2006年07月16日14時14分掲載
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紛争の根底にある新部族主義政策 制度構築を破壊したアラファト ジム・レダーマン
【openDemocracy特約】ガザで起きた最近の戦闘に関して、直後の状況や周辺事態について多くの説明と解説がなされ、イスラエルとパレスチナのどちらの主張が世論により大きな影響力を持つのかというお決まりの議論であふれている。
しかしながら、両者が本当に懸けているのは、戦闘の理由として公に言われていることをはるかに超えている。戦闘は、イスラエルが拉致された兵士を解放できるかどうか、イスラエルの市や町に対するパレスチナのロケット攻撃をやめさせることができるか、市民が包囲された状態で、パレスチナ戦士が革命的情熱と一般の士気を維持できるかどうか、などよりももっと大きな意味を持っている。
実際、この危機で起きていることは、過去10年間の紛争の政治的周期の過程で両者が発展させてきた、イスラエル国家とパレスチナ民族闘争の対照的な政治的性格の観点から最も理解できる。
イスラエルからの観点
主として、パレスチナ人の2回のインティファーダの結果から、イスラエル人の大多数は、イスラエルは40年近くの占領からそれ自身を解放しなければならない、という結論に達した。過去数年の間に、占領は負担するのに高くつき過ぎるという国民的コンセンサスがゆっくりできつつある。入植計画と入植地の防衛に数億ドルが注ぎ込まれたが、その他の必要とされる投資(道路から医療サービス、教育まで)は放置されてきた。さらに、人口動態の現実、特にパレスチナ人の高い出生率は、ユダヤ人の民主国家としてのイスラエルの存在そのものが脅かされるように感じられる。
パレスチナ人との紛争を政治的に解決するという希望に見切りをつけて、特にオスロ合意の崩壊とハマスの台頭(今年1月の選挙で頂点に達した)の後、イスラエル人の大多数は、紛争の唯一の解決策は、両民族の完全な分離である、という結論に達した。ガザからの撤退は、分離プロセスの最初の一歩であるはずであった。
しかしながら、そのような一方的行為は、それに伴う安全保障モデルがあって初めて達成される。
イスラエル軍は当初、工業化した国民国家が行うような戦闘を戦うように設計されていた。これらの戦争は通常、戦力の大量動員、火力の大量使用、技術革新の発展、重要インフラ施設の破壊、経済制裁を伴う。ヨーム・キップール戦争(訳注:1973年の第4次中東戦争のイスラエル側の呼び方)以後、特にエジプトとの平和条約以後、国民国家との交戦の脅威は弱まった。代わって、パレスチナ・ゲリラとテロリスト攻撃の数が増え、重点は対ゲリラ戦に移った。
最初のインティファーダは都市ゲリラ戦争モデルの一変種で、最終的にはイスラエルの軍事行動で封じ込まれたが、壊滅はさせられなかった。それはオスロ合意の調印で終わった。オスロ合意は、イスラエルは国家形成中の潜在的中央政府と拘束力のある協定を結びつつあるという古典的な外交上の想定に基づいていた。
しかしながら、ヤセル・アラファトが1994年、パレスチナ自治政府の長となると、アラファトは古くて新しい概念を導入した。それに対してイスラエルは、まったく備えがなかった。部族(tribal)統治と部族戦争である。
パレスチナの新しい路線
典型的な国民国家のモデルは、強力で垂直的に組織された、階層的中央政府を求める。それは国富を増加させる政策を取ることができる。収入の一部を公共サービスの形で再配分することが期待される。典型的国民国家の戦争もゲリラ戦争も、階層的な政治・軍事的枠組みに基づいており、その任務は戦略的目的を達成することである。通常、敵対政権の抑止か打倒である。
パレスチナの抵抗運動は、西側で教育を受けた知識人(とヨルダン川西岸の少数派としての地位を恐れたクリスチャンと共産主義者)によって鼓舞されたもので、1970年代と1980年代を通じて、新生の近代国家において市民社会をつくるために、必要な制度を構築することに多くの努力を注いだ。
統治の階層的体制は、強さと弱さの両面を持つ。特に、戦略を策定し、将来計画を立てることを可能にさせる。しかしながら、国家がより複雑になり、地域的に統合されると、通信の指揮と管理ラインでの混乱に、より脆弱になる。
アラファトがやってくると、彼は直ちに、構築された制度の解体や骨抜きを始めた。国際的メディアで目立っていたサリ・ナサイベ、ハナン・アシュラウィ、ハンナ・シニオラら制度構築運動の指導者は政治的に窓際に追いやられた。
アラファトがしようとしたことは、すべての通信報告のラインが指揮系統を通じてではなく、直接、自分に届くようにし、すべての脅威を与えそうな恐れがある中間者、脆弱な中間者を排除することであった。そのため、彼は政府のキャッシュフロー(資金繰り)と支出を全面的に管理する体制を作り上げた。国家の金を引き出すためには、直接アラファトに、頼まなければならなかった。同時に、常に治安と民間が競い合う枠組みを作った。内部からの脅威を撃退する支持同盟をいつでも作れるよう、操縦できるようにした。
アラファトが育成したグループのほとんどは、民間であろうと政府のものであろうと、氏族を基にしていた。取引は次のようなものである。有利な取り計らいと引き換えに、それぞれの氏族は、アラファト自身へのあらかじめ定められたレベルの支持を保証する。彼ら自身の利益を守るために、ほとんどの氏族は彼ら自身の民兵を作るか、何らかの方法で、複数ある国の治安機関のひとつか、ファタファの民兵、アルアクサ旅団と組んだ。
2004年11月にアラファトが死ぬと、多くの民兵は新たな雇い主を探し始めた。イラン、ヒズボラ、シリアらこれに応じてきた者に対して、いつでも雇うことができる武装集団を提供した。政治路線を変えて、ハマス支持に変わったものもあった。
しかし、それはすべてではない。アラファトは政治・社会的分断と競争の遺産を残しただけでなく、汚職(有力な支持グループと個人を維持するため、支払わなければならなかった)の遺産も残した。西側諸国がそうした問題を改善するのに使う制度、たとえば、裁判所、警察、社会サービスは全面的に混乱していた。イスラエルも一役買っていた。2000年9月にアラファトが第2次インティファーダを始めることを決めたことに怒って、イスラエルはアラファトの誤った統治を免れた数少ない制度を弱体化しようとした。
イスラエルと西側が今日、パレスチナ自治政府を理解し、対応するうえで困難になっているの理由のひとつは、部族統治と部族戦争が伴うものについての概念がないことである。ユダヤ人は、紀元前722年にアッシリアがイスラエルの10部族を離散させたことで、部族主義をなくした。米国人は白人が「原始的」とすぐに片付けたアメリカ・インディアンの部族主義を除いて、部族主義と接触を持たなかった。欧州人は1300年の大部分を部族主義を潰そうとして過ごし、ドイツで19世紀になってやっと、その最後の大規模な名残を廃止した。欧州人は、それがどのようなものであったか忘れている。
部族戦争への切り替えは、イスラエルには明らかに当惑させられるものであったが、パレスチナ人にとって、純粋に喜ぶべきことではなかった。アラブ諸国と違って、パレスチナ人は約80年にわたって、慈悲深いかそうでないかを別にして、強力な植民地政府のもとで暮らしていた。この結果、少なくとも、ほとんどの人が生活を続けることができる一定の安定をもたらした。パレスチナ人は、レバノンを悩ませた部族・宗派的な国内混乱、アルジェリアを悩ませた宗教的内戦、シリアのフェズ・アサド大統領が部族・宗教的反対者に対して用いた大量殺害と虐殺を免れた。
植民地体制のもとで、氏族指導者は武装解除され、氏族のメンバーと中央政府のための仲介者と代理人の役割を果たした。氏族の競争はなくならなかったが、ほとんど停止状態のままであった。部族主義の再導入は、過激イスラムの台頭と相まって、他のアラブ世界を千年以上支配してきた同じ問題をパレスチナ人にもたらした。
部族主義に伴う問題
ムハンマドがイスラム国をつくった時には、彼は部族主義を自然的社会秩序と見なした。砂漠ではひとりでは長くは生きていけない。さらに、マスコミュニケーションと良質な道路ができる前の時代では、部族は聖戦のために部隊を動員する便利な方法であった。信仰を代表した戦士は、天国の場所だけでなく、地上の捕虜からの戦利品、略奪品、身代金を約束されていた。
ムハンマドは部族を潰さずに、地上のすべての部族がシャリアという法典のもとで結びついた、ひとつのウンマ(訳注:イスラム共同体)を想定することで、既存の部族間同盟の政治的パラダイムを広げようとした。統治はある種の中央集権構造を必要としたので、支配はカリフに与えられる。カリフは、シューラと呼ばれる宗教学者のグループから助言を受ける。
しかしながら、ムハンマドの死の直後、このシステムは崩壊し始め、今日見るようなシーア派とスンニ派に分かれているように、分裂していった。
神権政治のどの概念においてもある中心的欠陥は、宗教があるべき世界に専念するのに対し、政治は現実の世界に重点をおくことにある。これが往々にして現実と理想の間で過度の緊張をもたらす。さらに、神政政治の環境は通常、信者のグループの間で敬けんな行為についての競争を招く。それは国内の社会的妥協を排斥する。
この環境が、人間の金への弱さと利益のための部族の競争と結びついた場合、社会紛争は確実に風土病になる。結果として起きる相互不信の環境の中で、陰謀論がはびこり、さらに社会が不安定になる。過度な国内緊張を和らげる少ない方法のひとつは、外部の真の脅威、あるいは仮想の脅威に焦点を絞ることである。
アラブ世界が過去千年間に衰退した理由のひとつは、安定した中央集権の支配、戦略的計画を長期に可能にする体制を発達できなかったためである。王朝は比較的短期に終わった。相互不信は、利益を早く求めて戦術的計画に重点を当て、大規模な社会体制をさらに弱体化させる。
アラブ世界全体に見られた強力な独裁政治も解決策ではなかった。必然的に縁故主義、管理における怠惰、汚職に陥る。米国をイラク戦争に引きずり込んだ一部のネオコンが学んだように、民主主義それ自体は解決策ではない。
これは、民主主義をうまくいく政治体制とする要素、つまり大衆の能力主義社会と、制度と支配者に対する大衆の監視に基づいた制度構築が、部族主義が支配している場合は存在しないからである。部族、氏族、それにカリスマ的指導者に率いられた部族のような結束の固い宗教団体は、個別の利益と権利のために、そろって投票する。政治家はまとまった票をめぐって争い、不安定化させる汚職を招く。これは、例えば、エジプトのホスニ・ムバラク大統領がエジプトを民主化させようとする米国の圧力に強く抵抗する理由のひとつである。
氏族政治の論理
パレスチナの中央機構の崩壊は、ハマスが選挙に勝利した時に速まった。ハマスは、一連の社会奉仕制度をうまく運営してきた。特にガザでは。しかしながら、ハマスは、街角の小さな八百屋のチェーン店が急にテスコ(訳注:英国最大手のスーパーマーケット・チェーン)の経営を頼まれたのと同じような立場におかれてしまったことを自覚した。
過去においてハマスは、慎重な支出に心掛けたが、選挙で選ばれると、大企業の基礎的経営の仕事、つまりにキャッシュフローの維持に重点を置かなければならないことがわかった。この点で、前政府がイスラエルと結んだ協定を受け入れることを拒否するという理想と、支援国は異なった認識を持っているという現実がぶつかった。
パレスチナ人がキャッシュフローの大部分を依存している支援国は、協定は再交渉されるまで拘束力があるべきだと考えた。しかし、キャッシュフローが継続するよう交渉をすることは、理想で妥協し、支援国が要求する財政の透明化と安定をもたらす、機能する制度を再構築することを意味した。
しかしながらハマスは、政治的妥協が受け入れ難いほどつらいものであることが分かっただけでなく、過去においてハマスが支持していた氏族を基盤にした民兵が制度構築に反対し、手におえないままであることも分かった。「人民抵抗委員会」という名のもと、民族主義的革命的名声のために緩やかに結集した氏族を基盤にした民兵は、常に短期でグループの利益だけに関心があった。
それらの利益には、もうかる密輸とのつながりの維持、冥加金取立ての運営、仕事以外の関心事に有料のサービスを提供することなどがある。加えて、ダマスカスにいるハマスの国外指導部と「イスラム聖戦」は、支援国が受け入れられるような制度構築に対して、等しく興味を持っていなかった。西側外交官とメディアは、交渉が可能な「穏健派」をずっと探してきたが、ハマスにはいなかった。唯一の本当の対立は、必要性から最も基本的な国家制度を構築しようとした者たちと、その取り組みに反対した者たちの間にあった。
キャッシュフローの問題と、地元ハマスの「制度主義者」(パレスチナ首相のイスマイル・ハニヤなど)を支持した者たちと、ダマスカス駐在のカリード・メシャルが率いる強硬派を支持した者たちの間の対立が一緒になって、さらに多くの問題がでてきた。ハマスと結びついた民兵、あるいはハマスのイザディン・アル・カサム民兵内の別の部隊が、個人的な利益のために彼ら自身の主導権で動いているのか、それとも雇い主(メシャル、ハニヤ、あるいは外国政府)からの命令を受けているのかを見極めるのは、現在では困難である。
この事実から、最近起きた他のふたつの政治的出来事の一部が分かる。ひとつは、ハマスが新しい国家治安機関の創設を決めたことである。この機関は、ファタハから脱退した、有力な氏族民兵指導者ジャマル・アブ・サマダナの指揮下に入ることになっていた。もうひとつは、ハマスとファタハがいわゆる「囚人文書」についての協定の交渉に注いでいるエネルギーである。この文書はイスラエルの刑務所にいるハマス、ファタハ、イスラム聖戦の指導者がまとめた共同政治マニフェストである。
ジャマル・アブ・サマダナをこの治安機関の長として選出するという決定は、典型的な部族同盟をつくる試みであった。それは政府と、独立した不安定化させる可能性のある民兵グループになっていたかもしれないものとの間で通信のヒエラルキーを確立する取り組みが伴っていた。
ファタハが支配する治安機関とファタハと関係した民兵は、何が起きているか認識し、それを民兵間の力の均衡に対する直接の脅威として見なして、武力に訴えた。アブ・サマダナがイスラエルに暗殺される前に、ハマスの取り組みを潰した。
中央政府が完全に崩壊するのを防ぐために、いわゆる「囚人文書」の交渉に注がれるエネルギーは、多くの評論家が主張するのと反対に、イスラエルを暗黙にうちに承認する方法を探る試みではなかった。最小公分母の合意に基づいた、もうひとつの部族同盟をつくる典型的な試みの例であった。
消耗戦争
この新部族主義の結果は、自己永続的で方向性のないニヒリズムであった。それはテロリストの自爆を生み出したのと同じ発想であり、国家レベルに拡大したものであった。新たな秩序に対して、平均的パレスチナ人がどの程度、不満を持ち混乱しているかは、パレスチニアン・エルサレム・メディアとコミュニケーション・センターが行った世論調査を見れば分かる。それによると、パレスチナ人の18%しかハニヤを支持しておらず、さらに少ない13%しかマフムード・アバッス議長を支持していない。残りのうち、27%はどの指導者も信頼しておらず、その他は多くの氏族と政治派閥の指導者を支持していた。
このようなことは、イスラエルにも、仲介者として役割を申し出ている西側諸国にも慰めにはならない。
イスラエルは、アハメド・ヤシン師やヤーヤ・アヤシのようなハマスの指導者を狙った効果のない暗殺を何年も続けた後、部族戦争では、一旦破壊されれば、軍事・政治闘争の路線を変えられるヒエラルキーも、「住所」もないことが分かった。これは、アフガニスタンにいる連合軍とイラクにいる米軍も学んでいる教訓である。
一方、西側の仲介者になるかもしれない者は、中央政府と結んだ協定が、独立民兵の一群によって破られないという保証はできない。
この情勢で、イスラエルのガザへの侵入が有意義な結果をもたらすことはできない。イスラエルのタンクがガザに侵入した時でも、カッサム・ロケットが飛び、イスラエルの町や村で爆発した。さらにイスラエルは、密告者が出てこない限り、拉致された兵士ジラード・シャリットを見つけ出すことはできそうにない。それゆえに、現在の軍事作戦は単なる時間稼ぎの試みである。抑止の手段を保証し、さらに一般大衆と国際的に受け入れられる、新しくて効果的な安全保障の原則を生み出すことはしないまま、イスラエルの町に対するロケット攻撃をやめさせるために「何かしろ」という国民の要求に応えようとしたのである。
イスラエルの将軍や政治家の言うことを信じるならば、その間にイスラエルは、さらなる総消耗戦争(訳注:1969年−1970年の戦争を消耗戦争と呼ぶ)の一部として、ヨルダン川西岸とガザへの優柔不断だが血まみれの侵入を続けそうである。
*ジム・レダーマン オックスフォード・アナリティカの中東上席アナリスト 著書Battle Lines: The American Media and the Intifada、Israel at 50: History and Economy
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オックスフォード・アナリティカ
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本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netに発表された。
原文
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(翻訳 鳥居英晴)
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