2007年07月02日12時15分掲載
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戦争を知らない世代へ
虐殺を楽しんだ殺人狂の中隊長 日中戦争の真実 中谷孝(元日本軍特務機関員)
戦後62年経ち最近は日中戦争を正当化し美化する読物や漫画まで出現している。確かに戦場には美談もある。個々の兵士に罪はない。然し中国人に与えた損害・危害は莫大である。「勝者は何をするのも勝手だ」と云う驕りが無法行為を生んだ。私は誤った戦争観を正す為、今迄口にすることの無かった事実を話す気持ちになった。この話に粉飾は無い。現地盧州(現・合肥=ホフェイ)の古老が証言してくれると思う。
「臆病な兵隊に度胸を着けるには人を殺して見せるのが一番だ。それも成るべく残虐に」そんなことを言う男が中隊長になっていた。私は口にしたことの無かった戦場の真実を伝え残すことになった。
昭和19年(1944)12月、単身寿県に情報拠点を設けていた私は突如、盧州班に転勤を命じられた。不本意であったが止むを得ない。
盧州は合肥と云い安徽省有数の古都であるが、2年前日本軍が准南鉄道のレールを外して南方戦線に運んだ為極端に交通が不便になり、暗く陰気な街であった。此の街に駐屯する日本軍は2個中隊。古姓(こしょう)中尉と合田中尉がそれぞれの隊長として警備に当たっていた。着任して先ず感じたのは、昭和13年の漢口攻略の折、北側ルートの拠点となった街で占領以来既に6年以上経っているのに全く復興していないことである。南の揚子江と北の准河と云う交通の大動脈に挟まれて産業も振るわず、加えて日本軍に鉄道外された為、疲弊に拍車が掛かった状態になっていた。
それにしても日本軍と住民の接触交流を全く見ないのである。占領後、1、2年経つと住民も兵隊に馴れて休日外出の兵隊と子供や住民の間に笑顔の片言が交わされるだが、此の街ではそれが全く無い。住民は日本兵を避けている、何だかおかしい。次第に盧州の特異な事情がわかって来た。原因は警備隊にあった。それも古姓中尉が元凶であった。
古姓中尉は兵卒からのたたき上げで、一見40歳前後、背は低く浅黒い風采の上がらぬ男であるが立派なカイゼル髭だけが目立っていた。此の男の評判は最悪であった。合田中隊の兵隊が嘆いていた。「休日に隊外酒保(軍の委託する食堂・売店)に行っても饅頭が汁粉はすぐ売り切れでなかなか食べられないが、古姓中隊の休日にはいくらでも食べられる。酒保のバアサンが古姓中尉と出来ているから仕方無い」。
因みに酒保の砂糖や小豆は軍の経理部が支給していた。特務機関の秦班長は“触らぬ神に祟り無し”と云う方針で、古姓中尉が特務機関の職権である中国行政機関の管轄を犯し、行政に干渉しても見て見ぬふりをしていた。部隊と中国行政機関の折衝は必ず特務機関が介在するように軍司令部から通達が出ていた。
古姓中尉の許し難い行状が次第に判明してくると、放置したら一大事と思うようになった。殺人狂なのである。彼の見る中国人は虫けら同然であった。難くせをつけてなぶり殺しにするのを無上の楽しみにしていた。信じ難いことだが事実である。古姓中尉の密偵と称するならず者が居て、通敵行為が有ったと云って住民を拉致して来る。中隊に通訳はいない。ろくに調べもせず特製の手枷足枷を付けて転がし、中隊の輪の中で2頭のシェパードに噛み殺させて楽しんでいた。
此の噂は街中に知れ渡り恐怖の的になっていた。後日私が古姓隊を訪れた時、衛兵所の目立つ所に大きく「手枷」「足枷」と墨書してかけてある実物を目にした。住民が日本兵を恐れるのは当然である。このままでは住民が敵側に回り治安が悪化する。戦争は既に末期的である。東京大空襲、硫黄島決戦の頃である。遠からず来るであろう最後の決戦を戦えるのか。
秦班長が蚌埠出張中の留守に事件が起きた。警察の汪署長が青ざめた顔で現われた。城門警備の警察官が通行者に金銭を要求した云って呼び付けられたのである。署長も古姓の名に怯え上がっている。一介の中隊長にそんな権限は無い。私が同行することにした。中隊本部を訪れるのは初めてであった。先ず目についた衛兵所の手枷足枷が異様であった。古姓中尉は椅子のクッションに深々と座り大きなシェパード2頭を左右にはべらせ、酒保特製の餅菓子を食べていた。相手を威嚇する常套手段であろう。署長は青ざめている、1メートル余り前方にシェパードの鋭い眼が睨んである。
私は先ず警備隊が直接中国行政に口を挟むことは軍律違反であると告げると、「通達がなんだ、司令部の奴等に現地のことがわかるか、そんなものに従っていたら治安は保てん」と大声で怒鳴り始めた。激論となりシェパードは頭を下げ縮めて、何時でも跳び掛かる体勢である。2頭の犬は主人の「掛かれ」の命令を期待している様に見えた。正直、相手が動物であるだけに恐ろしい。間違って飛び掛かられたら大変である。思わずブローニング(拳銃)に手をかけ安全装置を外した。途端に古姓中尉が態度を豹変させた。予想外の激論となり自分が撃たれるのを恐れたのであろう。「まあそんなに興奮するな、よく話し合って決めればいい」と突然話を打ち切った。
その4ヶ月後の敗戦である。軍司令部から各部隊駐屯地に於いて武装解除に応ずる様通達があったたが突然の事態に狼狽し混乱していた。私は中国軍と接触する様提言したが、古姓中尉は猛反対、早速脱出して准南に向かうと主張する。彼はこの地で武装解除すれば自分が無事で居られないことを知っていた。結局8月19日未明脱出を強行した。既に城外に集結していた中国軍から銃撃を受けたが戦門を避けて一路准南へ向かった。全く日陰の無い炎天下3日間の行軍は、脱水症の死者も出たが脱出に成功した。私は准南で部隊と別れ、蚌埠へ向かった盧州警備隊のことは忘れていた。
その後南京で総司令部関係者から要請を受け中国軍総司令部に留用された私が、昭和21年8月頃復員して訪ねた蚌埠機関の同僚から聞いた話に驚いた。あの古姓中尉が蚌埠で身の危険を感じ徐州に逃亡したが逮捕され、民衆にリンチを受けて殺され、晒し首になったと云う噂を上海で帰国待ちの間に聞いたと云う。真偽は不明であるが確度の高い話だと思っている。
中国の民衆は当時、日本兵を“鬼子(クィズ)”と呼んだ。凶暴野蛮と言われた日本兵だが、戦場は古今東西、残虐であり、勝者は粗暴であり野蛮に振舞った。然し古姓中尉の蛮行は常軌を逸していた。彼の様な異様な残虐性を持つ人間が日本軍の下級幹部にいたことは残念乍ら事実なのである。
彼は極めて異常な人間であったが、戦争は人間を異常にする。紳士が鬼になることもある。現在の戦争でも報道は避けているが極めて残虐野蛮な行為があると、噂に聞く。戦争そのものが殺人を正当化する、超野蛮な大量殺人である。戦場は今も変わらぬ無法地帯なのだ。
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