方支援を軽視し勝ちだが、後方支援なしには前線での戦闘は不可能である。自衛隊は必要不可欠の石油を補給することによって米軍と一体となって戦闘に参加しているのである。だから米軍は自衛隊の後方支援を高く評価している事実を見逃してはならない。
▽「日米同盟の新たな段階」が意味するもの
もう1つは在日米軍再編で日米が合意しことである。これは戦前の防共協定調印に相当するとみたい。在日米軍再編の最終報告「共同発表」は、「再編の実施により、同盟関係における協力は新たな段階に入る」とうたいあげている点を、私は戦前のアナロジーから以下のように解読したい。
防共協定は「防共」が名目ではあるが、実体は人権、自由、民主主義を抑圧する日独ファシズムの連合であり、そこに大義名分はなかった。だから米、英、ソ連などの連合軍に敗北し、戦後の世界秩序は米国主導の連合国の手で作られた。歴史的大道に反したファシズム連合国(後にイタリアが参加)は敗北する運命にあったといえる。
では今日の日米連合軍はどうか。なるほど在日米軍再編の「共同発表」は、「世界の平和と安全」を掲げてはいる。しかしその実体は日米軍事力の一体化とその強化、すなわち突出した世界最大の軍事力という暴力によって「人権、自由、民主主義、法の支配」(共同発表)を世界に押し進めようとする狙いであり、その暴力に道理はない。勝利への展望はかけらもないとみたい。かつてのファシズムと同様の運命をたどる公算大であろう。
テロ対策も狙いの1つである。テロを正当化することはむろんできないが、テロを軍事力で封じ込めようとすることは「暴力による報復の連鎖」を招く結果しか期待できないのではないか。
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*安原 和雄
毎日新聞論説委員等を経て、仏教系の足利工業大学教授へ転身して仏教経済学に関心を抱く。現在はフリージャーナリスト、足利工業大学名誉教授、「仏教経済フォーラム」副会長。経済理論学会・日本経営倫理学会の各会員など。
著書:『足るを知る経済ー仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社刊)
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