2007年08月13日16時19分掲載
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戦争を知らない世代へ
8月15日に思う 遅れて訪れた天佑神助 中谷孝(元日本軍特務機関員)
「天佑を保有し…」で始まる宣戦の詔勅を掲げ、神風を信じて挑んだ無謀な戦いは日本に悲惨な敗戦をもたらした。敗戦前に神風は吹かなかったが、大きな天佑神助が敗戦直後に訪れていたことを知る人は少ないようだ。
昭和20年(1945年)8月15日、玉音放送(連合国に無条件降伏したことを告げる天皇の声)を聞いて、国民は「この大きな犠牲は一体なんだったのか」と呆然となり、これからどうなるのかという不安と恐怖を感じつつ、もう死ななくてよいらしいことに安堵した。
戦勝国アメリカの大統領ルーズベルトは、スターリンが率いるソ連に対しての警戒心に欠けていた。占領下で日本人民が激しく抵抗するであろうことを恐れるあまり、日本の分割占領を考えていたそうである。米軍単独の占領当地には兵力を要しすぎるから、米軍は関東、中部、近畿のみを押さえ、東北、北海道はソ連に、西日本は英国、オランダ、中国に任せるという案を纏(まと)めていた。
しかしルーズベルトの急死により後を継いだトルーマン大統領はソ連を警戒し、マッカーサー指揮下の米軍単独占領を実行した。一部イギリス連邦軍の駐留も認めたが、それもマッカーサーが指揮する連合軍総司令部(GHQ)の指揮下に置かれた。これが最大の天佑神助。ドイツのように国を分割されずに済んだわけである。
南太平洋を攻め上ってきた海軍のニミッツ提督も、日本一番乗りを狙っていたが、トルーマンは荒武者ニミッツを嫌い、総てをマッカーサーに委ねた。これも天佑だったと思う。天皇を一級戦犯だと主張するニミッツが一番に乗り込んできていたら、収拾のつかない混乱が起きたはずである。ルーズベルトの急死により、結果として思慮深いマッカーサーが総てを任せられて、天皇と並んで写真を撮り、巧みに人心を掴む占領政策をとった。
天皇が無事だと知って日本中に安心感が広まり、占領政策に従順に従い復興に立ち上がる気運が盛り上がった。連合国も粗暴で無知だと思っていた日本国民が、予想外に温和で規律正しいことにさぞかし戸惑ったであろう。
当時の日本人にとって、天皇は神であり、それを辱めることをしなかったマッカーサーに協力的になったのは当然である。戦後復興の気運が盛り上がったのには、天皇とマッカーサーの存在の寄与するところが大きかった。
敗戦一年後に復員したわたしが東京の街中で見た占領軍兵士は、外出時武器の携帯も戦闘服の着用も禁じられ、明るいカーキ色の制服にGIキャップという粋ないでたちの丸腰であった。パトロールする少数のMP(憲兵)だけがヘルメットを着け武器を携行していた。それほどマッカーサーは日本人の秩序を信頼していたのである。
一方日本人は、穏健な占領政策に甘えすぎたかもしれない。政府もジャーナリズムも敗戦を終戦といい、占領軍を進駐軍と言い換えた。負けて占領されたことを恥じたのだろうが、敗戦、占領を事実としてはっきり認めるべきであったと思う。
言葉の粉飾は戦争中にもたくさんあった。「全滅」は悲惨すぎるから「玉砕(ぎょくさい)」。玉のごとく砕け散ったといえば遺族は少しは慰められるとでも言うのか。「退却」は赦されないから「転進」。転進によって玉砕を免れた例もある。退去を許されずに、アリューシャン列島アッツ島守備隊二千余命が玉砕した直後、隣のキスカ島より素早く転進した5千6百余名の日本軍は稀な好運に恵まれた人たちだった。
当時、玉砕を報じるラジオ・ニュースのテーマ音楽は「海征かば(うみゆかば)」であった。この曲が聞こえるたびに、「ああ又か」と悲しくなった。私は今でも「海征かば見ずく屍(かばね)。山征かば、草生す屍…」と口ずさんで涙が出ることがある。戦争に明け暮れたあの頃は、今の人たちには想像もできないであろう暗い時代だった。
昭和20年8月15日の玉音放送(戦争に負けたことを告げる天皇の声)を聞いて、殆どの日本国民はほっとしたのではないだろうか。とりあえず死ななくてよいらしいことだけで有り難かった。
あのような暗い時代を絶対に繰り返してはいけない。全世界から戦争をなくすことを目標にすべきだ。
不戦の近いこそが国を護り、国民の生命を護る。
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