2006年08月19日19時23分掲載
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靖国神社問題
戦場死の「公務死」としての美化に否の声を! 8・15反靖国行動に参加 攝津正
2006年8月15日(火・祝)、「敗戦」記念日の午前7時40分、日本国首相・小泉純一郎は「公約」を果たすと言って靖国神社に参拝した。これはかつて帝国主義日本の侵略・加害を被った全ての国々の人々に対する冒涜であり、且つ、生死を選別し、特定の死を「公務死」として差別化し称讃する──そしてそのことを通じてナショナリズム的な感情を喚起しようとする──悪質な行為であり、厳しく批判されなければならない。
この日私は、「靖国解体企画」の友人の呼び掛けで、反靖国行動に参加した。昨年の行動では、4名もの被弾圧者を出していることもあり、緊張感が漲る行動だった。先ず都内某所に集合し、当日の行動の説明などを指揮者から聞いて、皆でJR市ヶ谷駅に向かった。
JR市ヶ谷駅を出たところで情宣をするが、5分も経たないうちに駅員がやってきて、「警察に通報する」と言うので、私達は引き上げた。次いで、神保町に向かい、靖国神社に可能な限り近づいて、皆で抗議の声を挙げた。「靖国神社を解体するぞ」「天皇制こそ戦争責任の根源だ」などと30〜40分ほどシュプレヒコールを挙げ続けただろうか。
右翼や警察・公安・機動隊の監視や妨害もあったが、私達は何とか行動をやり切って、解散地点に移動した。その後も反靖国の集会やデモがあったが、私は用事があったのでそれで帰宅した。右翼の街宣車が乗り付けていて、「共産主義者は首を吊れ!」などと奇妙な抑揚の声でアジっていた。デモでは右翼の妨害がかなりあったと聞いている。
ナショナリズムは宗教そのものではないが、宗教と地続きである。それは個体の死を意味づけ、「国民」として国家に統合する装置である。古代以来、人間の集団は、死者を弔い祀るという営みを続けてきた。また、どれほど医学が進歩しようと、人間は誰しもいつかは必ず死ぬ。そうであれば、家族や友人、そして自分自身の死といった出来事に向き合い、それを感情的に通過する必要は確かにある。
しかしここで問題なのは、為政者による「戦争のできる国づくり」に向かう企てに統合されないかたちで喪の作業を遂行しなければならない、ということだ。私達は、新たな追悼、新たな喪の作業を発明しなければならないのであり、国家が制度化し暗黙に強制する追悼を一切拒否しなければならないのである。
後者においては、かけがえのない取り替え不可能なものであるはずの個々人の生死が、国家という文脈で意味づけられ、正当化され、讃美される。そのような「物語」を拒否する──そして別の「物語」を紡ぐ、ないしは物語全般を解体する──ところからしか、抵抗者の倫理は始まることができない。
靖国解体企画
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