2006年12月22日11時42分掲載
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「いのち」ってなに? 地球のいのちも視野に 安原和雄 (仏教経済塾)
2006年もまた地球規模で多くのいのちが無惨にも消えていった。戦争という国家権力による暴力行為によって、大規模災害によって、感染症によって、飢餓という非人間的な環境下で、さらに自らの心の苦しみと共に。
その一方で「いのちってなに?」が論議された年でもあった。改めて「いのち」をテーマに考える。
▽公募で選ぶ「今年の漢字」は「命」
財団法人・日本漢字能力検定協会(本部・京都市)が公募で選ぶ「今年の漢字」は「命」と決まった。飲酒運転、虐待、竜巻さらにいじめによる自殺などで多くの命が失われたのが理由という。京都市の清水寺で発表、森清範貫首が「命」という漢字を人間大の白紙に黒々と揮毫(きごう)した。大みそかまで一般公開される。森貫首は「現代の深い苦しみが潜んでいると思う」と語った。(06年12月13日付毎日新聞)
これを受けて「橋本勝の21世紀風刺絵日記」は次のように書いた。
「命の尊さを説いてこそ真の宗教!ということで提案がある。イラクで、中立的立場の仏教徒に和平への重要な役割を実践して欲しいのである。そう、仏教の偉いお坊さんよ、京都なんかではなく、憎しみと死が支配する戦乱の地バクダッドでこそ、〈命〉の字を書くパフォーマンスをやったらと思うのですが、いかがでしょうか」と。(06年12月18日付「日刊ベリタ」)
命が亡くなってからの葬式仏教に偏している昨今の仏教界の現状をみるにつけ、こういう皮肉のひとつも言いたくなる心境はわからないではない。
たしかに命は尊い。だからこそ命があまりにも粗末に扱われ、踏みつぶされていく現状では命への不安も限りなくふくらんでいく。しかし今日、命がこれほど大きな問題になってくればなおさらのこと、改めて「いのち」ってなに?と問い直してみる必要はないだろうか。
▽毎朝の座禅で「いのち」を繰り返し唱える
私自身は毎朝自宅で起きた直後に座禅をする。以前は山中の座禅堂にこもって修行僧気取りで座禅の真似事をしていたが、最近ではもっぱら日常生活の中にこそ座禅を!という心境で、自宅4畳半の間が座禅堂にしばし早変わりする。
そのとき、心で唱えるのが「いのち」、「慈悲」、「利他」の3つの言葉である。「いの〜」と5秒くらい息を吸い込み、「ち〜」と15秒くらい息を吐き出す。3つの言葉の順に何度も繰り返す。なぜ「いのち」が最初なのか。いうまでもなく私が唱える仏教経済学の第1のキーワードがこの「いのち」だからである。
さて「いのち」とは、多くの場合、人間の命が念頭にないだろうか。「命は地球より重い」ともいわれる。この命は人間の命を指しているのだろう。ここでちょっと考えてみたい。仮に命が人間にしかないとしたら、果たして人間の命は存続できるのだろうか、と。答えはいうまでもなく否である。
▽食事前の「いただきます」はどういう意味か
仏教ではこの地球上の生きとし生けるものすべてに命があると考える。つまり人間だけではなく、動物、植物にも当然いのちはある。これが仏教思想の基本である。
日本社会では食事前に通常「いただきます」と唱える。最近では、この意味が分からなくなっている人が多いが、その本来の意味は動植物のいのちをいただき、そのお陰で人間が自分のいのちをつないでいることに感謝する言葉なのである。
「俺は自分独りの力で生きている」と偉そうに考えている人が昨今少なくないが、それは錯覚である。人間は動植物のいのちに依存することによってのみ生かされている、という事実を冷静に認識したい。人間にしか命がないとすれば、人間の命は存続し得ないことはこれで理解できるのではないだろうか。少なくとも仏教はそう考える。
食べ残しが多い国として、残念なことに日本が世界一というデータがある。この食べ残しは動植物のいのちを粗末に扱うことだから、神仏の下す罰(ばち)があたる行為でもある。
ところがかつての高度経済成長の過程で「罰があたる」という感覚が稀薄となった。だから食べたくなかったら、食べ残せばいいという安易な感覚が広がっている。動植物から折角いのちを提供していただいているのだから、これに感謝して、食べ残しをしないのが、礼儀というものであろう。本来の仏教がいのちを大事に考えるのは、こういうところにも表れている。
「いただきます」には実はもうひとつ、大事な意味が含まれている。それは「世のため人のため」をめざす利他主義のすすめである。この利他主義も仏教経済学のキーワードの1つである。
動植物からいのちをいただくのだから、そのいのちを日常生活の中で生かさなければならない。それが利他主義の実践であり、その結果は、いずれ自分にもプラスとなって返ってくる。
一方、自分、自社のことしか念頭にない私利・利己主義は破綻への道に通じていると仏教は考える。このことは私利・利己主義の追求に魂を奪われた貪欲な個人、企業経営者、さらに政治家たちが高い屏の中につながれる悲運に泣く事例が昨今多発していることからも明らかであろう。
▽マータイ女史の「もったいない精神が地球のいのちを救う」
2005年2月初めて来日したケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞(04年度)受賞者のワンガリ・マータイさんは毎日新聞社を訪ねて、日本語の「もったいない」に出会い、心から感動した。それ以来、マータイさんは「もったいない」を世界語として普及すべく、国連など各地を行脚している。そのメッセージが“Mottainai Will Save the Earth”(もったいないの精神が地球を救う)である。
メッセージの「地球を救う」は「汚染と破壊に直面している地球のいのちを救う」という含意であろう。「もったいない」に込められたこの深い意味を本来なら日本人が世界に向かって発信すべきであるが、恥ずかしいことに、それをすっかり忘れていた日本人としてはマータイさんに感謝しなければならない。
あえてもうひとついえば、生き物とはいえないモノ(建築物や日常用品など)にもいのちが宿っていると日本人は考えてきた。特にモノづくりの職人にこの考えが浸透していた。しかしこれも昭和30年代以降のモノを粗末に扱う「浪費は美徳」という風潮に押し流されて消滅状態に近い。
▽「狭いいのち観」から「広いいのち観」へ
最近いじめによる自殺が増えて、いのちにどう向き合うかが改めて論議されている。人間のいのちが大切であることはいうまでもないが、いのちを人間だけに限定してとらえるのは、狭すぎないだろうか。動植物も含めた自然、手作りのモノ、さらに地球のいのちにまで視野を広げたい。これがいのちの教育の原点に据えられなければならない。
人間だけの命の尊さをいくら説いても恐らく人それぞれの心にしみこんではゆかないのではないか。多様ないのちの大切さをそれぞれが自覚して出直す必要がある。「狭いいのち観」を超えて、地球のいのちまでも含む「広いいのち観」を創り、普及・定着させることができるかどうか―ここに視野を向けたい。
*安原和雄の仏教経済塾
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