2007年03月04日21時32分掲載
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斎藤たきち著『北の百姓記』(正・続) 地下水がつなぐ百姓の苦渋と誇り
山形のいっかくで営々と農にたずさわってきた一人の百姓が、70歳を迎え、自らの思いを本に書いた。米と果樹、野菜を育て、詩を書き、地域運動の世話役として過ごしてくるなかで練り上げた百姓論、農の思想、地域論がぎっしる詰まっている。土をつくり、作物を育てるものでなければもてない具体性と純度の高い思想性を兼ね備えた作品である。本書の魅力を、村を歩く記者として著者の存在を注視つづけてきた大野和興と、同じ山形の百姓として生きる一世代若い農民・菅野芳秀が紹介する。(大野和興)
<読書ノート> 『北の百姓記』 斎藤たきち 著
(東北出版企画 刊 2625円)
大野和興(農業記者)
四国の山村で育ち、村を歩いてそこに生きる人の話を聞かせてもらうことをなりわいにして40年以上が過ぎた。いろんなところを訪ね、いろんな人に会った。
その中でも山形という地は特別なところだった。個性豊かな、きらきらとかがやく百姓が大勢いて、それぞれの地でいろんなことに取り組み、すごい文章や詩を書いていた。
佐藤藤三郎、木村迪夫、星寛治、そして本書の著者である斎藤たきちといった面々だ。一九六〇年代、僕は20代から30歳代で、彼らはやや年長、同じ世代といってもいいだが、仰ぎ見るように彼らを眺めていた。
なぜこれだけの人材が、しかも同世代で同じ地域に湧き出ているのか、不思議だった。話を聞いていくうちになぞは解けた。百姓にして詩人、野の思想家、真壁仁に行きつくのだ。
本書で斎藤さんが敬愛をこめて書いている人物だ。彼を軸とする地域の文学同人誌『地下水』に多くの若者が依り、思索と実践を深めあった。文字通り地下水が吹き上げたのが上記の面々だ。
やはり本書で斎藤さんがなつかしさをこめて書いている山形農民大学の末期のころ、僕は出かけていって、会場の隅から真壁さんを眺め、「あれが真壁仁か」と思った。斎藤さんとはそのときすれ違っているはずだ。
信濃農民大学に始まる農民大学運動の流れも本書で紹介されている。農業と地域の現実を踏まえながら農民自身が作り上げてきた学習運動だ。ここから多くの考える百姓が生れた。
本書には、そうした考え、実践する百姓の想いと思想がぎっしりつまっている。
1935年、15年戦争のただなかに山形県の山村に生まれ、戦後民主主義の洗礼を最初に浴び、きびしい百姓仕事のかたわら、青年団活動、サークル運動に燃焼した青年時代の気持ちを今も持ち続ける斎藤さんの生き方にまず感動する。
敗戦と戦後の食糧増産の時代からはじまり、60年安保と日本の転換、農業基本法と近代化、出稼ぎ、減反、そして自由化と揺れ動く時代を行きつ戻りつ、斎藤さんは自らの営為と思索を紙の上に紡ぎ出す。そのキーワードは「百姓」と「文化」である。
真壁仁が「生涯一百姓」と宣言し、斎藤さんが「われもまた百姓」というときの百姓とは、単に農民ということだけを意味しない。斎藤さんは、自給自足を生活の根とするライフスタイル、というふうにいっている。
それはなにより生き方であり、耕すのは土であり、心である。土を耕すことでいのちの糧を得、心を耕すことで文化をつくる。土を耕すことと心を耕すことは「地下水のように」つながり、そこから多くの出会いが生れる。
だから斎藤さんは、百姓仕事の合間を縫って旅に出る。多くの地に生きる人とふれあい、心を耕す。
本書は、そうした人と人との出会いにも多くのページをさいている。斎藤さんがとくに力をこめて書いているのが、三里塚百姓との出会いである。
土を守り抜く強い意思に支えられた三里塚のたたかいを描く斎藤さんの文章は、百姓どうしの共感に満ち、感動的である。
70年代、斎藤さんが出会った三里塚反対同盟の農民や婦人行動隊のかあちゃんたちの多くはすでに鬼籍に入り、20代だった青年行動隊の面々はまもなく還暦を迎える年になっている。多くは戦列を離れたが、今も土を守りぬく少数の百姓が存在する。こちらも残り少なくなったが、私もその仲間として、ときに若者を誘って三里塚通いを続けている。
1980年代初め、私はもう一群の山形の百姓衆と出会う。最初は、東京で行なわれた減反反対デモだった。農民活動家集団と名乗る生きのいい連中がやってきてデモをするというので、仲間を誘い駆けつけた。
その中に置賜百姓交流会の面々がいた。山形県南部の置賜地域の散在する当時20代から30代の若い衆たちで、斎藤さんたちの世代より一世代若かった。
青年団運動、農協青年部運動、学生運動、地域の公害反対運動、有機農業運動などさまざまな運動の地域での実践者の出会いの場が百姓交流会であった。個性豊かな連中が行き交い、減反反対闘争、戦争のために二度銃をとらない百姓の集い、百姓国際交流などをつくり、そして足元の固めを求めて地域へ再び戻っていった。
私は農業記者として一緒に歩かせてもらって今に至っている。先輩たちのように余り物は書かないが、深く思索し、語り合い、実践することでは、先輩たちに引けをとらない。
このときも考えた。なぜこんなすごい奴らが群れで一地域に発生したのか−。答えは同じだった。彼ら自身が意識するしないに関わらず、彼らは「地下水」の嫡子なのだと。
地に生き、持続する百姓の足底には、地下水が必ず流れている。真壁仁はその地下水に文化という新しい流れを注ぎ込んだ。そこから斎藤たきちが生れ、置賜百姓交流会がたちあらわれた。
文化運動というものの底力を感じる。次には何を生み出すのだろう、長生きしてそれに立ち会いたいものだとつくづく思う。
本書に流れるキーワードとして先に「百姓」と「文化」のふたつを上げたが、もうひとつ付け加えなければならない。「地下水」である。
斎藤たきち著『北の百姓記』(続)を読む
菅野芳秀(山形・百姓、置賜百姓交流会世話人)
(東北出版企画 2310円)
三十五年ほど前になろうか。まだ私が東京で学生だったころ、よく読んでいた書物の中で幾度か「斎藤たきち・山形県・農民」の著名入りの文章に出会った。
当時、私は農家のあとつぎとして期待され、農学部に在籍してはいたものの、その道がいやで、何とか田舎に帰らない方法はないものかと考えていた。そのくせ、人生の方向を見つけられないまま、成田で起こっていた農民運動などに顔をだしていた。
その時のたきちさんの文章は、同じ農民という立場から、運動を担う成田の農民に心を寄せて書かれた、どっしりとしたものだった。農民であることに誇りをもつ、土の香りがする文章だった。
「山形にもこんな方がいるんだ」。同じ山形県人であることに親近感をもちながらも、当時の私にそれらの文章は重くこたえた。
やがて、私も農民となるのだが、その時以来、ずっと今日まで「齋藤たきち」の名前は、いつも気になる存在として私の中にあった。
斎藤たきちさんは、山形市門伝で農業を営むかたわら、農民の立場から詩をつくるなどの創作活動に精力的に取り組んでいる方だ。山形県を代表する詩人で野の思想家、真壁仁氏がおこした「地下水」の同人でもある。
そのたきちさんが昨年の秋、「北の百姓記(続)」(東北出版企画)を出した。一昨年の春に出版された同名の本の続編である。
「あとがき」に、先に出した本には「六十年余に渡る私の『百姓暮らしの叫び』」を、このたび出した続編には「百姓としてどう生きているか」を書いたとある。
読みながら、三十数年前の感情がよみがえってくるのを感じた。たきちさんはずっとあの時の姿勢のまま生きてきこられたのだ。
彼は単なる知識人ではない。それは彼の広い肩幅と、厚い胸、がっしりとした体躯をみたら分かる。田畑に働くことでつくられた体だ。そこから出てくる情感、思想を詩人の言葉でつづったのがこの本である。
作物や郷土に対してそそがれる目がやさしい。たきちさんは自らを「百姓」という。彼にとって百姓とは単なる職業なのではなく「生き方」そのものである。
まさにこの本には、土の上で懸命に生きてきたひとりの百姓、齋藤たきちの生き方があり、哲学があり、世界観があり、詩がある。
この本はいま農業に従事している人たちのみならず、多くの社会人、学生によんで欲しい本だ。
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