2006年09月17日11時52分掲載
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一人芝居「天の魚」の14年ぶり再演に拍手喝采 水俣・和光大学展スタート
水俣病公式確認から50年の節目に、この不治の病を生み出した「近代化とは何か」を多様な視点から問い直す水俣・和光大学展が、9月15日から東京・町田の同大学で大学とNPO水俣フォーラムとの共催で始まった。24日までの10日間開催される。今回の目玉は、1992年に砂田明が亡くなって以来公演されていない一人芝居「天の魚」の再演。砂田を師と仰ぐ川島宏知がその復活に挑み、来場者の拍手喝采をあびた。(加藤宣子)
水俣病は1956年5月1日に熊本県水俣市で確認された神経系の全身病で、運動失調や視野狭窄、手足のしびれなどの症状があり、不治の病である。行政によって認められた認定患者は2955名(新潟水俣病690名も含む)で、自覚症状を訴える申請患者数はその10倍近い2万4613名にも及ぶ。
原因は後に株式会社チッソの工場排水に含まれた有機水銀と認められたが、原因確定や公害認定、その補償まで長い年月がかかっている。2004年には最高裁で国や県の責任が確定したが、国は現在にいたってもその責任をとろうとしていない。
水俣展は、水俣病確認から40年をむかえた1996年9月、実行委員会を主体に品川特設テントで「近代とはなにか」をテーマに、写真パネル、年表パネル、漁具の実物展示、美術作品、映像と証言などで水俣病の実態を伝えた。その後、水俣フォーラムというNPO組織に改組され、豊橋、つくば、大阪、沖縄、浜松、名古屋、川崎、札幌や水俣など日本全国で地元の実行委員会と共催のかたちで水俣展を開催してきた。
水俣展の大学での開催は今回が初めてで、1977年の不知火海総合学術調査団以来29年間、水俣に関わり続ける和光大学の最首悟とゼミ生や教授らがともに企画・準備を行ってきた。テーマは「知ることから始めよう。
一人芝居「天の魚」は、石牟礼道子の「苦海浄土−わが水俣病」を原作に、亡き砂田明が構成した舞台で、1979年の初演以来1992年に亡くなるまで566回を数えた。胎児性患者、杢太郎の祖父の一人語りを、そこを訪ねた姉(あね)さんが聴く。一人で食事をとることも出来ない杢太郎を、「魂の深か子」と慈しむ祖父の方言による素朴な語りは、貧しく病を負った人間の深い哀しみを浮き彫りにする。
砂田を師とあおぐ川島宏知が志を継ぎ、砂田と共演していた琵琶の田原順子、笛・鉦・ギターの白木喜一郎、語りの岩井郁子とともに21世紀によみがえらせた。その初演にあつまった人々の多くは、砂田を思い出しながら舞台を見ていたのではないだろうか。時代背景を知らない若い人には少し難しい舞台ではあるが、石牟礼道子が描く水俣の世界の端緒に触れることが出来ただろう。
最首悟はこの日の講演で、水俣病を「平時の戦争」と位置づけ、研究者であり子どもの父親である自身の歩みと重ねながら、時代を考察した。講演には年齢の高い層から学生までさまざまな世代が集まったが、若い人たちへ伝えたいこと、問いかけたいことを中心に哲学者として自らが考えてきた「命の連続性」や「学問の限界性」について話をした。
今後のホールプログラムは、17日「水俣から考える」−マイノリティとコミュニティ、18日シンポジウム「『専門家社会』を問う」、19日映画「水俣−患者さんとその世界」を見る、20日朗読劇「海と空のあいだに」、21日シンポジウム「循環型社会へのまなざし−経験としての水俣から」、22日報道特番「埋もれた報告」を制作者と見る、23日「私と水俣病」−患者さんのお話から、24日講演とリレートーク「私たちは何処へ行くのか」
初日の15日は、屋外でキャンドルと和太鼓の共演による篝火熾し(かがりびおこし)も行い、参加者とともにその火を楽しんだ。24日まで開催される。最寄り駅は小田急線鶴川駅。大学の無料送迎バスもある。詳細に関しては水俣フォーラム03−3208−3051まで。
【参考】水俣・和光大学展ホームページ
http://www.geocities.jp/minamata_wako_06/
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