2007年01月24日14時59分掲載  無料記事
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映画「麦の穂をゆらす風」を見てきた   <つるた まさひで>

  遅ればせながら、「麦の穂をゆらす風」(公式サイト:http://www.muginoho.jp/)を見てきた。連れを誘って行ったのだが、彼女はそれからずーっと機嫌が悪い。確かにこの映画、作品自体に希望は見えない。笑って楽しみたいときにはまったく不向きな映画だ。 
 
  しかし、それは世界の現実と照らし合わせて考えさせるとても強い力を持っているということでもある。外国軍による占領、レジスタンスへのすさまじい暴力、そして、その暴力が抵抗の暴力を生む。その暴力は深く内部にまで浸透する。レジスタンス内部の暴力は大きな矛盾を孕みながら、被害・加害、両方の当事者をこれでもかというほどに苦しめる。 
 
  暴力を美化しないということにとても気を使ったと脚本家はインタビューに答えている。「特に映画の中だと、こういうこと(抵抗の暴力:括弧内は引用者)を美化してしまうのは実に簡単にできてしまう」と。 
 
  抵抗・革命の暴力・武力についてはサパティスタのマルコスが語り、それを援用して太田昌国さんもキューバの非武装化の夢想を語るが、そこをどう克服していくのかということは歴史の中ではまだ「見果てぬ夢」の域をでることはできない。ケン・ローチはだれも克服できていないこの問題をこの映画の中で可視化することに成功していると思う。 
 
  しかし、それを克服する方法は暗示することさえできない。彼はインタビューの中で「悲しいことに、正義という立場を得るにはそうした激烈なやりとりを通らなくてはならないわけです。」と応える。 
 
  しかし、そうした激烈なやりとりはもうさんざん歴史が経験している。そうしたやりとりを完全になくすことはできないかもしれない。しかし、減らす方策はあるはずだし、探し続けたいと思う。 
 
 
  またケン・ローチはパンフレットの中でこんな風に書いている。 
 
== 
(1920年から22年までのアイルランドはきわめて重要な歴史のひとこまで)この時期のアイルランドを知ることで、独立に向けての長年の闘争が、なぜ成功した瞬間に挫折に転じたのかを知ることができます。 
(中略) 
  そこには歴史上、何度も繰り返されてきたパターンが見えます。利害の異なる者達が共通の迫害者を前に手を携えて立ち上がるけれど、こうした支配勢力による不正な操作(英国がアイルランドに行ったような:括弧内は引用者)によって、やがて異なる利害が浮上してくる。現在で言えばイラクにこうしたパターンが起きていると思います。・・・ 
== 
 
  おそらく、ケン・ローチがこれを書いた後、イラクの状況は彼が書いたとおりに激化し、ますますひどくなっている。フセインの処刑の報に際してブッシュが民主主義の前進を語る、こんなグロテスクな冗談にもならない悲惨な逆説が堂々とニュースで流される。日本の翼賛マスコミもさすがにイラクの現状の悲惨さをあわせてコメントせざるをえない。しかし、誰の目にも明らかになりつつあるこの不当な占領状態に日本政府が加担していることがあわせて報道されることはない。 
 
 
  パンフレットの訳語に関して、attac江東のブログでは別のところが触れられていたが(http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-66.html) 
ぼくが気になったのはインタビューの最後の項目。 
 
== 
Q 映画の配給に関して 
ポール・ラヴァティ(脚本) 
「ありがたくもアメリカで配給させていただきましたら、ご覧になったみなさんにはブッシュさんに一筆メッセージを送って、共和主義者に関するすばらしい映画を見た、と伝えていただければと思います」。 
== 
 
  リパブリカンを共和主義者という風に訳すかどうか、悩ましいところだろうなぁと思う。「リパブリカン(共和主義者・共和党支持者)」という風にしたら、分かりやすくはなるけど、ちょっとくどくなる。 
 
  そういえば、革命のための処刑というのはブレヒトにも似たような戯曲があったと思う。確か学生時代に黒テントの人たちが赤いキャバレーとかいう名前でやってたのを見たようなおぼろげな記憶がある。「処置、および処置について」とかいうタイトルだったか。 
 
  映画「麦の穂をゆらす風」の公式HPにいくつかのコメントが掲載されている。 
http://www.muginoho.jp/comment.html 
 
  印象的なものをいくつか紹介。 
 
  とても短いコメントなので、紹介された人は自分が言いたいこととは違うと思っているかもしれないけれども、とりあえずこのコメントへのコメント。 
 
 
== 
家族、恋人、友情。様々な愛の形が、 
戦争によって奪われてしまった時代。 
その傷跡が、自分の心にも深く刻まれました。 
―― はなさん(モデル) 
== 
 
  はなさんのコメントがこんな風に紹介されているが、この映画を「違う時代の物語」と見てはいけない。 
 
== 
自由を求め戦うアイリッシュの悲壮で勇猛果敢な姿に涙を流し 
自分に勇気が湧いてきました。 
―― ジョン・オコーナーさん(タレント) 
== 
 
  この映画をこんな風に見る人もいるのか、…。 
 
 
  で、今日書きたいことは以下の二つのコメントから 
 
=== 
  「テロ」と呼ばれる暴力行為は、残念ながら我々が生きるこの時代の一つの象徴になっています。 
  しかし、「テロ」を非難するばかりで、それがなぜ起きるかを客観的に理解しようとする人は意外に少ない気がします。 
この映画でケン・ローチはまさにそのことをテーマにしていると思います。 
  長年のイギリス支配から独立しようとするアイルランドのことを具体的に描いてはいますが、民族の戦いとそれが全員にもたらす悲劇という普遍的な様子が衝撃的に伝わってきます。 
  イギリス政府が過去にアイルランドに対していかにひどいことをしてきたかという歴史について、最近まで何も知らなかった自分も恥ずかしくなってしまいました。でも、「イギリス」と「アイルランド」の代りに、「加害者」と「被害者」の名前を入れ替えれば似たような状況が世界の様々なところでも存在します。 
  カンヌ映画祭でこの映画がパルムドールを受賞したのも、審査員たちがそのように感じたからに違いありません。 
―― ピーター・バラカンさん(ブロードキャスター) 
=== 
 
  バラカンさんが書いているように「テロ」と呼ばれる暴力行為がなぜ生まれるのか、このことこそがこの時代にもっと語られるべきだと思う。そして、このような背景を持って生まれる「われわれが生きる時代の象徴である『テロ』」にぼくたちは、どんな風に向き合えばいいのか。 
 
綿井さんは以下のようにコメントしている。 
 
=== 
戦争が始まればすべてが破壊される。 
たとえ戦争が終わっても、 
また「別の戦争」がその国の内側で始まる。 
それはアイルランドも、 
現代のアフガニスタン、イラクも、どこも同じ。 
昔もいまも何も変わらない。 
「歴史は繰り返す」のではなく「人間が繰り返す」。 
戦争の本質を描き切ったこの作品が、 
逆に人間の未来への希望を呼び起こすだろう。 
―― 綿井健陽さん(ビデオジャーナリスト/「Little Birds イラク戦火の家族たち」監督 
=== 
 
  綿井さんはここに人間への希望を見たという。 
  ぼくはこの映画自体に希望を見出すことができなかった。確かに綿井さんがいうように「人が繰り返す」。 
  では、この繰り返しをどこでどのように止めることができるのか。 
 
 
 
そして、話は変わってアフガニスタンについて。 
軍縮平和市民No.7(2007年冬号)に掲載されている伊勢崎賢治さんの講演録「9・11後5年 アフガニスタンは今」を読んで、たじろぐ。 
 
 ぼくはこの講演を「軍縮平和市民」がとりあげることに反対はしない。考えられなければならない課題がとても見えやすい形でとりあげられている。これをあえて掲載した軍縮平和市民の編集部の判断は間違ってはいないと思う。しかし、この論争的なテーマを掲載するのであれば、もっとていねいに扱う必要はあったのではないか。 
 
  とりあえず、中身を紹介する。ここで伊勢崎さんはで直接、そして深く関わってきたDDR(武装解除、動員解除、社会的際統合)のプロジェクトについて語る。これは日本政府の国策として行われた仕事だ。 
 
  この講演録のリードには以下のように書かれている。 
 
=== 
アフガニスタンの情勢は、深刻と言わざるを得ない情況である。タリバン崩壊後は以前の群雄割拠の状態に戻り、また日本が主導した武装解除は成功したものの、その結果、新たに「力の空白」が生み出されている。アフガニスタンの恒久的な平和には何が必要か。アメリカ、日本をはじめ国際社会の真摯な取り組みが求められている。 
=== 
 
  この講演の中で伊勢崎さんはDDRをしきってきた経験と課題を書くのだが、その中には従来の平和運動の主張とは明確に異なる点がいくつか存在する。 
 
  例えば伊勢崎さんはDDRは治安をよくするために実施したのではないと言い切る。そしてこんな風に書く。 
 
== 
言い換えれば、DDRとは、親米のカルザイ政権がアフガン統一の象徴である新国軍と新警察にレジティマシー(正統性)を持たせるために行うことです。 
== 
 
  米国がアフガニスタンにレジティマシーのない戦争をしかけ、めちゃくちゃにした。それに日本も加担した。そして、この講演で伊勢崎さんも指摘しているように、米国の国内事情に影響され拙速に、選挙監視も充分にできないような情況で行われた選挙でカルザイ氏が大統領になる。レジティマシーを言うのであれば、まず、その戦争とカルザイ政権自体が問われなければならないのではないか。 
 
  さらにこんな風にも言っている。 
 
=== 
 …一番大切なのは、敵(引用者注 おそらくタリバン)のリーダーとの政治的和解です。 
 それができない場合は、これは破れかぶれのように聞こえるかもしれませんが、とにかくアメリカという軍事力、アメリカにアフガンから足を抜けさせないということです。これしかありません。アメリカの政権が変わろうと、彼らが始めた戦争、もちろん9/11で米市民自身が被害者になっていますが、それを上回るアフガンの一般市民を空爆で殺しているわけですから、責任を最後まで、未来永劫とってもらうための外交を、われわれはしなければいけない。 
=== 
 
  反戦運動は米国にアフガニスタンから軍隊を撤退させよ、と主張してきた。ここでも伊勢崎さんは逆の主張をする。 
 
  確かにアフガニスタンをめちゃくちゃにした責任を米国がとらなければならないのは当然だ。しかし、それは軍事力を行使することなのか。一方でこんなふうにされてしまったアフガニスタンが存在している。そこでアフガニスタンの民衆が求めているのは何なのか。そのことが問われなければならない。人びとが平和に食べていけるようになるまでの期間に一定の軍事力が必要になる事態はあるだろう。その行使は誰がどのように…。 
 
  アフガニスタンでアフガニスタンの人びとはどんな社会がどのように実現することを望むのか。ここを決めるときにレジティマシーが必要になる。その問題をどうクリアできるのだろう。 
 
 
  ここまでだけだと、なんでこんな講演録が「軍縮平和市民」に掲載されるのか、ということになるのだが、伊勢崎さんは結語部分でこんな風に書く。ここがこの講演を掲載させる価値をもたせる部分だ。 
 
 
=== 
 …特別会計のほうは額が断然大きいのにどんぶり勘定で、一方、一般会計のほうは額が少ないのに厳密なアカウンタビリティ・チェックの対象になる。ODAの枠の援助と非ODA枠の援助で、まさにこれと同じ仕組みが起こっているのです。果たしてテロ特措法でインド洋の日本の貢献がアフガンにおける恒久的な平和に貢献しているのかどうか。これはちゃんと検証すべきだと思います。 
 
 (中略) 
 
 でもとにかく今考えなければならないのは、アフガンの援助というのは、米の対テロ世界戦略の中での援助ということです。われわれがどんな平和活動をしようとも、アメリカという軍事戦略のプラットホームの上でアフガンの平和を考えているにすぎない。ですから、米のプラットホームを含めて、総括的にこの援助を捉えなければいけないと思います。 
 さきほどお話した一般会計と特別会計の比喩を皆さんはおわかりになると思いますが、問題はこれに集約しています。軍事的な貢献、もしくは人道的な貢献は互いに直結しているのです。 
=== 
 
  ここでやっと「麦の穂をゆらす風」につながる。テロがなぜ起こるのかを理解しない対テロ戦争はマッチポンプだ。にもかかわらず、米国のその戦略にのっかる日本政府。この暴力の連鎖をどう止めたらいいのか、そのことを考えていく上でも伊勢崎さんのここでの具体的な講演は俎上にあげる必要があると思う。 
 
  そしてぼくには、伊勢崎さんがこの結語で、米国の軍事戦略に乗ることが問題だと、指摘しているようにしか思えない。その伊勢崎さんがなぜ、米国の対テロ戦略に乗る形のアフガンのDDRにこんなにいれこんだのか、そこをちゃんと語って欲しいと思う。 
 
 
つるた まさひで(工場労働者) 
ブログ:今日、考えたこと(http://tu-ta.at.webry.info/) 


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