2007年09月10日17時15分掲載
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山は泣いている
1・上高地にみる自然と人工 山川陽一
第1章 傷つく山
▽わたしの山歩きの歴史
日本は、四囲を青い海に囲まれ、内陸の70%が緑の山や森に覆われています。そんな恵まれた自然環境の中に生まれ育ってきたわたしたち日本人が、なぜ自分たちの大事な財産を粗末にしてしまうのでしょうか。長年山歩きをしてきて、あの美しい山や峪がつぎつぎに壊されていく現実を目の当たりにしながら、今まで外部に向けて積極的に発言してこなかった自分が情けなかった。遅まきながら小さな一石を投じよう、小さな一石が波紋を広げて世の中を変えるきっかけになるかもしれない、自省から出発した思いが強くわたしを突き動かしました。
わたしは、中学、高校、大学を通じて山登りをしてきました。まだ、原生の自然と言えるものが山にあった時代です。社会人になってからも職域の山岳部に席を置いてボチボチ山に登っていましたが、だんだん仕事や家庭のウエイトが高くなり、「山」は次第に自分の時間配分の外に追いやられていきました。ときまさに高度成長時代真只中で、野も、山も、海も、田中角栄の「日本列島改造論」とともに大改変の大波にさらされていった時代でした。
山奥深くまで林道が通り、森林の大量伐採が続き、いたるところに山岳観光道路が作られ、主要な川にはつぎつぎに大きなダムが作られていきました。入山しやすくなった山に登山ブームがまき起こり、大量の登山客観光客を受け入れる施設が出来て、有名山は人であふれかえりました。
十年くらい前から少し時間的に余裕ができて、また山に頻繁に通い始めました。そして感じたことは、以前の姿を知っている人間にとってはあまりにも大きな自然環境の変り様でした。科学技術が進んだ今日では、かつて百年かからなければできなかった大工事でも一年でできてしまいます。果たして子孫に美しい自然を残してあげることが出来るのかどうかを考えたとき、暗澹たる思いに駆られたのです。
何とかしなければならない!
本稿は、そんなわたしの思いを書き綴ったものです。
内容的には、山岳環境の問題がメインになっていますが、時に、わたしが住んでいる地域の問題を取り上げたり、大きく地球環境全体の問題を論じたりたりしました。わたしは現在日本山岳会に所属していますから、どうしても山の環境問題がメインになるのは仕方がありませんが、わたし個人の意識の中にはそんな線引きがあるわけではありません。当たり前のことですが、もっと広くかつ多面的に環境問題というものを捉えています。だから、本稿も、山登りをする人たちだけを対象としているわけではなく、もっと広く多くの人たちに読んでもらいたいと考えています。
さて、こんなわたしの気持ちを文章にして世に問う以上、自分としても、少しはしっかりと形に残る活動をしていかなければならないという新たな重圧を感じはじめています。わたしも、若い若いと思っているうちにいつの間にか歳を重ねてしまいました。これからは毎日が残された時間との闘いになります。わたし個人の力など高が知れています。今後どれほどのことが出来るかわかりませんが、一日一日を大事にして、やれることを精一杯やっていきたいと思っています。
▽上高地──「滅びと再生の美」
上高地は自然と人工について考察する格好の教材である。
沢渡(さわんど)でシャトルバスに乗り換えて数十分、上高地の玄関口大正池に到着する。水中の立ち枯れた木が水面に影を落とし、見上げれば噴煙をあげる焼岳が真近に迫る。正面には扇状に広がる岳沢と穂高連峰が聳えて、その景観は訪れた人々を魅了してやまない。バスは更に河童橋の手前のバスターミナルまで入るが、ワンストップの観光客はここで下車して、樹林帯の小道を辿って田代池や有名なウエストンの広場を経由して河童橋まで歩く。橋の上で記念撮影をし、橋のたもとにある環境省のビジターセンターに立ち寄れば、これでとりあえず上高地のエッセンスを一式味わうことが出来る。
ビジターセンターでは上高地や周辺の日本アルプスの峰々の生い立ちなどのすべてを知ることができる。勿論今いるところは特別天然記念物で、許可なく一木一草、石ころひとつ取ってはいけない特別保護地区の只中なのだということも教えてくれる。河童橋から上流は、かつては槍ヶ岳や穂高連峰をめざす登山者たちの世界だったが、今は、梓川沿いに広くて歩きやすい道が明神、徳沢、横尾と続き、休憩宿泊設備も完備され、誰でも気軽に上高地の自然を楽しむことが出来る遊歩道である。
上高地を訪れた大半の人たちは、大自然の見事な景観に圧倒されて、幸せな気分で帰路につく。
こんな日本の代表的な山岳美を誇る上高地であるが、実はその裏舞台は大変なことになっているということについてもわたしたちは知っておく必要があるだろう。
上高地の象徴とも言うべき大正池について考えてみよう。大正池は、その名が示すように、大正4年の焼岳の大噴火によって梓川がせき止められて一夜で出現した。そのあと、堤の一部が切れて十年後には三分の一の面積に縮小したが、下流の霞沢発電所への引水のため堰堤が補強されることによって縮小に歯止めがかかった。そのあとも上流からの土砂の流入で徐々に縮小を続け、面積は昭和初期の40%、貯水量は20%まで落ち込んでしまった。
このままでは消滅が免れないため、焼岳の土砂流入を防ぐ砂防工事を行い、秋の観光シーズンが終わると浚渫船を浮かべてたまった土砂の除去を行なって、かろうじて景観を保っている。しかし、大正池を特異な存在にしている水中に林立する立ち枯れの樹木が年々減少していくことは致し方がないことである。いまや数本になってしまった樹木が消滅してしまうのは時間の問題である。そのときは、ただの人工の貯水池と化した池に枯れ木のオブジェでも立てるのだろうか。
井上靖の小説「氷壁」の中で、日本で一番美しい川と書かれた梓川の流れは、一見自然そのものであるが、その支流を含めていまやズタズタに人工の手が加えられている。支沢に一歩踏み込むと、行く手をふさぐように段状に構築された砂防堰堤にぶち当たってびっくりさせられる。氷壁の舞台になった奥又白谷の入り口などはまるで城壁のようだ。本流はどうなのか。さすがに大勢のひとの目にさらされる場所なので、支沢の砂防堰堤のようにコンクリートむき出しの工事は避け、蛇篭などの工法によっているが、よく見れば流域全体にわたって護岸工事が施されているのがわかる。また、本流の水中には、河床の砂礫の流下を防ぐ目的で、帯工と呼ばれる隠し堰堤が数多く設置されている。
これらの工事は、洪水や土石流による災害から旅館や山小屋、登山客、観光客を守る目的で行なわれたのだが、果たして、あるがままの自然が売り物の上高地にふさわしいものであったかどうか、本当に必要な工事だったのか、他の手段はなかったのか。観点を変えて考えてみると大きな疑問符がつく。
上高地を取り巻く景観は、「滅びと再生の美」だと言われる。(信濃毎日新聞社 上高地の植物 亀山章)
あるときは焼岳が噴火して梓川をせき止め、あるときは大雨による土石流で樹木が押し流されて、流れが大きく変わる。新しく出来た荒地には新しい生命の誕生がある。洪水で流されてできた新しい堆積土砂をめがけて種子を風に運ばせていち早く発芽するケショウヤナギ。土石流の崩壊地に芽生えるカラマツ。変化する自然を人工で固定化すれば、結果として何が残るかは、自明である。
「山地の侵食にともなって景観が変化してゆくのは山岳の宿命である。守るべきものは、その変化する自然そのものである。それを理解せずに、現在の施設と現在の景観を守ろうとして結局は自然を破壊しつつあるのが上高地の現状である。」(日本山岳会「山岳」Vol.94/1999 改変のすすむ上高地の自然 岩田修二)
(つづく)
☆山川陽一(やまかわ よういち)
1938年新潟県長岡市生まれ。61年慶應義塾大学卒業後、横河電機に入社。39年間サラリーマン生活を送る。
中学、高校、大学では山岳部に属し、卒業後も職域山岳部で山登りを続ける。退職後、山岳環境の自然保護活動に本格的に取り組む。
現在、日本山岳会理事(自然保護委員会担当)
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