2007年11月03日00時57分掲載
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検証・メディア
<王室と国民をつなぐ英メディア(上)>ビクトリア女王からエリザベス二世まで
ダイアナ元英皇太子妃が、パリで自動車事故で亡くなってから、今年で10年になる。パパラッチの一群に追われながら、市内のトンネルの中で事故に遭遇した。実弟のスペンサー伯爵はかつて、元妃を「世界で最もメディアに追いかけられた人物」と評した。英メディアは、長年に渡り、王室と国民とを直接つなぐ重要な役割を果たしてきた。1981年、チャールズ皇太子と結婚して王室に入ったダイアナ元妃は、これまでにないほど国民と王室との間の距離を縮めた人物と言われているが、皇太子とともに結婚生活の内情をメディアに暴露し、王室報道の低俗化の流れも作った。王室報道を変えたダイアナ元妃の死後10年を機に、英王室とメディアの関係を振り返ってみたい。(在英ジャーナリスト 小林恭子)
▽ビクトリア女王「国民の心の中に生きたい」
1837年、18歳で即位したビクトリア女王は、ダイアナ元妃をほうふつとさせる、国民のアイドル的存在だった。肖像写真の普及や印刷技術の発展で、物理的、社会階層的に隔たりがあっても、国民が王室を身近な存在として受け止めることが可能になった。
国民の女王への思いは、一方通行だったわけではない。42年、女王は暴漢に襲われそうになり、警察がピストルで女王を撃とうとした若い男性をあやういところで止めた事件があった。攻撃から無事逃れた女王に国内中から手紙が寄せられた。女王は、手紙の1つに、「国民の心の中に生きるのが私の望みです」と書いていた。
即位と同時期には、「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」をはじめとした、イラストや写真に読み物がついた雑誌が創刊され、女王の姿を描いて人気を博した。世界最初の肖像写真撮影用のスタジオもロンドンにオープンし、1850年代後半には、一般国民が女王の写真を所有できるようになった。女王は現在で言うところの「有名人」として、写真や肖像画を通して人々の生活や心の中に入り込んでいった。1896年には英国最初の大衆紙「デーリー・メール」が創刊されたほか、最初の王室担当記者が通信社PAから選ばれた。
ニュース映画も人気が高く、即位60周年記念式典では、女王がロンドン市内を歩く様子を25社以上の映画会社がカメラで追った。切手や商品のラベルに女王の肖像画や写真が頻繁に使われ、女王のイメージは英国内ばかりか大英帝国の当時の植民地を中心に世界中に伝わった。
メディアの都合に王室側が合わせた格好になったのがジョージ五世(即位1910−36)の最後だ。新聞の締切時間に合わせるため、担当医師が安楽死を行なった。午後11時、医師は最後が迫ったことを察知し、王の頸静脈に致死量のモルフィンとコカインを打った。約一時間後、王は息を引き取った。軽い読み物的記事が出る夕刊ではなく、朝刊に訃報を出すための行動で、訃報は計画通りタイムズ紙に出た。1986年、フランシス・ワトソンの自伝でこの経緯が明らかになった。
▽国民の声を代弁したメディア
ジョージ五世を引き継いだエドワード八世(1936)は、即位当時独身で、米国人の既婚女性シンプソン夫人と交際していた。米国での報道をよそに英国内では交際は報道されなかった。1936年10月、夫人の離婚が成立したが、英メディアはしばらく沈黙を守った。11月、王は首相に夫人と結婚したいと告げた。結婚に関して政府から承認を受ける必要はなかったが、結婚できなければ王位を棄てるとまで宣言した。
12月になって報道協定が破られ、英新聞が王とシンプソン夫人の恋を報道を開始すると、これまで人気が高かった王に対する国民感情は大きく変わった。夫人が平民であること、米国人であることは問題にはならなかったが、2度離婚していること、2人の夫がまだ存命だった点から、夫人が女王になることを支持した新聞は皆無だった。特に地方紙が敵対的で、「どんなことがあっても、夫人はイングランドの女王にはなれない」(バーミンガム・ポスト紙)と反対した。労働組合、当時の野党労働党議員の多くも王位放棄を支持し、ボールドウィン首相は、最終的に女王を選ぶのは王ではなく国民だと王に告げた。36年12月10日、エドワード八世は王冠放棄の書類に署名した。
作家ロバート・レーシー氏の「ロイヤル」によると、「国民は、王が王であり続けるよりも他のことを選んだことで、裏切られたと感じた」と言う。退位を勧めたのは首相で、政治が英国の将来を決めたが、国民はメディアを通して反対の声を上げたのだった。
▽エリザベス女王誕生へ
エリザベス現女王の両親の時代になると、ほぼ現在の王室とメディアの関係の原型ができあがる。
伯爵令嬢だったエリザベス・バウエス=ライオン(現女王の母親)がヨーク公アルバート(後のジョージ六世)との結婚の申し出を受け入れた翌朝、ロンドンの自宅に記者が押しかけるようになった。エリザベスは記者を家の中に招き入れ、取材に応じた。アルバートはこれを快く思わず、今後の取材を禁じた。1923年の結婚式の報道に、ニュース映画制作を専門とするトピカル・バジェット社は3千ポンド近く(現在の10万6千ポンド、約2500万円)を払い、カメラの位置を決め、新聞は特集を組んだ。王室報道は大きなビジネスになっていた。
長女エリザベス(現在の女王)は、1926年の誕生時から国民の大きな注目を集め、3歳で米雑誌「タイム」の表紙にも登場した。私的感情を君主の地位よりも優先させた叔父のエドワート八世とは異なり、エリザベスは王室の役割りを非常に厳粛に受け取っていた。21歳の誕生日の演説では、「私の人生を国民の奉仕のために捧げる」と述べた。
1952年、父が急死し、エリザベスは急きょ、若干二25歳で君主となった。戴冠式はテレビ放映するべきという声が上がったが、当時テレビは一般大衆が見るものという認識があり、「王室の俗化につながる」と見た女王はこれを避けようとした。
しかし、52年秋、翌年の戴冠式はテレビでは放映されないと王室が発表すると、、大衆紙数紙で非難の声が広がった。王室は方向転換を強いられた。クローズアップの撮影はしないなどの取り決めをしたものの、当日、テレビ局はクローズアップを決行した。国民の殆どがテレビにかじりついたと言われた。
▽批判のタブー化が崩れる
英国の放送業界は、長い間、「親王室」のBBCの独占が続いていた。BBCは、王室に批判的な記事を書いたコラムニスト、マルコム・マゲッリジ氏のテレビやラジオでの出演を中止した。王室を「ロイヤル・ソープ・オペラ」と評し、「宗教心が薄くなっている英国で、王室が宗教の代用品になっている」、と指摘した氏の論旨は今からすると驚くほどの発言ではないが、当時は衝撃だった。
しかし、55年から放映を開始した民放ITVは、、逆に氏の出演を歓迎した。BBCとITVの間で視聴率合戦が進む中で、BBCはマゲリッジ氏の出演中止を後悔する様になった。王室批判は放送業界でも次第にタブーではなくなった。
「恥ずかしがり屋」と評されるエリザベス女王だが、五七年から、毎年、君主が国民に語りかける「クリスマス・メッセージ」をラジオではなくテレビで行なうことに合意した。しかし、せりふを教える装置テレプロンプターを使うのは拒否した。演技をしているように見え、国民に対して不誠実と思ったからだ。そこでラジオ放送時同様に、マイクの前で原稿を読む様子が見えるように収録された。
メディアに対し、王室が大きく門戸を開いたのは、1967年、「ロイヤル・ファミリー」という題名のドキュメンタリー映画の制作だった。チャールズ皇太子が2年後に20歳になるのを記念して作られた作品で、BBCの制作スタッフはこれまでにないほど自由に王室の日常生活の場に入ることを許された。69年6月のテレビ放映で、国民は王室の家族同士の自然な会話を初めて視聴する機会を得た。番組は世界125カ国で視聴され、国内でも10回以上、米国では2回放映された。
▽低俗化
大衆紙を中心にカメラマンと記者がチームとなって王室のメンバーを集中的に取材するやり方が70年代初頭頃から登場し、、報道と王室の関係は大きく変わった。かつて、エリザベス女王の夫フィリップ殿下の不倫疑惑に報道を自粛した時代は過ぎ去り、メディアは、写真や記事を売るためには、相手が王室でもあっても、個人のプライバシーに容赦なく侵入する存在となっていった。こうした情け容赦ないやり方が一つの極限に達したのが故ダイアナ元妃の報道だった。
チャールズ皇太子が交際した相手は誰しもがパパラッチの追跡の対象となったが、婚約が正式に決定したダイアナ元妃への取材は一段と過熱化した。自宅の前に待機したパパラッチの一群は通勤途中の元妃を追いかけた。ダイアナ・ヘアが人気となり、元妃の記事が載れば雑誌は20%販売部数を伸ばすと言われた。買い物をしている姿の写真は1500ポンド(約35万円)以上、水着姿は1万ポンドで売れた。メディア側からすれば、ダイアナ元妃は「商品」だった。
81年の元妃と皇太子の結婚後、メディアの取材攻勢には拍車がかかったが、その原因は、若く美しいダイアナ元妃の写真や記事を掲載すれば部数が大幅に伸びる点に加え、王室側がメディアを自己目的で利用した要素もある。元妃及び皇太子は結婚生活の内情をメディアに吐露し、火に油を注いだ。王室の人間自からが、プライバシーに深く関わる情報をメディアを通じて外に出したのは、前代未聞だった。皇太子と元妃がメディアを通じて公衆の面前で夫婦喧嘩をしているようにも見えた。結末は王室報道の低俗化、ゴシップ化で、国民の間に、ウインザー王家に対する失望感を植えつけた。
▽「ダイアナ妃の真実」
夫のチャールズ皇太子が結婚当初から、かつてのガールフレンド、カミラ夫人と肉体関係を持っていたことなどが原因で、ダイアナ元妃との結婚生活は悪化していったが、国民が内情を知ったのは、後書籍化された連載「ダイアナ妃の真実」が1992年、サンデー・タイムズ紙に掲載された時だ。
王室の家庭の内実を赤裸々に書いた連載は、作家アンドリュー・モートンが書いたが、元妃は知人の医師に自分の思いを語り、この内容を医師を介してモートンに伝えた。情報源は自分だったが、生前の元妃は本には関わっていないと述べていた。死後、モートンは元妃が情報源だったことを明らかにした。
一方のチャールズ皇太子は、94年、テレビ番組のインタビューで自分の不貞を認めた。インタビューを行なったジョナサン・ディンブルビーが翌年出版した本の中で、皇太子は父や母の育て方も否定していた。
95年には今度は元妃がBBCの番組「パノラマ」に出演し、「私たちの結婚生活には(カミラ夫人を入れて)3人いた」と述べるなど、壊れた結婚生活の現状を語った。
大衆紙は元妃と男性の友人との電話での会話やチャールズ皇太子とカミラ夫人との同様の会話を録音したテープも入手した。紙面では性的描写の入った会話の一部を掲載し、ある電話番号に電話すると、読者が会話を録音したテープを聞けるという仕組みを作った。元妃や皇太子は全国紙にお気に入りの記者を持ち、自分に好意的な記事を書いてもらっていた上に、それぞれの友人や知人たちも皇太子や元妃の言い分を正当化するために、メディアに情報をリークしあった。
96年、2人の離婚は正式に成立したが、元妃の「商品価値」は下がることはなかった。
97年8月、元妃は、パリ市内で乗っていた車が事故を起こして死亡した。車には、英ハロッズ百貨店所有者の息子で恋人だった、ドディ・アルファイド氏も乗っていた。バイクや車に乗ったパパラッチたちに追いかけられた末の、トンネル内での事故となった。
死亡直後は過熱報道のメディアを責める声が強かったが、10年経った現在、パパラッチ側に反省を求める見方と共に、「元妃もメディアを自己利用していた」とする批判が出るようになった。
今年10月2日、元妃の死因を究明する審問の本格審問がロンドンの高等法院で始まった。結審までには半年近くかかると見られ、監視カメラに写った元妃の最後の映像などが公開された、しばらくの間、元妃を巡る報道が続きそうだ。
元王妃亡き後の英王室報道や日英の報道の違いについては、次号で稿を改めて考えてみたい。
*本稿は、「新聞通信調査会報」11月号に掲載された記事の転載です。
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