2007年12月09日10時03分掲載
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山は泣いている
12・林業に未来はあるか 明暗分ける大分県日田郡と高知県の馬路村 山川陽一
大分県日田郡。2002年サッカーワールドカップのときカメルーンの合宿地として一躍有名になったあの中津江村がある場所と言えば、「あ、そうか」とうなずく方も多いだろう。ここは、九州のヘソのようなところに位置する山奥で、原木の取扱量が日本一のスギの産地である。2006年の春、森林ボランティアの仲間とそんな日田林業を訪ねて、山を案内してもらい、製材所を見学し、森林組合の組合長のお話を聞いた。
日田は面積の大半が山林で、そのまた大半が民有林である。山林の総面積は4万ヘクタールに及び、伐期を迎えたスギは需要があれば伐採するが、一部を除いて、もはやその後に植林されることはない。切ったスギを売っても、伐採跡に植林し育林するコストを賄うに足る収入が得られないからである。切りっぱなしで、再生産のサイクルを回すことが出来ないこんな状態は、もはや業と呼べる経営体とは言い難い。地場産業としての林業の将来に光が見えない現状に、見切りをつけた若者たちはみんな外に出て行くから、ますます悪循環が加速する。
日田のスギは、秋田杉や京都の北山杉のような原木としてのブランドが確立されているわけではない苦しさがある。付加価値を高めるためにはじめたログハウス事業は、外国ものにシェアを押えられて、不調の林業を支えるにはまだまだ力不足である。また、1990年に設立された第三セクターの会社「トライウッド」では、Iターン、Uターン組も積極的に取り込み、若い山作業の従事者を育成し、植林・育林・伐採などの山仕事から木工品の製品化までを手がけて必死にがんばっているが、これとて、日田林業全体の活力源になるには道が遠い。
中国需要の急増などによる材木価格高騰の神風が吹いてくれることをひたすら待ち望む組合長の声には元気がなく、日本の林業の縮図を見るようで、その場を逃げ出したい思いに駆られたのだった。自主努力では如何ともし難い市場価格と生産コストとのギャップの大きさが、意欲を奪い去ってしまっているのだろう。
▽脱林業で新たな全国ブランドに成功
一昨年、わたしたちは、ヤナセスギで有名な高知県の馬路村を訪ねた。同じ林業で生きてきた村であるが、そこには元気百倍の勢いがあった。馬路村は国有林が主体で、国有林野事業の縮小とともに林業からの退場を余儀なくされた。同じ林業の衰退であっても、民有林主体の日田とは事情がまったく異るが、彼らは、ユズ生産と独自のユズ製品の開発・販売に活路を見出して、それを全国ブランドにまで育て上げた。人口わずか1200人、陸の孤島のような過疎の村で、今や、ユズだけで年間30億円を超える収入をあげ、平成の大合併でも、合併話を断って日本で最後まで残る村になると公言してはばからない。
どんな斜陽産業でも、その中で独自な生き方を見つけて輝いている一団はある。材木価格が下落して採算ベースを大きく割り込んだ中でも、他の追従を許さない特徴を売り物にブランドを確立して生き残りを図ったり、過疎を味方につけて脱林業に成功した馬路村の人たちのようなケースもあるが、活路を見出せなかった大多数は、取り残された悲哀の中で苦難の道を歩んできた。
農業と並んで、国の一次産業の根幹を成す林業をどう再建するかは、わが国にとっての重大問題である。現在の窮状も、大本をただせば、戦後の材木需要の盛り上がりに端を発し、大量伐採、拡大造林、木材輸入の完全自由化へと誘導した一連の国策の失敗に行き着く。
まずは、雨風をしのげる程度のベースを国や地方自治体が提供しないと、国民は必死の自主努力で晴れる日を待つ心境にもならないのではないか、そんな感想を持った旅であった。(つづく)
(やまかわ よういち=日本山岳会理事・自然保護委員会担当)
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