2007年06月16日12時00分掲載  無料記事
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財界人の戦争・平和観を追う 侵略戦争を認識した村田省蔵 安原和雄(仏教経済塾)

  安倍晋三政権は憲法9条(戦力不保持、交戦権の否認)を改悪し、「戦争のできる国・日本」を目指しており、それを経済界のリーダーである財界人の多くも支持している。しかし当の財界人たちがどのような戦争・平和観を抱いているのか、ほとんど語られることもないまま、財界には「憲法9条改正」は当然という空気が高まっている。これでは比類のない多くの犠牲者を出したあの「大東亜戦争―敗戦」という亡国への道を再び歩みかねないことを危惧する。 
 半澤健市著『財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争』は、日本海運界のリーダーであり、また大戦開戦前の近衛文麿内閣の大臣を歴任、さらに大戦開戦後はフィリピン派遣軍最高顧問として大東亜戦争を支えた村田省蔵という財界人が、戦後どのようにしてあの戦争を侵略戦争だったと認識し、平和志向へと転換していったかを追跡している。同著作を手がかりに財界人の戦争・平和観を考える。 
 
▽侵略戦争の反省に立って日中間の「信頼、誠実、友好」関係へ 
 
 まず同著作から村田省蔵(注1)最晩年の文章(「日中関係の現状を憂う」『世界』岩波書店、1955年11月号)を以下に紹介したい。戦争中、大東亜戦争を支え続けた財界人・村田はこの文章で「大東亜戦争は侵略戦争だった」という認識と反省を明示し、しかも日中関係のあり方として「信頼、誠実、友好」が基本であるべきことを力説している。 
 
 われわれは中国人に対して10余年にわたって侵略戦争を行った。土地を侵し、余億の中国の民衆に与えた精神的物質的の損害は計り知れないほど大きい。われわれ日本人として過去の罪業を深く愧(は)じなければならね。 
 周恩来氏は「過去のことは忘れましょう。・・・今まで日本からずいぶん不平等に扱われたが、過去は決して咎(とが)めません」と述べた・・・このようなおおらかな寛容の態度に接すると、私たちとしてはなおさらに愧じる気持ちを強くする。 
 
 中国は共産主義国家であり、だから友好を結ぶべきでないという人があるが、私はその説はとらない。(中略)共産主義だから悪いという固定観念で中国を律するべきでない。要は日本と中国が離るべからざる関係にあることの認識から出発すべきなのである。 
 日本が独立国として特定の一国に輸出入の多くを依存することはかなり危険なことである。だから他にマーケットを、それもなるべく近いところに拓くことが必要になってくる。中国という大きなしかも将来性をもったマーケット・・・をこちらの方でわざと忌避することは、日本として耐えられないことではないか。 
 
 過般の日米共同声明(注2)で西太平洋の安全保障なることが謳(うた)われ、海外派兵が云々された事態を私は憂えるものである。折角、日本国民が平和を願っており、戦争を欲していないことがよく判ったと中国が言いだした矢先である。日本は米国に加担して再び侵略戦争を行うのではないかと恐れ、日本を仮想敵国とするかつての中ソ同盟条約の線に中国側としても帰らざるをえなくなってくる。 
 国際関係は恐怖と偏見と猜疑によるものであってはならない。それは信頼と誠実と友好に基づくものでなければならない。 
 
 (注1)村田省蔵(1878=明治11年~1957=昭和32年)は高等商業学校(一橋大学の前身)卒業後、大阪商船に入社。その後同社社長、日本船主協会(後に日本海運協会に改称)会長、さらに大戦前の近衛内閣で逓信大臣、鉄道大臣を歴任した。大東亜戦争開戦(1941年12月)後、比島(フィリピン)派遣軍最高顧問、駐比特命全権大使などに就任した。 
 敗戦(1945年8月)以降はA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所などに収監される。公職追放解除後、フィリピン友の会、日本関税協会,日本海事振興会、海運合理化懇話会、日本海外協力連合会、日本国際貿易促進協会(国貿促)などの会長、委員長を歴任した。晩年の1955年(昭和30年)以降、国貿促会長として何度も訪中し、中国の毛沢東主席、周恩来総理らと会談した。 
 
 なお著者の半澤健市は、1958年一橋大学社会学部卒後、野村證券、東洋信託銀行などに勤務、定年後、神奈川大学院歴史民俗資料学研究科博士後期課程を終了。著書『財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争』は博士論文で、07年3月刊。 
 
(注2)1955(昭和30)年8月末、ワシントンで行われた重光葵外相とダレス米国務長官との会談の後に発表された日米共同声明は次の諸点を強調している。①日本の防衛力増強、②日本が西太平洋における安全保障の維持に寄与すること、③現在の安全保障条約をより相互性の強い条約に変えることで日米同意―など。③は現行の日米安保条約(1960年6月発効)として具体化し、今日に至っている。 
 また当時の朝日新聞(1955年9月2日付)は「米政府筋は、日米双方とも将来日本が海外に派兵できることを考え方の基本にしている旨述べた」と報じた。 
 
▽「臣下としての財界人」と「帝国主義的財界人」 
 
 戦前、戦時中の財界人としての村田には2つの顔があった。1つは「天皇の臣下としての財界人」であり、もう1つは「帝国主義的財界人」である。 
 前者の「臣下としての財界人」とは、「合理的で有能な経営者である日本の財界人が、天皇の前では〈天皇の戦争〉に批判の声を挙げることができず、屈折した心理のもとに非合理的な軍事優先の経済運営に屈服したこと」を指している。 
 
 後者の「帝国主義的財界人」とはどういう財界人像なのか。日中戦争突入直前の村田の「年頭所感」(海運業界誌『海運』1937年1月号)を以下に紹介しよう。 
 
 大和民族の鬱積(うっせき)せる活力は、その捌口(はけぐち)を世界に求め、軍事はもとより政治、外交、通商、海運などあらゆる方面に異常なる発展を遂げ、世界の脅威となった。列強は殊に我が貿易の躍進ぶりに驚き、高関税などあらゆる障碍(しょうがい)を設けて我が国の正常なる経済的発展を阻止せんとしている。「持てる国」と「持たざる国」、つまり旧大国と新興国の利害は対立する。持たざる国が打開してきた新情勢を無視してはならない。世界各地の危機や経済不安は、この新情勢を適当に顧慮せざるによる。(中略)持たざる国・日本の唯一の頼みは人力であり、我々が人力によって自己生存の運命を開こうとするのを持てる国の旧大国が障碍を築いているのは自然ではない。 
 これの打開には(中略)和戦両様の構えで、「自ら恃(たの)むあるの覚悟」を持つべきである。 
 
同著作は、この年頭所感について次のように解説している。 
 これは「海運経営者」であるよりも、「帝国主義者」の言説であった。「持てる国」、「持たざる国」の概念は遅れてきた帝国主義国の自己主張であった。日本資本主義が1941年までは戦争とともに発展してきたという歴史的な事実に照らせば、日米開戦(41年12月)までブルジョアジーが戦争による繁栄を経営の基本方針とするのは自然なことであった。 
 
 またこうも指摘している。 
 村田が「過ぐる戦争」を「大東亜戦争」と認識したのは、日本神話に由来する幻想的な八紘一宇のイデオロギーを信じたからではない。次の3つの物質的な基盤に確信をもっていたからである。 
①「大日本帝国」が過去、数次の戦争に勝利することで発展してきたこと 
②日本の海運界が補助金と一連の戦争(特に第1次世界大戦)を背景に発展したこと 
③大阪商船は主要市場である中国ビジネスで経営を拡大してきたこと 
 
▽「聖戦」から「侵略戦争」への認識転換 
 
 戦時中の「大東亜戦争=聖戦」という村田の戦争認識は、戦後になって「侵略戦争」へと転換した。その背景はなにか。同著作は以下のように指摘している。 
 
 第1は海運業の「栄光と屈辱」である。 
 海運業が戦争で栄えたという事実は開戦までの海運業者に「好戦性」を与えた。その海運業が大東亜戦争によって壊滅したという事実は、戦後の海運業者に「反戦性」を与えた。戦争が海運業の「栄光と屈辱」をもたらしたことは村田の戦争認識とその変化の第1の要因である。 
 
 第2は大東亜共栄圏の理想と現実があまりにも隔たっていたことである。いいかえれば「植民地解放」の実態は「植民地支配」であったこと。 
 戦争の生々しい実態を細部まで知った村田は大東亜共栄圏の「理念」と「実態」を峻別してゆく。「実態」を知った者としてかれは戦争の本質、侵略や戦争犯罪について考えないわけにはいかなかった。このことが村田の戦争認識とその変化の第2の要因である。 
 
 村田は1942年2月から45年3月まで3年余りをフィリピンの戦場で日本軍軍政最高顧問、駐比特命全権大使として過ごした。その体験、見聞を「比島日記」に克明につづり、日本軍の非合理的な思考と行動に強い批判を加えている。そのうえ軍政批判として「対比施策批判」(1945年4月)をまとめた。そのめぼしい項目をいくつか拾ってみると、次のようである。 
 
*経営論的視点 
 軍隊の頻繁な人事異動=自己組織中心の論理への批判、陸海軍縦割りの弊害、「中央の指令届かず」、「中央の過剰干渉」 
*専門知識の軽視 
 軍票の乱発=金融知識の欠如とその自覚なき軍人への批判、食糧不足に対する専門家の対処失敗 
*近代的意識あるいは民主主義の不在 
 憲兵隊の暴力、対比差別意識と暴力、カトリックと消費主義への日本的精神主義による説得の困難、教養なき日本人 
 
 この「批判」の手記はフィリピンから帰国後、当時の東郷茂徳外務大臣ら国内要人に手交された。村田と東郷外相との面談の際、「もし2年前にこの手記をみて、その誤りを正していれば、今日のような結果をみることもなかったとして、軍人の態度の批判を相互に語り合い、さらに国民全体の反省と教化なくしては大東亜共栄圏の建設は夢にすぎない、と一致した」とある(1945年7月9日付の日記・趣旨から)。 
 8月15日の敗戦の日を目前にして、批判も反省も時すでに遅し、の雰囲気が伝わってくる。 
 
▽ 21世紀に期待される「自立的財界人」 
 
 半澤は同著作で村田のような「自立的財界人」の重要性は21世紀のいまこそ失われてはならない、と強調している。「自立的財界人」とはどういう財界人なのか。以下のような4つの条件を備えた財界人を指している。これは冒頭に紹介した最晩年の村田の文章「日中関係の現状を憂う」からも十分にうかがうことができる。 
 
*反戦平和を求める財界人 
 海運人村田には、日本の海運業が戦争とともに栄え、戦争とともに滅んだことから、敗戦によって「反戦平和」を求める海運人として再生しようとし、原水爆禁止運動にまでかかわった。 
 また村田は周恩来の平和共存5原則(注)に賛意を示した。当時の西側諸国は「平和共存」外交に同意していたわけではない。平和共存政策は、東側の「平和攻勢」であり、イデオロギーを隠した外交戦略と見られていた。にもかかわらず村田は5原則に賛同した。 
 
(注)平和共存5原則は1954年周恩来中国総理とネール・インド首相の会談に基づき合意された国際関係における原則で、次の5項目からなっている。領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存。 
 
*友好的なナショナリズム 
 村田はかつて差別し支配する対象としていた中国を対等の相手としてみることになった。かれのナショナリズムは敵対的なものから友好的なものへと脱皮した。村田と周恩来の会談記録からもそれはいえる。村田は率直な問いを発して日中間の立場の違いを鮮明にした。しかし立場の違いの明示は両者の相互理解への道を開いた。 
 ナショナリズムには偏狭で独善的な側面と開かれた共存的な側面があるが、村田が望んだのは後者である。村田のナショナリズムはアジア主義の色彩さえ帯びていた。 
 
*経済的必要と道義的必要の両立 
 村田は日中関係回復を重視すべきことを経済的必要と道義的必要(贖罪)の二つから説いた。かれは隣国市場の潜在力は巨大であり、その開拓は日本経済にとって有益と考えた。村田はそのうえ戦争責任を引き受け、償おうとする贖罪意識があった。村田の場合、日中間の経済的必要と道義的必要は矛盾することなく両立していた。日中間の経済協力が新興独立国家として発展しようとする中国への贖罪を意味していたからである。 
 
*日米協力関係の相対化 
 日本の戦後外交における自立性の欠如は冷戦を理由にして正当化されがちである。しかし村田が選んだ立場は、東西冷戦を所与とするものではなかった。もちろん冷戦の現実に目をつぶったわけではない。しかし容共か反共かという枠組みを当然視するものではなかった。親中国の思考ではあったが、容共イデオロギーではなかった。平和的なナショナリズムで対中接近を図った。これは日米協力関係を絶対視しないで、相対化した「自立的財界人」の理念と行動といってもよい。 
 
▽昨今の財界人の戦争・平和観は? 
 
 さて村田は「大東亜戦争」を肯定し、それに参加、推進したが、敗戦後には「侵略戦争だった」と戦争認識を根本的に転換させ、平和を求め、日中関係回復に貢献した「自立的財界人」であった。 
 村田と他の多くの財界人とはどこがどう異なっていたのか。半澤の次の指摘は重要である。 
 
 「戦争より平和を是とする存在」に変身するためには戦争の総括が必要である。それは厳しい内面の葛藤を伴うであろう。日本国民のほとんどがそうであったように財界人も戦争の総括を行わず、ズルズルベッタリに「吉田路線」(注)を当然の前提と考え、東西冷戦体制、「対米従属」を容認し(主観的には「対米協調」)、しかもそれが不可避と考えた。 東西冷戦の枠組み下では対共産圏接近はタブーであった。村田は東西冷戦構造が存在する事実は認めたが、それを変更不可能な所与の前提とは考えなかった。つまり村田は「自立的財界人」への転換を自覚的に主体的に行ったのである―と。 
 
(注)敗戦後の昭和20年代にほぼ一貫して首相の座にあった吉田茂(第1次吉田内閣~第5次内閣まで)が主導したいわゆる吉田路線は、軽武装・通商国家、反共の「中共観」と対中外交の欠落、共産圏を敵視する対日講和条約・旧日米安保条約の締結―などを指している。 
 
 その村田に比べて、昨今の財界人はどのようなイメージでとらえられるだろうか。果たして恥じることのない明確な戦争・平和観はあるのか。いうまでもなく戦争・平和観とは戦争否定・平和肯定の思想でなければならない。 
 
 ここでは財界総本山、日本経団連(御手洗 冨士夫会長)が07年元旦に発表したいわゆる御手洗ビジョン(正式名称は「希望の国、日本」ビジョン2007)を手がかりに考える。戦争、平和さらに愛国心などに関連ある記述はほぼ以下のようである。 
 
*アジア太平洋地域の平和と安定の強化に寄与していくため、日米同盟を安全保障の基軸として堅持しつつ、MD(ミサイル防衛)能力の向上をはじめ、適切な防衛力を整備し、2国間や多国間の共同演習などを含む安全保障対話の推進に努めなければならない。 
*国民の安心・安全を確保するために必要な安全保障政策を再定義し、その展開を図っていくことが求められている。しかし自衛隊や集団的自衛権の憲法上の位置づけが不明確であり、実効ある安全保障政策の展開が制約されている。 
*自衛隊が国際社会と協調して国際平和に寄与する活動に貢献・協力できる旨を憲法上、明示する必要性が高まっている。 
 
*経団連は2010年代初頭までに憲法改正の実現を目指す。改正の内容は9条第1項の平和主義の基本理念は堅持しつつ、戦力不保持をうたった同条第2項を見直し、憲法上、自衛隊の保持を明確化する。自衛隊が主体的な国際貢献をできることを明示するとともに、国益の確保や国際平和の安定のために集団的自衛権を行使できることを明らかにする。 
*安全保障会議を抜本的に強化し、日本版NSC(国家安全保障会議)として機能させる。 
*愛国心を持つ国民は、愛情と責任感と気概をもって、国を支え守る。 
*悠久の歴史が織り成してきた美しい日本の文化と伝統を子どもたちに着実に引き継ぎ、活力と魅力にあふれた「希望の国」を実現することは可能であるし、われわれの責務である。 
 
▽「日米安保体制の臣下」と化した財界人たち 
 
 上記の御手洗ビジョンには戦争・平和に関する財界独自の構想や思想はうかがえない。 ただあるのは安倍首相の著作『美しい国へ』が語っている日米安保論や愛国心であり、安倍政権、自民党がすでに打ち出している安全保障政策とは異質の考え方は何一つ見出せない。具体例をあげれば、日米同盟の堅持、安全保障政策の再定義、憲法改正(9条第2項=戦力不保持、交戦権の否認=の見直しと自衛隊の保持)、集団的自衛権の行使、日本版NSCなどはすべて安倍政権、自民党が唱え、実施あるいは検討中のテーマである。 
 
 「MD能力の向上」や「適切な防衛力整備」など日米安保と兵器ビジネスにかかわる課題を盛り込んでいるあたりがいかにも算盤勘定優先の経済界らしいというべきか。これもすでに動き出している周知の話だが、先行き大増税につながっていくことを見逃してはならない。 
 
 特に注目すべきは「日米同盟を安全保障の基軸として堅持」という財界の認識である。昨今の日米安保体制=日米同盟は、いわゆる「安保の再定義」によって著しく変質している。具体的には日米安保条約の日米共同対処区域を従来の「極東」から「テロとの戦い」などを名目に「地球規模」へと拡大させている。07年4月の日米首脳会談(安倍・ブッシュ会談)でも「世界とアジアのための日米同盟」を確認した。 
 この日米同盟を機能させて米国は大義なきイラク戦争に走り、日本は自衛隊を派兵した。日米安保=日米同盟はいまや戦争を画策する巨大な拠点と化している。 
 
 財界は、そういう日米安保=日米同盟を堅持する、というのだから、これは日米一体化のもとでの戦争容認であり、御手洗ビジョンが掲げる「国際平和の安定」は単なる美辞麗句であり、空手形にすぎない。実体は米国主導の戦争という名の国家暴力の行使に引きずられて、地球規模の「いのちと平和」を破壊する結果を招く恐れが多分にある。 
 
 戦前、戦時中の財界人が「天皇の臣下、財界人」として天皇批判がタブーであったように、戦後の財界人にとって日米安保はタブーとなった。日米安保はこれまで批判を許さぬ存在であり、それを改めて確認したのが御手洗ビジョンである。これでは「日米安保体制の臣下、財界人」といっても決して的外れではないだろう。ここでの「臣下」とは「批判能力を持たない家来」という意味である。 
 
 財界が日米安保体制―軍事同盟と同時に経済同盟でもある―を支持する理由がないわけではない。例えば戦後の日本の貿易(輸出入)総額は対米貿易が最大であった。しかし最近日中貿易が急増し、2007年には対中国貿易総額が対米貿易総額を上回る公算大となっている。これは一例にすぎないが、世界に占める日米関係の地位は政治・外交、経済的に急速に沈下しつつある。日米関係を絶対視する時代はすでに過去のものとなりつつある。 
 
 村田は戦時中の自らの過ちに気づいて戦後、日本外交の基軸である日米協力関係を思想と行動の両面で絶対視しないで、つまり価値観を相対化させて「自立的財界人」に脱皮した。昨今の財界人にそういう価値観の転換、成長脱皮を期待するのは、しょせん無理なことなのだろうか。 
 
*「安原和雄の仏教経済塾」より転載 
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