2007年08月15日11時53分掲載  無料記事
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戦争を知らない世代へ

大震災復興を祝った東京が15年で再び廃墟に 中谷孝(元日本軍特務機関員)

 昭和5年(1930年)春のお祭り騒ぎを小学校3年生だった私は覚えている。関東大震災から7年、東京の復興を祝う復興祭であった。小学生も旗行列に参加し、夕刻家族と青山通りに花電車を見に行った。普段多摩川砂利を運んでいる貨物電車を改装して派手な電飾を施した「花電車」が十数両、青山車庫(現在のこどもの城辺り)を出て渋谷駅前で折り返し都心へと向かった。東京は関東大震災の跡形もなく復興し近代的な新しい街に生まれ変わっていた。東京人はその頃、東北農民が塗炭の苦しみに喘いでいることを知る由もなかった。ましてわずか15年後に東京が再び廃墟になるとは…。 
 
 北陸地方の米が大豊作で米価が下落したその頃、皮肉にも東北地方の米作地帯は連年の冷害に見舞われ米作農家はどん底に苦しみ涙ながらに娘を売り糊口をしのぐ、まさに「おしん」の時代であった。 
 
 繁栄を謳歌していた東京にも金輸出解禁、そして翌年の再禁止、朝令暮改の政策が揺らぐ中、不況に苦しむ人達も多く、政府に対する不満が浜口首相狙撃事件を起こし国民を驚愕させた。 
 
 翌6年満州事変が起こり毎日のように戦果を報じる新聞号外の鈴が鳴った。国民の目が満州に釘付けになっていたさ中、昭和7年5・15事件、血盟団による連続暗殺と血なまぐさい事件が続発し、私は毎朝、新聞を読む習慣がついた。その頃世界地図で日本だけが赤、中国は黄、しかし中国の一部満州はピンクに塗られていた。 
 
▽軍用機「愛国号」の献納運動 
 
 満州事変の戦火が次第に北に広がり、日本中が軍国主義に塗り替えられた昭和7年、誰が言い出したのか、「飛行機を献納しよう」という声が起きた。広大な満州で飛行機は作戦に欠かせないものになっていた。しかしその数が足りない。「一機でも多くの飛行機を作って満州に送りたいが、予算を組まねばならぬ。それなら民間で募金して買った飛行機を戦地に送ろう」という運動である。忽ち集まった募金でドイツから2機を購入し、陸軍に送った。 
 
 その命名・献納式が代々木練兵場(現代々木公園)で行われ、小学6年生の私も見物に出かけた。愛国一号と命名されたのはユンケル社製双発軽爆撃機、二号はドルニエ社製患者輸送機であった。愛国号は次々と生まれ海軍には「報国号」が送られた。愛国3号以降は全部国産で、戦闘機1機7万円、偵察機、軽爆撃機1機8万円と公示された。募金は至るところで行われ、小学生にも一人10銭の割り当て募金が行われた。欠食児童の家庭は苦しかっただろう。今思うと担任教師が立て替えていたのかもしれない。 
 
 わたしが従軍した昭和14年以降も献納募金は続いていた。現地居留民会で募金を行っていた。献納機数は最終何機だったんだろうか。 
 
 満州を実質殖民地と見なした政府は、農民の集団移住を推進し青少年開拓義勇軍を募集して送り込んだ。国民に侵略という意識は無かった。日清日露の戦役で多くの犠牲を払った土地だから、日本の殖民地にするのは当然と思っていた。然しそれが国際連盟脱退、ナチスドイツとの提携の引き金となり国民を地獄へと陥れてしまった。 
 
 昭和6年から20年の敗戦に至る歴史年表は私の脳裏に焼きついている。 
 東京が再び廃墟になる日の無いことを祈る。 


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