2007年09月17日16時06分掲載  無料記事
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山は泣いている

2・わたしの自然観を変えたニュージーランド 山川陽一

▽自然の側に立って自然を考える 
 
 ニュージーランドは、南半球に浮かぶ島国で、北島と南島から成り、南北に伸びる国土は日本の約70%で、人口はわずかに360万人、日本の35分の1に過ぎない。そのうち北島のオークランドや南島の中心都市クライストチャーチなど一握りの都市を除いては、ヒツジしかいない広大な放牧地と豊かな原生林と山岳地帯からなる手付かずの大地が広がっている。ニュージーランドという国を理解するには、この人口の少なさと自然の豊かさを抜きに考えることはできないだろう。 
 
 わたしがニュージーランドのトレッキングを楽しんだのは1998年1月のことだったから、あれからもう8年の歳月が流れた。光陰矢のごとしであるが、今でも鮮明にあのときの感激が甦ってくる。またゆっくり訪れたいと願いながら、今日に至るまで再訪は実現していない。 
 しかし、この一度だけのニュージーランドでの体験は、わたしの自然観を大きく変えるものであった。 
 自然というものに対峙する姿勢が日本と基本的に違うところがあった。自然が国の最大の資源であり財産である国とそうでない国の考え方の違いなのかもしれない。こんなニュージーランドの山旅を振り返って感じたことを二三述べてみたい。 
 
 ルートバーントラックはニュージーランドの南島を代表するトレッキングコースのひとつである。まず2泊3日のこの山域に入るためには、誰でも例外なく、ここのコースの管理を国から委託されているガイド会社主催のツアーに申し込む必要がある。毎日出発するこのツアーは、コース中にある二箇所の小さな宿泊施設の収容人員各40名が定員で、従って合計80人がこの山域の総入山者の上限だということであった。日本の山小屋のように、来るものは拒まずで、増え続ける登山客に合わせて収容力をアップしてきた国とは大違いである。 
 
 トレッキングの道中、天空から三段に落ちるイヤーランド滝の下を横切らなければならない。通常は滝の落ち口の直下を飛び石伝いに通過できるのだが、雨が降って水量が増えると、ずっと下方に遠回りして付けられているイマージェンシールートを通ることを余儀なくされる。トレッカーの便宜のために橋をかけるなどという発想はまったくないようだった。 
 同様なことが他にもあった。大きながけ崩れのモレーンでトレールが遮断されているところに、「ここは1994年1月の大雨で大規模ながけ崩れが起きた」という立て看板があった。モレーンの上にはトレッカーが通過するための踏みあと程度の道が付けられているだけで、砂防堰堤を作るなど大きな土木工事をした形跡などまったくない。川が氾濫すること、がけ崩れが起きること、それ自体が自然なのだという考え方なのだろう。 
 
 2日目の宿泊はルートバーンフォールズロッジと呼ばれる小屋で、その名の如く、そばを流れる渓谷に滝を落として深いゴルジュを形成し、見事な景観を呈している。しかしここにある人工的構築物は、われわれが泊まる小屋とガイド会社の管理棟だけで、そのほかは、川も、木も、地面も、一切人工の手が加えられていない。日本だったらたちまち渓谷の周辺には柵が回らされ、滝や岩や淵に名前が付けられ、水際までコンクリートの遊歩道が設けられ、そばには土産物屋が店開きして店の前にのぼりを立て、缶ビールとジュース、岩魚の塩焼きにわさび漬けなどを売るに違いない。 
 
 こんなニュージーランドの体験がいまの私の自然観の原点にある。最近は、国や地方自治体も、企業や諸団体も、そして個人も、異口同音に自然保護とか地球環境保全を唱えるが、人の側に立って自然を考えるか、自然の側に立って自然を考えるかによって、結果は大きく違ってくる。上高地の例に見るように彼我の相違はあまりにも大きい。 
 
▽再び上高地 
 
 今から40数年前(1963年)、上高地では二つの開発計画が持ち上がっていた。ひとつはウエストン碑の広場から西穂山荘を経て蒲田側に至るロープウエー計画であり、もうひとつは、安曇野の三郷村を基点に鍋冠山、大滝山、六百山を経て河童橋に至る38キロメートルのスカイライン計画であった。この計画を知った当時の日本山岳会長松方三郎は、一度壊された自然は元に戻らない、断じてこの計画は許すべきでないという決意を示し、翌64年自ら委員長を兼務して日本山岳会の中に自然保護委員会を発足させた。 
 初代委員には、植物学者の武田久吉、作家の深田久弥、画家の足立源一郎など十数名の錚々たるメンバーが名を連ねている。その後、ロープウエー計画は現在架設されている蒲田側から西穂山荘手前に至るものだけに変更になり、スカイライン計画も中止になった。日本列島がまさに高度経済成長真只中の時代であった。 
 
 もしこれらの計画が実行に移されていたら、上高地の自然環境は現在とまったく違った姿になっていたであろう。こんな先人の勇気と努力で護られてきた上高地においてすら、形を変えた自然破壊が行なわれてきた現状については、先述した。 
 
 時は移り、世は環境の時代といわれるようになった。何処に行っても、エコ、地球環境保護、バリアフリー、自然との共生等々、耳に心地いい言葉が氾濫している。本音は別にあっても、表面的には利益目的の開発や不要な公共工事を前面に出しては受け入れられない世の中になった。法律も、自然公園法の改定によって利用より保護の方向を強めたものに生まれ変わった。 
 
 こんな時代になった今、わたしが考えることは、二つ。ひとつは、エコとか地球環境保全、利用者の安全などを隠れ蓑にした開発行為や公共工事を許してはならないということ。もうひとつは、少なくても国立公園や国定公園など自然公園の中では、官民ともに、利用者の便宜よりも、明確に環境優先の姿勢に立つべきであるということである。 
(つづく) 
 
☆山川陽一(やまかわ よういち) 
1938年新潟県長岡市生まれ。61年慶應義塾大学卒業後、横河電機に入社。39年間サラリーマン生活を送る。 
中学、高校、大学では山岳部に属し、卒業後も職域山岳部で山登りを続ける。退職後、山岳環境の自然保護活動に本格的に取り組む。 
現在、日本山岳会理事(自然保護委員会担当) 


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