2006年12月02日13時32分掲載
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日中・広報文化交流最前線
知を愛する人たちの日中対話(1) 井出敬二(在中国日本大使館広報文化センター長)
11月26日及び27日、浙江省杭州市内の浙江樹人大学にて、日中の哲学者達が集まって、「日中哲学フォーラム」が開催された。筆者も初日の26日、フォーラムの一部の議論を傍聴する機会を得た。日中知的交流のあり方を考える上で非常に学ぶところがあったので、以下の通りこのフォーラムの一部であるが紹介したい。
●「日中哲学フォーラム」への誘い
知り合いの中国人研究者からこのフォーラムに顔を出さないかと誘われた筆者は、大学時代に哲学の授業で悪戦苦闘した苦い思い出を抱きながら、また「哲学者」というと書斎にこもってカントとヘーゲルを研究している人達かと思いながら恐る恐る顔を出してみた。しかし、日本哲学学会幹部達からはまず「最近はそれでは哲学者としてはやっていけませんよ」と言われた。実際の「日中哲学フォーラム」では、哲学の意味、生命倫理、環境倫理、グローバライゼーション、宗教間対話、大学での哲学教育の意義、東アジアでの哲学対話など様々な議論が行われ、ユーモアと笑いの絶えない会議であった。筆者の「哲学者」に対するイメージは大いに変わることになった。
本フォーラムは、中国社会科学院哲学研究所と日本哲学学会(会長は野家啓一東北大学副学長)が共催したものである。中国の哲学研究者(中国社会科学院哲学研究所、中華日本哲学会等)は、過去日本に留学したり、個人的に日本の哲学者と交流してきたが、今回、日本哲学学会と協力し、本フォーラムを開催した。日本哲学学会としては、個人的な中国との交流はあったが、組織としては初の中国との対話の取り組みだそうである。日本から25人もの哲学者達(日本の哲学学会の大御所的な方から壮年、若手も含めて)が参加した。
●中国の哲学の概況
中国社会科学院哲学研究所関係者その他の哲学者達からは、中国における哲学の発展と課題について様々な紹介があった。筆者なりにまとめると以下のようになる。
「哲学」という語は中国語でも「哲学」だが、これは日本の哲学者西周が1874年に「Philosophia」を漢字に翻訳したものである。
「哲学」の用語を日本から中国にもたらしたのは清末の外交官兼文化人の黄遵憲の由。中国が西欧思想を導入するにあたっては、日本に亡命していた梁啓超も大きな役割を果たした。
ある中国人哲学者曰く、近代において西洋学問の東洋への移植は、日本なしでは成し遂げられなかった。科挙制度を導入していなかった日本は、アジアの儒教文化を持つ他の諸国(中国含め)に比べて、学者達の知的好奇心が異なり、「立身出世」のための学問ではなく、学問が好きだから学問するという面があった。
(中国の哲学発展にあたり、日本が一定の役割を果たしたことについて、中国の哲学者達が認めていた。)
中国の哲学者が直面している課題と任務は、西洋哲学の成果を吸収するとともに、全面的な西洋化をやめ、自身の伝統哲学から特有の概念と問題を取り出して、現代中国哲学のシステムを形成し、中国の特色のある哲学を打ち立てることである。
現在の問題は、哲学が知識伝授のためのもの、職業哲学者により担われるものになっていることがある。最も避けるべきことは、権力者またはテキストだけを信じること、あるいは哲学を実用的な学科に押し下げることである。哲学は、今の時代の根本的な問題に答えるべきである。
このフォーラムでは色々と興味深い議論があったので、次回にも紹介を続けたい。
(本稿中の意見は、筆者の個人的意見であり、筆者の所属する組織の意見を代表するものではない。)
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