2007年07月19日12時22分掲載  無料記事
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戦争を知らない世代へ

中国の戦場で捕虜になった日本軍人 中谷孝(元日本軍特務機関員)

  嘗て、日本軍は捕虜になることを許さなかった。戦陣訓という教科書により捕虜になるより自決して虜囚の辱めを受けることが決してあってはならないと教育されていた。然し戦場で偶発的に捕虜になる軍人があったことは当然である。 
 
 私は昭和18年(1943)年9月から一時期、南京の総司令部報道部に臨時勤務していた折見た重慶の新聞紙上、或いは傍受したラジオ放送にしばしば日本兵捕虜に関する内容を見聞した。又日本軍捕虜総出演と云う長編映画も見た。此の映画出演者はまぎれもなく日本軍人であった。 
 
 重慶には日本軍捕虜収容所があり、和平村と名付けられ村民1500名、村長は鹿地亘(かじわたる)であった。鹿地は戦前上海に居住したプロレタリアート作家であったが、国民党と共に漢口に逃れ、その後重慶で対日放送アナウンサーとして毎夜日本語ニュースを担当していた。和平村の村民は比較的従順な捕虜で表面的には洗脳され、過ちを悔い改めた者たちと云うことであった。頑固に洗脳を拒否した捕虜は重慶より西南の貴州省の収容時に送られていた。 
 
 敗戦後、南京で出会った中国空軍爆撃機パイロットの大尉は元日本陸軍少年航空兵出身の捕虜で「大○○○」と云う実名の「大」を除いて、「○○○」と中国式に名乗り「大○○○」は戦死したのですから今更生きていましたと帰ることはできません。中国軍人○○○で生きていきます」と語っていた。彼が後日帰国したか、台湾に逃れたか、或いは共産軍との戦いで斃れたか消息はわからない。 
 
 太平洋戦争では敗戦により戦場の兵士数百万人が連合軍の捕虜になったが、その駐留地域により大きく運命が異なった。最も好運だったのが中国国民党支配地域に駐留していた部隊であることに意外の感を持つのは当然である。最も長期間、最も残酷に対応してきた中国で国民党政権が戦犯容疑者を除き日本軍人の早期帰国を命じたのである。帰国待機中の日本軍兵舎は自主管理に任され生活に不自由は無かった。居留民も集合を命じられたが、恐れられた掠奪暴行を受けることなく、殆んど無事に帰国することが出来た。 
 
 その理由は、カリスマ的存在の蒋介石の勝利宣言に続く国民に対する布告にあった。蒋総統は全国民に対するラジオ放送で、中華民族のプライドを忘れず、日本軍民に対して怨みに報いるに徳を以って接することを求めた。その効果は大きかった。中国から復員した兵士に中国に親しみを感じる者が多いのもその為である。 
 
 私自身、中国の前線で敗戦を迎えた後南京に出て、派遣軍総司令部の知人から要請を受け、中国陸軍総司令部に留用の名目で残留し昭和21年(1946)8月復員したが、その間の待遇は予想外の優遇を受けた。 
 
 中国国民党支配地区の捕虜が国際法に準じた待遇を受けたのに対して、満州及び樺太(サハリン)の捕虜は最悪の処遇を受けた。ソ連軍はスターリンの命を受け、軍人、民間人の区別無く、成年男子をシベリアに連れ去り、劣悪は環境下に重労働を強いた。その帰国は最も早い者で3年、最長11年後であった。その間の犠牲者は6万を越えた。現在捕虜体験者も生存者は少なく、敗戦の悲哀が語られることもないが、此の歴史は語り継がれなくてはならない。 
 
 翻って中国に於ける日本軍の捕虜に扱いは国際法に反する極めて恥ずべきものであった。その多くは銃剣刺殺訓練用藁人形の代用とされ、遺棄屍体の員数にされた。 
 
 現在に至っても恥の歴史の封印を試みる自称愛国者も居るが、恥の真実を伝えることこそ、国家の将来に重要なことであろう。 


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