2007年06月23日10時47分掲載  無料記事
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日米安保体制の軌跡を追う 平和憲法9条を守る視点から 安原 和雄(仏教経済塾)

  今年(2007年)の6月23日は現行日米安保条約が発効(1960年)してからちょうど47年目に当たる。安倍晋三政権はその日米安保体制下で平和憲法9条(=戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)を改悪し、正式の軍隊を保持し、「戦争のできる国・日本」を目指しており、自民党は7月の参院選公約に「2010年の国会で憲法改正案を発議」を盛り込んでいる。 
 半世紀近い歴史をもつ日米安保体制がどういう軌跡をたどってきたか。平和憲法9条の理念を守り、生かしていくという視点に立って日米安保の軌跡を追う。 
 
▽安保反対の最中に父に宛てた葉書 
 
 最近、私の生家(広島県)へ帰郷した折、手紙類を整理していたら、その中に私が父に宛てた葉書を発見した。日付は私がペン字で書いた6/24とあり、6月24日である。年代は字が消えかかっていて判読できないが、文面を読んでみると、なんと当時の岸信介首相を退陣に追い込んだ安保反対闘争最中の印象記がつづってあり、1960年6月24日付の葉書とわかる。その趣旨は次のようである。 
 
 田植えはもう終わりましたか。毎日お忙しいことと存じます。東京は「新安保反対」、「国会解散」、「岸内閣退陣」などと革新陣営の旗あげデモで、自民党や岸内閣も押され押されて、連日荒れ狂っています。小生なども毎日のように国会、アメリカ大使館、首相官邸などでデモ取材の徹夜が続いています。 
 元気ですからご安心下さい。くれぐれもお大事に。 
 
 その父も他界してすでに20年にもなる。私は当時、1960年5月に毎日新聞地方支局勤務から東京本社社会部に配属になったばかりの駆け出し記者であった。短い葉書の文面だが、当時の雰囲気は手に取るようによみがえってくる。 
 
 国会周辺を中心に都内のあちこちを埋め尽くしたデモ隊が繰り返す蛇行、渦巻きデモ、そして「新安保ハンタ〜イ」ワッショイ、「岸は退陣せよ〜」ワッショイ、ワッショイ、という威勢のよい大合唱は夕日が没してからも止むことはなかった。星が美しく輝く夜空(当時は大気がそれほど汚染されていなかったので星も輝いていた)にいつまでもこだましていた。 
 
▽子どもだった安倍首相の「アンポ、ハンタイ」 
 
 安倍晋三首相は、著作『美しい国へ』でこう書いている。 
 当時まだ6歳だった私には、遠くからのデモ隊の声が、どこか祭りの囃子(はやし)のように聞こえた。ふざけて「アンポ、ハンタイ」と足踏みをすると、父母は「アンポ、サンセイ、といいなさい」と冗談交じりにたしなめた。祖父(岸信介首相)は、それをニコニコしながら、愉快そうに見ているだけだった。 
 
デモ隊の「ハンタ〜イ」の叫び声を首相の祖父とともに聞いていた孫が、40数年後に首相の座に登りつめようとは、デモ隊の誰が予想しただろうか。 
 もう一つのエピソードを紹介しておきたい。 
 1960年当時、水野成夫サンケイ新聞社長は有力な財界人として、その存在が知られていた。 
 
 その水野が6月15日頃自宅の電話口で「官房長官を出せ」と電話の相手に言っていた。岸内閣の官房長官は椎名悦三郎であった。テレビやラジオは国会周辺のデモを伝えていた。すぐ椎名が電話口に出た。 
 水野は一気に「どんなことがあっても自衛隊を出しては駄目だ。自衛隊を出したら内乱になる。君から岸によく伝えろ」と受話器を握りしめ、力を込めて繰り返し相手に言っていた。 
 
 これは水野の側近、サンケイ常勤監査役・菅本進が水野の自宅で間近に目撃した歴史的一コマの証言(菅本著『前田・水野・鹿内とサンケイ』)である。自衛隊法は自衛隊の任務として「間接侵略の防衛」という名の治安出動を定めている。大規模デモの対策として、当時自衛隊を治安出動させるかどうかが政府内で検討されていたともいわれる。水野はこれを必死になって阻んだというのが証言の趣旨である。もし治安出動させていたら、その後の日本の政治状況はどう変わっていただろうか。 
 
▽新安保条約発効前後の動き―岸内閣退陣から池田内閣登場へ 
 
 ここで1960年6月23日に新日米安保条約が発効した、その前後の動きを年表風に追ってみよう。 
 
・政府と自民党、衆院で質疑打ち切りを強行、警官隊を導入(5月19日)。新安保条約を自民単独で強行採決(20日未明) 
・安保改定阻止第1次実力行使デモに全国で560万人参加(6月4日) 
・米大統領秘書ハガチー来日、羽田でデモ隊に包囲され、ヘリで脱出(6月10日) 
・安保改定阻止第2次実力行使デモに全国で580万人参加(6月15日〜16日)。 
 全学連主流派、警官隊と衝突、東大生樺美智子さん死亡(6月15日) 
・安保阻止統一行動、33万人が国会デモ、徹夜で国会を包囲(6月18日) 
・新安保条約、自然承認(6月19日) 
・新安保条約批准書交換、発効。岸首相、閣議で退陣の意思を表明(6月23日) 
・岸内閣総辞職(7月15日) 
・池田勇人内閣成立(7月19日)、「寛容と忍耐」をキャッチフレーズに登場 
・浅沼稲次郎社会党委員長、日比谷公会堂で演説中に右翼少年山口二矢に刺殺さる(10 月12日) 
・経済審議会(首相の諮問機関)、国民所得倍増計画を答申(11月1日)。閣議、同計画を決定(12月27日) 
 
 新安保条約が発効したその日の毎日新聞(6月23日付夕刊)には「新安保発効・政局急展開へ」、「岸首相、退陣を表明」、「新首班で人心一新」などの大きな活字が躍っている。メディアの関心は、すでに政局の急展開、人心一新がどこまでできるかに移行しつつあった。 
 新しく登場した池田勇人首相の課題は「反岸内閣」のムードからどう局面展開を図るかにあった。そのキャッチ・フレーズが大平正芳官房長官(後の首相)演出による「寛容と忍耐」であった。同時に経済政策として打ち出したのが「国民所得倍増計画」である。「10年間で月給倍増計画」などとはやし立て、素人受けするプランであった。ささくれだった国民の気分もやがて沈静化し、「政治の季節」から「経済の季節」へと急旋回していった。 
 大量消費、使い捨てが広がり、「浪費は美徳」の時代が始まる。車社会も急速に定着していく。経済成長賛美論が支配的イデオロギーとなった。半面、公害が広がり、円の切り上げ、石油危機など多難な出来事も次々と経済や暮らしを襲った。それでも「今日よりも明日はより豊かになるだろう」と多くの国民は信じようとした。 
 
▽「旧安保」と「新安保」はどう異なるか 
 
 さて旧日米安保条約(1952年4月28日公布)と新日米安保条約はどう違うのか。なぜあれほど大規模の改定阻止行動が当時盛り上がったのか。まず旧安保と新安保の違いをみよう。 
 
*旧安保は軍事同盟一色だが、これに対し新安保は軍事同盟と経済同盟の両面を備えている。 
*旧安保では米国は日本が「直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」とうたい、防衛力漸増論を唱えているが、新安保では「自衛力の維持発展」(第3条)、「共同防衛」(第5条)などを明記している。 
 ここが平和憲法9条の「戦力不保持」、「交戦権の否認」の規定と真っ向から矛盾対立する点である。 
 
*旧安保(第1条)では米国軍隊は、外国の干渉によって引き起こされる日本国内の大規模な内乱を鎮圧するため使用できるとしている。新安保ではこの条項は削除された。 
*条約の失効条件として、旧安保は「日本及び米国の政府が認めたとき」とうたい、一方的破棄を拒否している。これに対し、新安保(第10条)では「この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に条約を終了させる意思を通告することができ、条約はその通告後1年で終了する」と規定している。これは一方的破棄が可能な規定である。 
 
 「旧安保は日本に不利な不平等条約であり、それを改定する」が岸内閣のうたい文句であった。なるほど新安保条約の一方的破棄が可能な条項が盛り込まれた点などは改善といえる。ただ国民がその意志として、この破棄条項を活用しなければ、しょせん絵に描いたモチにすぎない。 
 一方、「自衛力の維持発展」、「共同防衛」が明記され、日本の責任が重くなった。また日本から行われる米軍の戦闘作戦行動などに関する日米政府間の「事前協議」が新たに設けられたが、実際は米軍側の意向をそのまま受け容れるわけで、事実上空文化している。 
 
 こうして日本は安保体制下で軍事力偏重の米国世界戦略の中に組み込まれていく。その後の米軍によるベトナム侵略戦争、湾岸戦争、目下作戦行動中の米国主導のアフガニスタン・イラク戦争と占領は、日米安保体制下の巨大な在日米軍基地網の存在なくしては困難といっていいだろう。 
 このように実質上の日本の戦争協力という予感があったからこそ、あれほど大規模の「安保ハンタイ」の声が響き渡ったのである。 
 
▽中曽根政権時代を経て「世界の中の日米同盟」へ 
 
 「経済の季節」から再び「政治の季節」へ、さらに「安保の時代」へと転回していったのは中曽根康弘首相の登板(1982年11月)がきっかけとなった。中曽根首相は日米首脳会談(83年1月)のため訪米し、「日米は運命共同体」、「日本列島不沈空母化・海峡封鎖」などと発言、さらに初の施政方針演説(同年1月)で「戦後史の大きな転換点」と強調した。おまけに現職首相として戦後初の靖国新春参拝(84年1月)に踏み切った。 
 
 昨今の日米安保体制、すなわち日米同盟は当初からみると、著しく変質してきている。その節目となったのが1996年4月の日米首脳会談(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談)で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」である。この共同宣言は次のように述べている。 
 「首相と大統領は、日米安保条約が日米同盟関係の中核であり、地球規模の問題についての日米協力の基盤たる相互信頼関係の土台となっていることを認識した」と。 
 ここでの「地球規模の日米協力」とはなにを意味するのか。 
 
日米安保条約の適用範囲あるいは日米共同対処区域を従来の「極東」から「地球規模」へと無限大に拡大させたことに着目したい。これは「安保の再定義」ともいわれ、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、実質的な内容を大幅に変えていく手法である。このような安保の再定義が地球規模での「テロとの戦い」に日本が参加していく布石となった。米国主導のイラク攻撃になりふり構わず同調し、自衛隊を派兵したのも、この安保の再定義が背景にある。 
 2003年5月の日米首脳会談(小泉純一郎首相とブッシュ大統領との会談)でも「世界の中の日米同盟」を強化していくことで一致し、さらに07年4月の日米首脳会談(安倍晋三首相とブッシュ大統領との会談)で、「世界とアジアのための日米同盟」を改めて確認した。 
 
 安倍政権と自民、公明両党は07年6月20日、参院本会議で自衛隊のイラク派兵を2年間延長する改正イラク復興支援特別措置法を強引に成立させたが、名目は「イラク復興支援」とはいえ、実体は「対米支援」である。これはイラクにおける米軍中心の軍事作戦を支援するために航空自衛隊が輸送活動を行うもので、後方支援という名の事実上の参戦協力である。その背景に「世界の中の日米同盟」がある。 
 
▽「世界の宝」である憲法9条の悲劇は世界の悲劇 
 
 「世界の中の日米同盟」にまで変質した日米安保体制は、憲法9条を中心とする平和憲法体制と真っ向から矛盾・対立し、憲法9条の空洞化をすすめた。その空洞化路線の最後の仕上げとして安倍政権の改憲が位置づけられている。自民党は07年7月の参院選に向けた公約に「2010年の国会で憲法改正案を発議」と明示している。安倍政権の改憲の中心テーマはいうまでもなく平和憲法9条の「戦力の不保持と交戦権の否認」を削除し、正式の軍隊を保持することである。 
 
 中米の小国コスタリカは1949年の憲法改正で軍隊を廃止し、今日に至っている。日本国憲法9条の理念を実践しているともいえるのであり、世界各国から大きな関心を集めている。世界中で広く「9条は世界の宝」という高い評価を得ているのである。にもかかわらず、それに背を向けて安倍政権は宝物を投げ捨てようと画策している。それほどまでして米国に追随し、究極の国家暴力ともいうべき戦争をしたいのか。地球規模の「いのちと平和」を破壊したいのか。 
 
 今、「9条を守れ、生かせ」という声は日本列島上に広がりつつあるとはいえ、半世紀前に噴き上げ、岸政権を退陣に追い込んだあの巨大なエネルギーはうかがえない。このエネルギーの落差はどこから来ているのか。9条の悲劇は、日本だけではなく、そのまま世界の悲劇でもあることを忘れてはなるまい。 
 
*「安原和雄の仏教経済塾」より転載 
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