2007年08月18日15時14分掲載
無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200708181514226
安倍政権を検証する
集団的自衛権行使は許されぬ 前内閣法制局長官が明言 安原和雄
現行平和憲法上、解釈変更によって集団的自衛権の行使は許されるのかどうか、について阪田雅裕・前内閣法制局長官は月刊誌『世界』(07年9月号・岩波書店)のインタビューに答えて、憲法の平和主義の規定からみて「許されぬ」と明言している。
安倍首相は、米政権の意図に沿う方向で日本が集団的自衛権の行使に積極的に取り組む姿勢を示してきたが、先の参院選で「地方の反乱」もあって自民党が惨敗、その上、内閣法制局長官経験者からの「反乱」に直面した形である。首相の持論「戦後レジーム(体制)からの脱却」を阻む要素がまた一つ増えたことになる。
▽集団的自衛権の解釈変更を意図する有識者懇談会
安倍首相は、07年4月の日米首脳会談で「かけがえのない日米同盟」を確認した。同時に「戦後レジームからの脱却」の一環として、訪米直前に集団的自衛権(注)の憲法上の解釈を変更するための有識者懇談会(首相の私的諮問機関・「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」=座長・柳井俊二 前駐米大使)を発足させたことをブッシュ米大統領に説明した。
懇談会のメンバーは、いずれも首相の意を受けて集団的自衛権の憲法解釈の変更を是認する顔ぶれで、朝日新聞社説(07年4月27日付)は「結論ありきの懇談会だ」、毎日新聞社説(4月26日付)は「公正で開かれた議論を望む」と注文をつけていた。
(注)集団的自衛権とは
自国が直接攻撃されていない場合でも、密接な同盟関係にある外国への武力攻撃がなされた場合、それを実力で阻止する国家の権利のこと。国連憲章や日米安全保障条約など国際法上は認められている。
しかし日本政府の従来の憲法解釈(その元締めは内閣法制局)によると、つぎのようである。「憲法9条が許容している自衛権の行使は、わが国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるもので、憲法上許されない」と。
なお現行の日米安保条約(1960年6月発効)は「日米両国が国連憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、日米安保条約を締結する」とうたっている。
上記の懇談会は、以上の政府の憲法解釈を変更し、改憲しないまま、現行憲法上も集団的自衛権を行使できるようにしようと画策している。つぎの4類型を中心に議論を進めている。
*北朝鮮の弾道ミサイルが米国向けに発射された場合、そのミサイルを日本が撃ち落とすことが集団的自衛権上、可能なのかどうか
*日本周辺の公海上で米軍の艦船が攻撃された場合、自衛隊が応戦できるかどうか
*自衛隊がイラク(サマワ)に派遣されて、水の供給や道路整備に携わったが、一緒に活動した英豪軍などに対する攻撃があった場合、それを軍事的に救援できるかどうか
*有事の際に軍事行動する米軍に対し、自衛隊はどこまで後方支援ができるか
前内閣法制局長官が「集団的自衛権に関する解釈変更は許されぬ」と明言したことは、上記の懇談会の意図に「待った」をかけたも同然である。以下に同長官の発言の要点を紹介する。従来の政府解釈の丁寧な説明となっているが、今の政府がそれを変更しようとしている折だけに、前長官の発言には重みがある。
▽前内閣法制局長官の発言(1)―集団的自衛権の行使は専守防衛の枠を超える
問い:これまで政府は「日本国憲法のもとでは集団的自衛権は行使できない」という解釈をとってきたが、その理由は何か。
答え:わが国が自衛権を持っていることは最高裁も認めている。自衛のために― 国民の生命、財産を守るためにと言った方がいいのかも知れない― 、必要最小限度の実力組織、自衛隊を有し、武力攻撃を受けたときにそれを排除するための必要最小限度の実力を行使できる、というのが政府の憲法解釈で、これは大方の憲法学者と異なるところだろう。
自衛隊が必要最小限度を越えているかどうかは、予算審議等を通じての国会の判断、いわば国民の判断であると政府は言ってきた。量的にどこまでとは一概に言えない。ただそういう性質の自衛力だから、専守防衛ということである。だからもっぱら攻撃をするときにしか使えない兵器は保持できないと言ってきた。例えば航空母艦、長距離ミサイルの類の兵器で、これらはいまも保持していない。
もう一つ、自衛隊はまさに国民の生命、財産を守るために存在することから、海外で武力行使をすることは基本的には考えられない。「基本的には」というのは、例えば自衛のため、要するに外国の武力攻撃があり、それを排除するための行動が領土、領空、領海の外に及ぶことはあり得る。そういう意味で自国の防衛のために必要最小限度の範囲内で公空、公海に及ぶことはあったとしても、それ以外の場合に海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない、というのが政府の解釈である。
だから集団的自衛権であれ、集団安全保障であれ、それは直接的には国民の生命、財産が危険にさらされている状況ではない。にもかかわらず、自衛隊が海外に行って、たとえ国際法上違法ではないにしても、武力を行使することを憲法9条が容認していると解釈する論拠は、日本国憲法をどう読んでみても、個別的自衛のための軍事行動とは違って、見出すことができない。
〈安原のコメント〉すでに強大な「必要最小限度」の自衛力
政府の防衛政策の根幹となっているのは、個別的自衛権に立つ専守防衛論である。つまり自衛のための必要最小限度の自衛力は保持できるが、それを越えて海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない。だから攻撃専用の航空母艦、長距離ミサイルなどの兵器は保持できない、というのが政府の解釈である。こういう解釈を守る限り、個別的自衛権の枠を踏み越える集団的自衛権は憲法9条からみて、容認できないということになる。
専守防衛論としては一貫しているようにみえるが、わが国の軍事力規模は現実には米国に次ぐ英、仏などと並ぶ第2位グループに入っており、日本はすでに強大な軍事国家といえる存在であることを見逃してはならない。「必要最小限度の自衛力」が実は「日米軍事一体化」の下に際限なく脹らんできたのである。
▽前内閣法制局長官の発言(2)―平和主義が日本国憲法の特色
問い:集団的自衛権に関して、時の政権担当者が今まで積み重ねてきた政府の解釈とは異なる憲法解釈をとると表明することには、どのような問題があると考えるか。
答え:昭和29年の自衛隊創設からでも50年余り、政府が国会を通し、国民に対して憲法9条はこういう意味だとずっと言ってきたことには、それだけの重みがあり、国民の間でもそれなりに定着してきている解釈だと思われる。
それがある日突然に、いままで言ってきたことは全部間違っていた、実はこういう意味だったということになると、やはり国民の法規範に対する信頼を損ねる。一体法治主義とか法治国家とは何だということになり、国民の遵法精神にも非常に影響することになりかねない。
もう一つ、9条については集団的自衛権や、集団安全保障、海外での武力行使でもいいんだということを9条1項、2項から導くことが論理的にむずかしい。もしそれもいいのだということになったとすると、法規範としての9条の意義がなくなってしまう。
国連憲章ができてから戦争の違法化がずいぶん進んで、集団的自衛権の行使や集団安全保障以外の海外での武力行使は一切違法だとされている。
憲法98条(憲法の最高法規性、条約・国際法規の遵守)があって、わが国も国際法は遵守しなければならないわけだから、仮に9条を国際法で認められる武力行使は禁止していないと解釈することになれば、9条はあってもなくても同じ、念のためにしつこく書いてあるという―法律用語で入念規定―、念のための規定という以上の意味を持たなくなってしまう。
教科書などでは日本国憲法は3つの原理の上に立っている。1つは国民主権、2つ目は基本的人権の尊重(ここまでは世界中どこも一緒)、3つ目に平和主義ということが言われてきたわけだが、その平和主義とは一体何なんだろうということになってしまう。そのような意味でも、9条解釈について、時の政権の意向で変更することはハードルが高いと思う。
〈安原のコメント〉9条の平和主義が「世界の宝」と評価されている
ここでは憲法9条の特異性が指摘されている。つまりその平和主義が他の国にはみられないユニークなところで、この平和主義の理念を尊重する限り、集団的自衛権の行使は認められないことを強調している。この平和主義こそが「憲法9条は世界の宝」と海外でも高く評価されている点である。
ただ厳密にいえば、憲法9条は「戦力の不保持」を明記しており、非武装の理念を掲げている。日本と同様に、憲法上、常備軍の廃止をうたい、実際にも軍事力を持たない国として中米のコスタリカを挙げたい。コスタリカは事実上、日本国憲法9条の「非武装」の理念を実践している国なのである。
参考までにいえば、コスタリカを含めて軍隊を持たない国は世界でなんと27か国もある(落合栄一郎氏=バンクーバー9条の会=の記事「世界に軍隊のない国はいくつあるの?」=インターネット新聞「日刊ベリタ」に07年6月28日掲載)。
地球規模でみれば、個別自衛権だの、集団的自衛権だのと大騒ぎしているのは、軍事同盟を結んでいる一部の先進国にすぎない。
▽前内閣法制局長官の発言(3)―憲法9条は国民が国に戦争をさせない規定
問い:有識者懇談会の議事要旨をみると、これまでの政府解釈には国際法と国内法とのギャップが大きいとか、国際法の議論をいままで踏まえていなかったという趣旨の発言がみられる。法制局は国際法のことも考えて検討、議論するものなのか。
答え:憲法と国際法は違う。国際法は基本的には主権国家の内政には干渉しない。統治権力と国民との間がどうあるべきかについての国際慣習法はなくて、統治権力はいわばオールマイティで、王制であろうと、民主主義であろうと、そんなことは国際法の問うところではない。国家の戦争といっても、実際に携わるのは国民で、国民に戦争をさせるのも、させないのも、それぞれの国家が自由に判断するところということになる。国際法は国家間の約束、取り決めでしかない。
統治権力者である国と被統治者である国民との関係を規律するのは憲法である。憲法各条の名宛人はほとんどが国である。例えば29条(財産権の保障)や14条(法の下の平等)についても、国に対して、国民の財産権を侵害してはいけない、国民を差別してはいけないということを求めている。
9条は、国民が国に戦争をさせないことを決めている規定なのだから、それは国際法がどういうルールであるかということとは全く次元が違う。
〈安原のコメント〉安倍首相にみる憲法感覚の危険性
ここで見逃せないのは、「憲法各条の名宛人はほとんどが国」と「9条は国民が国に戦争させないことを決めている規定」という指摘である。
憲法9条を読んでみると、1項で「日本国民は」から始まり、「(中略)国権の発動たる戦争(中略)は、永久に放棄する」とうたい、2項で「(中略)陸海空軍その他の戦力は、保持しない。国の交戦権は、認めない」と述べている。主体としての、あるいは有権者としての国民が「戦争を放棄し、戦力を保持せず、交戦権を否認している」とうたっている点が重要である。憲法上の主役は統治権力者である政府ではなく、国民なのである。
集団的自衛権についていえば、政府が都合のいいように、つまり米国に追随する形で勝手に解釈を変更すべきものではない。ところが安倍首相は、「私の内閣」という発言にも表れているように統治権力者意識が強すぎる印象がある。憲法にしても国民を統治・支配するための手段と考えているのではないか。これでは話が逆さまであり、憲法の肝心要のところ―国民が政府に実行させることが書いてある―が分かっていないことになる。
先の参院選で自民党が惨敗した背景の一つとして、こうした安倍首相の憲法感覚の危険性を察知した国民の「反乱」を挙げることもできよう。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。