2006年08月12日10時02分掲載  無料記事
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【コラム・戦中派の目】戦争の歴史を捻じ曲げるな 中谷孝(元日本軍特務機関員)   

  有害図書にも色々あると思うが、誤った歴史観を広める読みものが流す害毒は恐ろしい気がする。 
 敗戦後日本では近代史を全く教えてこなかった。それが今になって捻じ曲げた形で教えようとする動きが盛んになっているようだ。 
 『いわゆるA級戦犯』と言う小林よしのりの作品がベストセラーになっていることに不安を覚える。私はまだ読んでいないのに語るのはおかしいかもしれないが、彼の前作『戦争論』の歴史観の誤りは極端すぎたので、今回の作品の広告を見て不安になった。 
 かつての戦争を美化し、軍国主義を肯定する彼の主張には根本から誤りがあると思う。 
 
 「日本は悪くなかった。悪いのは中国や欧米諸国、日本は彼らに嵌められて悪役にされただけだ」「昭和12年12月の南京大虐殺は中国によってでっち上げられたもので、中国兵の残虐行為を日本軍の行為にすり替えている」と言っておきながら、別の項では「東京裁判でアメリカが、原爆と言う犯罪を隠蔽する為に、南京大虐殺をでっち上げたのだ」と話が矛盾している。 
 しかも「残留していた欧米の外交官や新聞記者は誰も日本軍の暴挙を目撃しては居ない。」と彼は主張するが、これは大変な誤りだ。欧米人たちは皆日本の暴挙を本国に打電した。日本は非難の矢面に立たされたが、日本国内では報道管制が敷かれ全く何も伝えられなかったし、南京城内の平和な風景と称される写真も新聞に載った。それはありえないウソの風景だった。 
 
 私が南京の惨劇を知ったのは事件の1年2ヵ月後に南京に入ったときのことである。昭和14年2月の南京は蘇州など他の都市に比べて復興が著しく遅れていた。人通りも少なく一人での外出は慎むように言われた。町の中心に「新街口」と言う十字路があり東へ向かう中山東路は歩道と車道の間に街路灯も街路樹もなく滑走路と兼用になっていた。蒋介石達幹部はここから小型機で脱出したのだった。 
 北に向かう中山北路を西側に少し入ると、小さい丘があった。何も知らずに登ったら20頭ほどの野犬の群れに囲まれてしまった。命からがら逃げ戻ったが、その丘は数千の遺体を埋めた土饅頭だと聞かされて背筋が寒くなった。ちいさい土饅頭は城壁近くなどにたくさんあった。 
 
 日本軍は蒋介石を捕らえるために城壁を完全包囲して攻撃したが、蒋介石は飛行機で逃れ、兵士ばかり12万人が捕虜になったと新聞に報道された。あまりの人数に驚いた中島中将の日記には「・・・処置に耐えず、捕虜にはせぬ方針なり」と記されている。捕虜を管理していた各部隊は処分命令を受けてそれぞれに実行したと言う。 
 後に現地除隊して特務機関員になった菅野正雄氏の中隊では一万人もの捕虜を百人あまりの部隊ではどうする事も出来なくて、揚子江岸の潅木林に連れ出し、まわりに火を放って全員を焼死又は溺死に追いやったと言う。最近元特務機関員だった先輩、杉山照次氏から聞いたところによると、「事件後暫くして揚子江を渡ったとき、フェリーは溺死体をかき分けながら進んだ。あの光景は92歳の今も鮮明に目に焼きついている」との事だった。 
 12万人と報じられた捕虜が3日後に消えうせた後も、残敵掃討が一ヶ月以上続き、民家に潜む兵士が引きずり出された。兵士と間違われて殺された民間人も多かったようだ。「怪しいやつは片っ端から捕まえた」と聞いている。言葉が通じないのだから見分けようが無かった。 
 
 小林よしのり氏が、「でっち上げの根拠」として、事件の5日後に掲載された「南京市内風景」と言う新聞写真を『戦争論』に載せている。日本兵が鉄帽もかぶらず、道端に腰を下ろして露店の水餃子を食べている。残敵掃討中の兵士が単独行動をする筈は無い。露店が並ぶわけも無い。日本兵の持つ軍票(占領地通貨)はまだ通用するはずもなく、兵士が現地の通貨を持っている筈も無い。水餃子の露店からして華北方面のすでに安定した占領地の写真であろう。こんないいかげんな写真を載せて、大虐殺は無かったと決めつけ、真相を語る者を「自虐趣味の小心者」と罵倒する人たちの存在は理解に苦しむ。 
 
 戦争はどちらが正義でどちらが悪と決められるものではない。日本だけが悪でもないし中国やアメリカが悪くなかったともいえない。しかし日本善玉説を唱え、日本をアジア解放の犠牲者だとする一部の人々の言動が、歴史オンチの青少年に、誤った歴史観を植えつけることにより、やがて国家の品位を傷つけることになりはしないか。 
 
 私が従軍中の6年間に華中に派遣されていた日本軍に捕虜収容所は一箇所もなく、捕虜を解放したこともほとんど無かった。捕虜は兵士の度胸試しのため皆の前で処刑されるのが常であった。私自身も13名の惨殺を間近で見ている。各部隊の作戦月報には押収兵器、遺棄死体の記録はあったが、捕虜の記録を見た事は無い。実戦の中で国際法が守られることは無い。ベトナム戦争ではソンミ村事件が大きく報道されたが、たまたま記者の目に触れたもので、同様の虐殺事件は少なくなかったと言う。イラクの戦場でも国際法の影は薄い。 
 
 東京裁判が国際法上不当なものであるからと言って、あの戦争を企画し長引かせたA級戦犯に日本国民に対する責任もないというのは誤りである。神風特攻隊を創設し、戦艦大和三千三百の乗組員に「帝国海軍の名誉の為、本土防衛の捨石になれ」と特攻出撃を命じた指導者達は責任を問われて当然である。 
 
 惨めな敗戦から六十余年、喉もと過ぎて暑さを忘れ、戦場を体験したことのない政治家達が、平和憲法を改変し、日本を戦争の出来る国にしようと企んでいる。日本の国土を軍備で守れるはずは無い。日本は憲法9条のもと、戦わない勇気を持つ事によってのみ護られる。核の傘などと言う迷妄は捨てるべきだ。狂った国が核ミサイルを発射すれば、こちらに核があっても防ぎようは無いのだ。国を護れるのは軍備ではない。国の姿勢こそが大切だと思う。 
 
 以上は、86歳になった私が、老人の妄言と笑われるのを覚悟で、何も語らずに消えていった戦友達の分まで、戦争の真実の一端を語ろうとしたものである。 


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