2006年12月29日10時45分掲載
無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200612291045285
この国に生きる〜ビルマ人たちの師走 ウー・シュエバ(田辺寿夫)
▽電話が怖い
携帯電話は便利である。在日のビルマ人にとってもありがたいはずである。ビルマの人たちがぼくに電話をするとしよう。携帯電話が普及していなかった時代には勤め先や自宅へ電話はかかってきた。必ずしもぼくが出るとはかぎらない。ほかの人が受話器をとった場合、ビルマ人たちは日本語で話さなければならなかった。彼ら、彼女らにとってこれはなかなかむすかしい。
今は心配することはない。携帯ならぼくが出ることはわかりきっている。それでも運の悪い人もいる。電車に乗っていたり、裁判や授業の最中だったりして、電話が取れないときには、用件を言って欲しいとの日本語のメッセージが流れる。そうするととっさに日本語が出てこなくてウッとつまって切ってしまうビルマ人もいる。ちなみにぼくの携帯のメモリーには370件ほどの電話番号が登録されていて、そのうち三分の二はビルマ人の番号が占めている。
便利な携帯電話だがおっくうになることもある。時と場所を選ばず、どこでも、いつでもかかってくる。出たくない時だってあるではないか。とくに金曜日と月曜日はこわごわ受話ボタンを押す。金曜日にビルマの人たちからかかってくる電話はたいてい週末のお誘いである。政治組織の集会、文学サークルの講演会から結婚披露宴(これはだいたいひと月ほど前に言われることが多いが)、誕生日のお祝い、引越し祝い、スンジュエ(両親の命日などにご僧侶を招いてお食事を差し上げる儀式)などなどである。
呼んでくれるのは好意にほかならない。なるべく出かけるようにはしているがくたびれていてつらい時もある。ビルマの人たちが住んでいるところ、会合などを催すところは、都内の高田馬場、池袋、大塚、巣鴨などである。そのどこであれ、ぼくの住んでいる東京西郊の日野からは一時間以上かかる。休日は多摩川を渡りたくない、モノレールの車窓からぼんやりと富士山を眺めていたいなどとつぶやきながら重い腰をあげることもある。
月曜日にかかってくる電話は週末に会った人たちからの問い合わせや質問が多い。きわめて個人的な難民認定や在留資格、日本語の勉強についての相談事など話によってはわずらわしいこともある。しかし「蒔いた種は刈らねばならぬ」。ぼくと会ったことや話をしたことがきっかけとなって、もっと知りたい、相談したいとあらためて電話をしてくるのである。ときにうれしくなるような内容の連絡もある。だからきちんと対応するようにはつとめている。2006年12月、師走に入ったばかりの週末・週明けはこんなふうに過ごした。
▽日本人の友だちができました!
12月2日土曜日、高田馬場駅に近い新宿区消費生活センターでカレン民族の人たちが主催するセミナーがあった。オーストラリアのパースからやって来たカレン民族の活動家ポール・チョー(Paul Kyaw)さんがビルマ軍事政権の弾圧のゆえに難民として故郷を離れざるを得ないカレン民族の現状と、世界各国へ散らばったカレンの人たちの生活について話し、参加者とのあいだで質疑応答が行なわれた。これは連続セミナーの2回目、前週のセミナーではカレン民族の歴史や文化についての話が中心だった。ぼくは2回とも通訳をつとめた。
二回のセミナーでうれしい出来事がいくつもあった。ポール・チョーさんは演説口調にならず、身近な例をひきながら、わかりやすく解説してくれた。オーストラリアの難民認定のやり方や認定者へのケア─などぼくの今の仕事の参考になるような話もあった。ぼくの授業をとっている学生さんが、一回目に一人、二回目には二人出席してくれた。ほかにも熱心な日本人の参加者の姿があった。
一回目のセミナーが終わったときのこと、顔なじみのチン民族の女性がぼくの袖を引っ張った。会わせたい人がいるという。彼女は年輩の日本人の女性の前にぼくを連れて行った。どうしてぼくに会わせたかったのだろう。彼女は上気した表情でまくしたてた。
「まえにウー・シュエバが教えたでしょう。身のまわりの日本の人たちと仲良くしなさい。一生懸命話をして、自分のことやビルマのことをわかってもらうように努力しなさい。身近な人と理解しあうのが一番大切だよって。わたし、そのとおりやってみてこの方と友達になったの。おばあさんはビルマのこと、もっと知りたいって、今日のセミナーにも来てくれたの」。
おばあさんはニコニコしてきいている。孫娘を慈しむようなまなざしである。少数民族の人たちの集まりでぼくがそんな話をしたことがあったらしい。記憶は定かではない。少なくとも説教口調で言ったりはしていない。それはともかく彼女が日本人女性と親しくなったのはとてもいいことである。うれしくなった。
▽アミーナを覚えてますか?
12月3日日曜日。この日も多摩川を渡った。五反田駅前にある法律事務所で「難民不認定取消し訴訟」継続中の若いビルマ人夫婦に弁護士がききとりをするのを通訳として手伝った。国民民主連盟(解放地域)=NLD.LA日本支部のメンバーであり、伝統舞踊団ミンガラドーでも活躍している二人とは知り合いである。二人が茨城県牛久にある入国管理局東日本収容センターに入っているときに面会に行った。仮放免が認められて出てきたあと、今年の二月に中野サンプラザで結婚披露宴を催したときには「乾杯」の発声をした。8月には娘さんが生まれた。ビルマの花の名前がついた娘さんはベビーバギーにのっかったままおとなしくしていた。いい子に育ってほしい。
12時から3時間ぐらい通訳をして少しくたびれた。次の予定は5時半から開かれるビルマ人の集まりに出席することだから少し時間の余裕ができた。ビールで喉をうるおそうと五反田駅近くのエスニック・レストランに入った。生ビールのグラスを手にした途端、視線を感じて、一つ置いた席に目をやる。妙齢の女性がこちらを見て微笑んでいる。インド系の風貌である。うん? ビルマ人? 知り合いかな? 声が飛んできた。
「ウー・シュエバでしょう?」。間違いない、ビルマ人だ。
「そうだけど。どこで会ったっけ?」
「池袋のアミーナって覚えてますか?」
「ああ、あのビルマ・イスラムの人がやっていたレストラン。覚えているよ。よくダンバウ(インド風炊き込みご飯)を食べたっけ」
「あの店、私がやっていたのよ」
池袋西口の繁華街の一角にあったアミーナはけっこう繁盛していた。1993年ごろの話である。いまはもうない。店名アミーナ(かわいい娘といった意味だとのこと)は自分のニックネームだという彼女はいま千葉県の茂原で会社勤めをしているとのこと。ぼくがビルマのルエエイ(布製肩掛けカバン)を肩に店へ入って来たので気づいたそうだ。
席は離れたままだが客が少なかったから遠慮なく話ができた。昔話に花が咲いた。彼女が先に席を立った。ぼくのテーブルから伝票をひっさらってレジに向かう。おまけにビールをもう一本注文してお金を払ってくれた。ありがとう。彼女が去ったあと、ぼくはしばらく陶然としてビールを流し込んでいた。
▽テットー・ヤージョー・シェーバーゼ(長生きなさいますように)
夕方の集まりは南大塚の区民施設での誕生日のお祝いである。古都マンダレー在住の著名な女流文学者で、国民から尊敬されているルードゥ・ドー・アマーの91歳の誕生日(11月27日)と国民民主連盟・解放地域(NLD.LA)議長で編集者としてもきこえたウー・ウィンケッの70歳の誕生日(12月6日)を祝う集会である。
もちろんルードゥ・ド−・アマーはマンダレーにいる。しかし、昨年、マンダレーで開かれた90歳の誕生日を祝う催しの様子がスクリーンに映し出された。ウィンケッさんはオーストラリアで難民認定を受けているが、ちょうど日本滞在中である。厚着をし、帽子をかぶって出席していた。この催しは日本で母国民主化運動の一環として文学評論活動をしているグループ(アハーラとティッサー)が主催した。集まってきた60人ほどのビルマ人たちはNLD.LA日本支部のメンバーをはじめほとんど活動者たちである。
日本で活動するグループの代表者たちがつぎつぎに祝辞を述べる。二人の業績をたたえ、今後のさらなる活躍への期待を述べ、自分たちもこの二人に学んで民主国家の建設めざしてがんばりたいといった決意表明めいた挨拶が多かった。
ぼくもスピーチをした。二人への賛辞のほかにぼくは日本にも長寿を祝うしきたりがあることを話した。古希(70)、喜寿(77)、傘寿(80)、米寿(88)、卒寿(90)、白寿(99)など黒板に漢字を書きながら説明した。日本語・日本事情の授業のようになったのは、始まる前に会場でビルマ人たちとした雑談のせいである。
あるビルマ人がぼくにこう声をかけた。「ウー・シュエバ、日本では70歳のお祝いはコキって言うんだって前に話してたよね。そのことくわしく教えてよ」。もうひとりはじめて会った若いビルマ人が話しかけてきた。「今日、日本語一級の試験を受けてきたんです。あまりよくできませんでした。来年またがんばります。ウー・シュエバ、日本語をいろいろ教えてくださいね」。
こういうビルマ人もいるのだ。民主化運動を鼓舞するスピーチはみんながするだろう。たった一人の日本人出席者としては、この機会に日本語や日本文化について話すのもいいのではと思ったのである。ついでにヨタを飛ばした。
「みんなぼくの日本名を知らないだろう。寿夫というんだ。いま説明した喜寿や米寿の寿だよね。だからぼくの名前の意味はオメデタイ夫なんだ。カミさんがどう思っているかはわからないけどね・・・」
どっと笑いがきた。
▽みんな元気で頑張れよ
週明け12月4日月曜日。四谷にあるビルマ難民弁護団事務所で通訳をしていた。弁護士と向かい合っているのはカチン民族の青年である。ぼくの携帯が鳴る。別のカチン人からである。Zだと名乗るがぼくには聞き覚えがない。彼はもどかしげにMの夫ですと言った。それならわかる。DKN(Democracy for Kachin National)の中心メンバーであるMさんとはよく顔を合わせる。
彼の用件はカカボラジのことだった。海抜5881メートル、万年雪におおわれたカカボラジはカチン州最北部にそびえる聖なる山である。未踏峰だった山頂に初めて立ったのは日本人登山家尾崎隆さんである。尾崎さんは奥さんであるフランス人女性、そしてビルマの人たちも入れて三国共同登山隊を組み、1996年に登頂に成功した。
2006年の10月、DKNの会合に呼ばれたとき、ぼくは日本でカチン民族がどのように紹介されてきたかを話した。そのなかでカカボラジ登頂にふれ、尾崎さんの著書『幻の山、カカボラジ』(山と渓谷社 1997)をみんなに見せた。そしてこの登山については日本のTV番組でも放映されたと紹介した。Z君はそのTV番組のビデオが入手できないかというのである。カカボラジは奥地にあり、カチン人でもめったに行けない山だから、みんなで見てみたいとのこと。わかった。ちょっとあたってみるよと答えておいた。
弁護団事務所から四谷駅に向かう途中でビルマ人M君に出会う。これから弁護団事務所へ行くとのこと。彼は10月に東京地裁で「難民不認定取消し訴訟」の勝訴判決をかちとったばかりである。でも表情が暗い。「国側が高裁へ控訴したんですよ」。「そうなんだ。でも気を落とすなよ。高裁で勝ったビルマ人だっているんだから」。そんな会話を交わしてすぐに別れる。
JR四ッ谷駅のホームに着く。向こうから早足で歩いてくる野球帽をかぶった青年。浅黒く精悍な表情。デモなどでよく顔を合わせるビルマ人である。名前がすぐに出てこないがたしかビルマ民主化同盟(LDB)の活動家だ。すれ違いそうになってから彼はぼくに気がついた。
「すみません。ウー・シュエバ」
「なんであやまってるの?」
「ぼくの方が先にウー・シュエバに気がつくべきべきでした」
「そんなこと気にするなよ。これから仕事かい?」
ハイと返事をした彼は帽子をとってぼくに深々と一礼し、元気よく階段を駆け上って行った。その後姿に向けてぼくは心のなかで声をかけた。「いろいろあるだろうけどがんばれよ!」
Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。