2007年10月20日17時27分掲載  無料記事
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山は泣いている

6・日本の民度を示す山と都会のゴミ 山川陽一

▽山のゴミは減ったが… 
 
 山歩きをして思うのだが、ひところに比べると随分山がきれいになった。地元の人たちやボランティア団体などの人がゴミ拾いを一生懸命やってくれることや、登山者にゴミ持ち帰りの習慣が定着してきたことの相乗効果だろう。きれいになると捨てにくくなるという心理的側面も侮れない。しかし、残念なことに、登山道脇の草むらや藪の中をよく見ると、まだまだ結構人目につかないように捨てられているゴミが目に付く。罪悪感を持ちながらも人目のないところではついやってしまうのが人間の弱さというものなのだろうか。 
 
 恥を忍んで告白すると、自分にも、タバコやゴミのポイ捨てが平気だった時代があった。もうタバコをやめて20数年、今やすっかり禁煙派であるが、かつてはポイと捨てたあと靴裏で踏みつけるスタイルがカッコイイと思っていたひとりである。当時は日本全体の民度が低く、街にゴミやタバコの吸殻が散らばっていても、誰もそれを不思議と思わない風潮があった。時は変わり、近年はポイ捨て禁止条例までできる時代である。 
 
 かつての自分を棚に上げて、わたしもいまや他人がタバコの吸殻を路上に捨てるのを見ると注意するまでに成長(?)した。マンホールの穴などに押し込んでいる人を見たりするとどうにも我慢ならない。 
 人々がこういうことを人目を忍んでもやらなくなったとき、日本もはじめて民度の高い国になったと言えるのだろう。 
 
▽ゴミの持ち帰る運動を下界にも 
 
 夏の夜空を彩る花火。わたしの住んでいる多摩市でも、毎年8月10日、多摩川に架かる関戸橋で花火大会が行われ、市内外の人たちの目を楽しませてきたが、2003年、大会最中に大雨に見舞われて、中洲に花火師が取り残されるという事故が発生した。そのため翌年の開催は取りやめになってしまったのだが、市民から強い復活要望の声があがって、2005年に主催者が商工会議所から、市と市民と事業者からなる実行委員会形式に変わって、再開さることになった。 
 
 それまでは、商工会議所にすべてお任せだったので、運営の苦労は必ずしも身近なものではなかったようだが、役者が代わってみると、資金集めから始まって、安全対策、環境問題など、関係者の方たちの苦労たるや、並大抵なものではないことが浮き彫りになった。確かに、20万人からが集まるイベントをオーガナイズして開催にこぎつけ、事故なく、安全で楽しく運営することの大変さは、想像に難くない。 
 
 今まで、わたしは、ただ楽しませもらうだけの一市民に過ぎなかったのだが、昨年、ひょんなことから、大会当日のゴミ対策の会合に頭を突っ込む羽目になった。前年の状態を聞くと、花火の終わった後のゴミの散乱、周辺民家へのゴミの投げ捨て、放尿など、気違い沙汰とも思えるひどさだったようである。今年は、裏舞台のほうも、何とかもっとクリーンな、いい大会にしたいということであった。普段は良識ある人々も、大群衆の中の一名になり、夜陰で、しかもお酒が入ったとき、制御が効かない状態になってしまうということなのだろう。 
 
 こんな話を聞きながら、真っ先に思い浮かんだことは、山でのゴミ持ち帰り運動のことであった。尾瀬で最初に発祥したゴミの持ち帰りは、いまや登山する人誰でもが実行する常識になった。かつてゴミだらけだった山は、全国どこでもゴミを見つけるのが難しいくらいクリーンになった。尾瀬では、ゴミの散乱に悩みぬいた末、従来のゴミ箱増設の方針を大転換し、すべてのゴミ箱を完全撤去して、登山者に持ち帰りの協力を呼びかけることによって、それを成し遂げた。山で始まったこの習慣は、いまや下界にも広がっているが、多摩市の花火大会のケースなどを考えると、まだまだだなあという気がする。 
 
 昨今は、登山の大衆化が進んで、特別な人たちだけが山に行っているわけでもないのに、こんなことができる日本人も捨てたものではない。そう思う一方、チップ制の山岳トイレの募金箱に集まる額は、どこでも利用人数に比べてかなり少ないらしいことや、トイレのない山でのマナーの悪さなどを考えると、同じ登山者なのに、ゴミでできたことがなぜトイレではできないのかと思ったりもするのだが・・・。 
 
 結局のところ、単にマナーに期待するだけでは片手落ちで、実現可能な質のいい方法論がセットで提供できない限り、良好な結果は得られないということであろう。どなたか「ご近所の底力」のTV番組みたいなグッドなアイディアがあったら、ぜひ教えてください。 
 
▽犬の糞と祭りのゴミ 
 
 百日紅の落花が地面を紅く染め、耳にうるさかった蝉の声もいつしか虫の音に変わっている。金木犀も匂いはじめた。もうすっかり秋の風情である。わたしの一日は朝のウォーキングで始まる。若いころは、朝のランニングだった。それがジョギングに変り、いつのころからかウォーキングになった。もう少したつと犬を連れたぶらぶら散歩ということになるのかな。山でも、かつては、クライミングとか登攀という言葉が当てはまる登り方をしていた時代もあったのだが、最近は、「山歩き」や「山旅」という表現がぴったりである。そのうちに、山麓の散策ということになってしまうのかもしれない。 
 
 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、このごろ、朝のウォーキングをしていて気がつくことがある。それは、犬の糞があまり目立たなくなったことである。以前は、よほど注意していないと踏みつけたりしてひどい目にあった。最近はペットブームで愛犬家が増えているから、もし犬の数に道路の糞の量が比例したらえらいことになるのだが、実感としては、どうも反比例の関係にあるようだ。 
 
 勿論これは比較の問題で、まだまだ人の見ていないところでは、そ知らぬ顔で始末しないで行ってしまう人もいる。先日も、人家の玄関先で愛犬に糞をさせ、キョロキョロした後、足早に立ち去ろうとしている人を見てしまった。それはあまりにひどすぎると思ったので、勇気を出して声をかけ、始末してもらった。中にはそういう人もいるが、年々確実にマナーが向上しているのは事実である。 
 
 先月、恒例の地域の夏祭りがあった。夜店が出て、素人バンドの演奏や大道芸、ご近所グループの踊りがあって、盆踊りをして、みんな町の人の手づくりである。毎年孫たちを連れて参加するのが楽しみであるが、ここでも変った現象がひとつあった。今年は、見渡しても目立つところにゴミ箱が置いてない。確か、「昨年まではあったのだが?」と思っていると、同じことを思っているひともいたようで、わたしたちが腰掛けて休んでいるそばで「ゴミはどこに捨てるんだ」という声が聞こえてきた。 
 間髪をいれずわが妻が「ゴミはお持ち帰りです!」と言った。(彼女は祭りの役員でもないのに)言われたほうも、気色ばんだりすることもなく「あ、そうですか」とごく素直な会話をしている。会場でも、取り立ててゴミ持ち帰りをアッピールするアナウンスも無い。 
 後で、ご近所の役員の方に確認してみたところ、ゴミ箱は今年も一箇所だけ置いてあったそうであるが、ゴミ箱に入るごみの量は年々減っており、投げ捨てによる近隣からの苦情も今年は皆無だったとのことである。かなりの人たちがちゃんと自宅まで持ち帰っているということだ。 
 
 犬の糞と祭りのゴミ。こんな側面を見ていると、日本の民度も結構上がってきているのかなあという気がしてうれしい。ここまでくるには相当の年月がかかっているが、大きな光明である。前項で、多摩市の花火大会のゴミ問題に言及した。規模が大きいので不安も大きいが、来るべき年には勇気を持ってゴミ箱をなくすことを画策してみたらどうだろう。 
(やまかわ よういち=日本山岳会理事・自然保護委員会担当) 


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