2006年07月23日15時45分掲載  無料記事
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中東

米・イランの代理戦争の様相 イスラエルの「旧式思考」は自己破壊的 ポール・ロジャーズ

openDemocracy  【openDemocracy特約】シリアとイランが間接的に関与していようといまいと、レバノンで起きていることは米国とイランの間の代理戦争に発展しはじめたというのが現実である。それは、事態が少なくとも米国からどのように見えるかということである。米国のはっきりしたメッセージは、イランが真の問題であり、イスラエルがイランの代理人であるヒズボラをレバノンの国境で活動不能にし、さらに壊滅させるのは妥当であるというものである。 
 
 イスラエルにとってヒズボラに対して完全に勝利する必要があるのは、ふたつの特徴がある。第一は、イスラエルにとってイランに直接の撃退を下すことである。イスラエルと米国の政府は、今起きていることにイランの影響力を見ている。彼らはこの影響を大きく過大評価しているかもしれない。だがそれが彼らの立場であり、ヒズボラの敗北はイランに必要なメッセージを送ることになる。 
 
 第二のより重要な要素は、イスラエルか米国かが今後数ヶ月の内にイランの核施設に攻撃をした場合のことである。これに対するイランの選択のひとつは、ヒズボラにイスラエル対して戦線を開くようそそのかすことであろうという認識がある。イランの核施設に対する攻撃は、イラクの米軍に対する攻撃や湾岸の石油輸送の妨害などの事態が予想され、危険が伴う。(Paul Rogers, Iran: Consequences of a War, Oxford Research Group, February 2006) 
 
 この文脈において、ヒズボラのイスラエルに対するロケット砲撃の能力を破壊することは、イランを攻撃する上でのひとつの問題を片付けることになる。「最初に報復を受けておく」ということである。さらにワシントンのムードは、従来のネオコン・センターを超える支持を得て、イランとの対決にはっきり向かった。(Jim Lobe, "The drums of war sound for Iran", Asia Times, 21 July 2006). 
 
 2002年から2003年にかけてのワシントンでの共通の見方は、イラクのサダム・フセイン政権の終結と米軍の存在に支援された友好的な政府の樹立は、同地域の米国の利益を脅かすイランの潜在的脅威は大幅に減じられるというものであった。「もしイラクがうまくいたら、イランにまでいく必要がなくなる」とよく繰り返された。もっと口語的に言うなら、「テヘランへの道はバグダッドから通じる」というものであった。 
 
 ブッシュ政権とそのネオコンの応援団は「イラクでしくじった」。その結果、テヘランへの道はバグダッドからではなく、ベイルートから通じるのかもしれない。 
 
▼コントロールを失いつつあるイスラエル 
 
 ほとんどのイスラエル人にとって、レバノンでの戦闘は、イスラエルの安全保障にとって必須の要件である。それはイスラエルが60年弱の中で戦った6番目の戦争であるかもしてない(抑圧されたパレスチナ人の2回のインティファーダ(蜂起)もある)。だが、ヒズボラの侵入と何百というイスラエル北部へのロケット攻撃の効果は、選択の余地がないことを意味する。 
 
 イスラエル政府とブッシュ政権は、ヒズボラは壊滅できなくても、活動不能にすることはでき、イスラエルは再び安全になると信じているのかもしれない。実際には現実はかなり違うかもしれない。イスラエルがレバノンでしていることは、実際には、特にプロセスを数週間や数ヶ月ではなく今後数十年ではかるなら、イスラエルを非常に脅かしているという強固な議論が今ある。これを理解するために、現在の危機を過去の紛争の視点から見ることは理に適っている。 
 
▼5つの戦争 
 
 イスラエルが1948年5月に国家として建国されると、直ちに最初の戦争が起きた。主として、エジプト、ヨルダン、シリアと戦い、イラクとレバノンを周辺にした戦闘であった。パレスチナ人は戦闘にほとんど巻き込まれなかったが、数十万人が主にレバノンとヨルダン(ヨルダン川西岸)とガザに逃れた。休戦とともに、委任統治されたパレスチナの約80%を占領し、イスラエルは分割で割り当てられたのより、領土が広がった。そうであっても、エルサレムが分割され、国境が異様に入り組んだためだけでなく、イスラエルは自らを脆弱なものと見なした。 
 
 1956年のスエズ危機をめぐる英国とフランスとの衝突(第2次戦争)で、国連平和維持軍という緩衝軍が短い間いた。イスラエルは事実上、シナイでエジプトから切り離された。国連緊急軍の撤退というナセルの要求は、1967年6月の6日戦争(第3次戦争)へつながる重要な要素のひとつであった。この戦争でイスラエルは、西岸、シナイ、ゴラン高原を占領した。 
 
 多くのイスラエル人にとって、6日戦争は永続的な安全保障を与えるはずであった。確かに、ヨルダンは懲らしめられ、エジプトとシリアはさらに紛争を起こす気力がなくなった。しかし、100万人以上のパレスチナ人がイスラエルの軍事占領下におかれ、さらにそれ以上が同地域全土での難民キャンプに住むことになった。1960年代の終わりには、パレスチナ・ナショナリズムが台頭した。 
 
 1970年代の初めには、イスラエルにとってパレスチナ解放運動が大きな脅威であった。1973年10月のヨムキプール/ラマダン戦争(第4次戦争)では、イスラエルは不意打ちにあった。エジプトとシリアは失われた領土を回復しようとし、イスラエルに対して、パレスチナ人との和平協定を認めさせようとした。それは失敗した。戦争は始まったのとほとんど同じ状態で終わった。エジプトとシリアは大きな損害を被り、イスラエル社会は、精鋭部隊の一部を失ったことに衝撃を受けた。 
 
 その経験と汚職事件が相まって、3年間の労働党連立政権が終わり、右翼リクードが台頭した。メネヘム・ベギンらは、西岸とガザの支配に集中した。また、国内の反対に逆らって、シナイからの撤退を交渉し、キャンプ・デイビットでエジプトとの和平を結んだ。 
 
 その戦争はパレスチナ人の決意を減じることはほとんど、あるいはまったくなかった。彼らの活動の多くがレバノンからくることから、イスラエルは1982年にレバノン南部と西ベイルートを占領した(第5次戦争)。新たに結成されたヒズボラ民兵との紛争は、イスラエル国防軍の敗北につながった。ゲリラの行動からの絶え間ない損害に直面して、レバノン南部の占領への国内支持が弱まった。イスラエルは1985年までにほとんどの領地から撤退し、しがみついていた細い土地からも2000年5月に撤退した。 
 
▼イスラエルの脆弱な力 
 
 1980年代末までに、イスラエルはシリア、ヨルダン、エジプトなどの近隣の国からの脅威には安全になったと考えたかもしれない。しかし、すぐに最初のパレスチナのインティファーダに直面した。パレスチナ市民に対する、特に西岸での粗野でしばしば暴力的な行動で若いイスラエル兵が使われるのは、多くのイスラエル人にとって、不安なものであり、オスロの和平プロセスが1990年代初め、うまくいくと当初、見られた理由のひとつであった。1995年11月のシオニスト過激派によるイツハク・ラビン首相の暗殺だけでなく、多くの理由でそれは失敗した。 
 
 1980年代初めには、約100万人のユダヤ人がソ連から移住してきた。ほとんどが初めて真の安全保障を得ようと決意していた。正味の影響は、イスラエルをさらに右に動かすことであった。そのような傾向は、パレスチナ自治政府の深刻な統治の失敗と相まって、2000年9月のアラクサ・インティファーダの勃発にいたった。武力を使ったその鎮圧は、10年前に加えられたのより、さらに激しかった。 
 
 ジョージ・W・ブッシュの当選と9・11攻撃、米国でのキリスト教シオニズムの台頭で、イスラエルは唯一の超大国に一層保護された。さらに、地域で最も強力な軍事力を保持した。それでも、新たな脆弱性があった。イスラエル国内の自爆、レバノンナ南部からのロケット攻撃であった。どれも敵性国家からのものではなく、簡単な解決策もなかった。さらにアリエル・シャロンのもとで、パレスチナ人との和解にはほとんど興味がなかった。 
 
 この10年間の中ごろまでに残されたものは、非常に強くまた軍事化した社会というはっきりした状況である。脆弱感がまん延し、安全保障に対する脅威に対し、大規模な武力で反応する文化を持っている。60年近くの紛争で、数千人のイスラエル人が殺され、数万人のアラブ人が殺され、数百万人のパレスチナ人が中東全域とその外に離散させられた。イスラエルは、外敵を軍事力で阻止することを期待しながら、安全といわれている国境の内側で暮らす以外の選択肢を奪われた。 
 
 ヒズボラのミサイルの影響は過小評価されるべきではない。それは1991年のイラクのスカッドに少なくとも匹敵する。イラクとの最初の戦争で米国はスカッドにより、イスラエルの破滅的な戦争への参入を防ぐために、膨大な資源を振り向けなければならなかった。さらに、ハイファやその他のイスラエルの市や町を襲っているミサイルは、敵国から直接飛来しているのではなく、もっと拡散した敵である。 
 
 イスラエルは長期的な戦略に忠実な方法で対応している。ヒズボラを直接、活動不能にさせるだけでなく、レバノン経済全体に大規模な損害を与えようとしている。現在の傾向からすると、これはヒズボラが弾薬がなくなるまで続くであろう。またシリア、さらにイランへの警告攻撃にまで拡大するかもしれない。米国はどちらにも反対することはないであろう。 
 
▼再考の時 
 
 イスラエルの軍事戦略家にとっては、他に選択の余地がない。だが、第三者的なアナリストにとっては、イスラエルの方向は2つの大きな理由で、破滅的である。第一は、それは地域全体でイスラエルと米国に対するさらなる敵意の波を生じ、今後数年、数十年にもわたるさらなる過激化につながる。 
 
 第二の理由は、イスラエルにとってより鋭くより危険である。この戦争の最初の1週間で、射程がより長いロケットがハイファを襲い、対艦巡航ミサイルが世界で最も近代的な戦艦のひとつを大破させた。同艦はそのような攻撃に対し防御の装備があるものとされていた。イラン革命防衛隊の関与があったのかもしれない(プロパガンダである可能性もある)が、これらのミサイルは準国家たるヒズボラが基本的に持ち込んだものである。 
 
 そのような武器は世界の武器市場に、どんどん流れ込んでおり、高度化している。イスラエルは前からこれを知っており、1991年の湾岸戦争以来、数億ドルをミサイル防衛の研究開発に注いできた。結果はヒズボラの能力にほとんど効果がなかった。攻撃ミサイルと防衛システムの間の全体の国際的な競争は、前者が勝っている。 
 
 ロシアと中国は武器輸出市場の拡大に非常に熱心で、主に金銭的利益のためだが、そのような拡散は米国とイスラエルなどの代理人の力を制限するという利点もある。ヒズボラ(またまだ組織されていないグループ)のような準軍事組織が、イスラエルの最北端だけでなく、国全域を脅かすような射程距離が長く、対防衛システムを内蔵し、クラスター弾などを持った最新のシステムを取得する可能性がある。 
 
 この傾向が今後10年かそれ以上の間に発展すると、イスラエルと米国は多分、イスラエルの国境をさらに越えて予防管理の地域を拡大しようとするであろう。だが、特にレバノンでの市民の破壊が同地域の別の場所で繰り返されているように、それは勝つことができない競争である。敵対的な動機と技術革新が相まって、イスラエルの軍事立案者さえも、それを終局的に自己破壊的な過程と見なすであろう。 
 
 最終的には、イスラエルはその安全保障のパラダイム全体を再考せざるを得なくなり、ヒズボラ、ハマスその他と次第に交渉せざるを得なくなるであろう。レバノンで毎日明らかになっている人的な重大事態を伴ったヒズボラに対する大規模な対応は、イスラエルの「旧式思考」の最後の例かもしれない。そうであったとしても、変化は長く、苦しい過程であろう。しかし、それはいつかはやってくる。それは、永続的で公正な平和への前触れであるかもしれない。 
 
*ポール・ロジャーズ 英ブラッドフォード大学平和学部教授。openDemocracy国際安全保障担当編集長、オックスフォード・リサーチ・グループのコンサルタント。著書「暴走するアメリカの世紀―平和学は提言する」(法律文化社) 
 
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netに発表された。 
 
原文 
http://www.opendemocracy.net/conflict/losing_control_3755.jsp 
http://www.opendemocracy.net/conflict/war_proxy_3752.jsp 
http://www.opendemocracy.net/conflict/beirut_tehran_3758.jsp 
 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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