2007年12月13日13時00分掲載  無料記事
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世界を壊していくグローバル化 ノーバーグ=ホッジさんの講演から 安原和雄

 米ブッシュ政権主導のグローバリゼーション=グローバル化(世界化)が地球規模で猛威を振るっている。一方、その弊害も顕著になりつつあり、「世界を壊す」という形容も決して誇張ではない。その多様な弊害の実相を今こそ見きわめることが必要である。反グローバリゼーションの旗を掲げ続けている女性活動家の見方、主張を手がかりに考える。 
 女性活動家、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさん(注)を招いて行われた講演会での話(要旨)を紹介しよう。グローバリゼーションの名の下で現実に何が起こっているかについて以下のように述べている。(ヘレナさんほか著『ローカリゼーションの胎動と私たちの実践』=編集 懐かしい未来ネットワーク、発行 NPO法人 開発と未来工房、07年11月刊=参照)。 
 
 (注)ヘレナさんはスウェーデン生まれの言語学者。ISEC(エコロジーと文化のための国際協会、本部イギリス)の代表。1986年、持続可能で公正な地球社会実現に重要な貢献をした人々に与えられるライト・ブリッド賞を受賞。著書『ラダック 懐かしい未来』は30カ国語以上に訳された。ラダック(インド最北部のヒマラヤ山岳地帯にあるチベット文化圏地域の呼称)での活動を継続しつつ、グローバリゼーションに対する問題提起や啓発活動を行っている。世界的なオピニオンリーダーの一人。 
 
▽もし石油がなくなったら、今の暮らしはどうなる ? 
 
*石油依存のグローバルな生活様式 
 近い将来石油が足りなくなるかもしれないという、いわゆるピークオイル(注)の問題を意識すると、原油価格が急騰したら、あるいは石油そのものがなくなったら、今の私たちの暮らしが今後どうなっていくのかという疑問が湧いてくる。考えてみると、現在の都市化されたグローバルな生活様式がいかに石油に依存しているかが分かってくる。ほとんどすべての製品が石油を基にしている。周囲を見わたせば、いたるところがプラスティックだらけという状態からも一目瞭然である。 
(注)ピークオイル(peak oil)とは、原油生産量がピーク(最高点)に達すること。ピークを過ぎると、その後の原油生産量は減少に向かい、原油価格が高騰する。07年4月には1バレル(159リットル)60ドル台だったのが、同年12月上旬には90ドルの水準まで上昇した。 
 
〈安原のコメント〉 
「もし石油がなくなったら」という想定問答を日常感覚で試みている人が果たしてどれだけいるだろうか。現実には例えば鉄道やバスに比べて石油浪費型の自動車で― 日本国内のガソリンは1リットル90円から150円程度まで価格上昇したとはいえ― 移動している人びとが余りにも多い。 
 それが示唆するものは何か。やがて、早ければ10年くらいで石油が足りなくなる日がやってくるということだろう。最近の原油価格の高騰は、その予兆である。昨今の経済のグローバル化は歴史上の必然であり、しかも一見猛威を振るっているようにみえるが、実は石油というもろい基盤の上に咲くあだ花ともいえる。 
 
*自由貿易=「貿易のための貿易」の無駄 
 例えば何十万トンというプラスティック製の消耗品、あるいはバターや牛乳、小麦などが輸出され、全く同じものが同じ国内に輸入されている。ほとんどの人はこの事実を知らない。こういう輸出入の量がどんどん大きくなっていて、貿易の相手国も世界各地に広がっている。これが自由貿易、グローバル経済の姿で、こういう「貿易のための貿易」、すなわち同じものを輸出し、輸入するという馬鹿げたことは非常に無駄が多いし、環境汚染を生む源でもある。 
 
▽民主主義も、社会的つながりも、愛情すらも奪っていく 
 
*グローバル化は民主主義を脅かす 
 経済活動をさらにグローバル化していく方向は、社会的、心理的、かつ環境に関する問題をますます悪化せせるだけではない。真の民主主義さえ存在し得ないことになってしまう。なぜなら外国への投資を決めるのは政府ではなく、グローバル企業なので、選挙で投票する人たちがグローバル経済に反対していても、その投票には全く意味がなくなってしまうからである。 
 
*社会的つながりを崩壊させたグローバル化 
 グローバル化経済の下では「もっともっと」という競争とプレッシャーに常にさらされている。少なくなった仕事を求め、少なくなっていく資源を求め、人々はより長時間働かなくてはならない。学校ではより一生懸命に勉強しなくてはならない。そういう状況に置かれてしまい、幸せを感じる度合いがだんだん少なくなっている。 
 沢山働く人は、どうしてもテレビを見る時間が多くなる。あるいはコンピュータの前に座って、自分とは別のもうひとつの自分をインターネットの世界でつくりあげることで現実から逃れようとする人も増えている。 
 街の中、電車の中、オフィスの中で、人はあまり他の人に目を向けなくなってしまった。パソコンの画面を見たり、携帯電話で話したりしていて、目の前にいる人の顔を見て話をするということがなくなってきている。つまり社会的つながりが崩壊してしまっていることがグローバリゼーションのもたらした大きな要素のひとつである。 
 
*消費文化の中で愛情すらも奪われていく 
 経済のグローバル化は、人々から愛情すらも奪っている。子どもにとって自分たちの声を聞いてくれている、自分をみていてくれている、自分は愛されている、自分を慈しんでくれている、そう感じられるような関係の中で生きられるかどうかは本当に大きなことである。これを可能にさせていた社会体系が、グローバルな消費文化の中で急速に失われている。 
 消費文化の中で生きる子どもたち、若者たちは、友だちの愛を得たいなら、最新のファッション、流行のスニーカー、最新のおもちゃを持っていなければならないというメッセージにさらされている。しかしいくら最新のファッションを身につけても、愛情を得たり、そこからコミュニティができていくわけではない。さらなる競争やねたみが生み出されてしまい、やがて自分が自分自身であるがゆえに愛されるのではなく、自分が持っているものに注目が寄せられているだけだということに気づかされる。 
 
〈コメント〉 
 「経済のグローバル化」といっても、それが世界中にまき散らす弊害は、経済の分野に限らない。ここで指摘されているように民主主義への脅威、社会的つながりの崩壊、さらに愛情の喪失など、その弊害は多面的である。日本での自殺が小泉政権以来、年間3万人を超える高水準にあるのも、また親殺し子殺しが多発しているのも、その背景には無慈悲な新自由主義路線=グローバル化路線がある。 
 
 特に「子どもにとって自分たちの声を聞いてくれる、自分は愛されている、自分を慈しんでくれると感じるように生きることができるかどうかは大きいこと」という指摘は的確というべきである。ここには望ましい教育の原点が伏在している。この一点を視野に入れない教育改革論は無意味であり、それこそ画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くだろう。いいかえれば教育改革はグローバリゼーションにどう対抗するかという視点から取り組む必要があることを示唆している。 
 
▽グローバル化にどう対抗するか ― 聴衆との質疑応答から 
 
ヘレナさんの講演に対し、聴衆との間で交わされた質疑応答の一部を以下に紹介する。 
問い:グローバル化の推進者たちは、人類の危機的な行く末が分かっていて推進しているのか、それとも気づいていないのか? 
 
答え:結果がどうなるか、気づいていないと思う。さまざまな国の閣僚たちと話して感じるのは、グローバリゼーションによる社会的、環境的影響が分かっていないという印象である。この人たちは、経済活動が停滞し、経済成長が止まってしまうと、その結果もたらされる苦痛が非常に大きいものになると信じ込んでいる。だからグローバル化という経済活動を進めていくことで、自分たちは良いことをしていると信じている。 
 
 また経済成長の道をとらなければ、多くの雇用が失われてしまう、職がなくなってしまう、とよく口にする。しかしグローバリゼーションによって世界中のどれだけ多くの農家が土地を奪われているか、いかに多くの職が失われたかについては語ろうとしない。さらに大規模の企業合併や買収が進められている最近の潮流のもとでは、大企業のトップでさえ自分の職に安心して就いてはいられなくなってしまった。 
 包括的見方がなされていないから、ものごとのつながりが見えていない。 
 
〈コメント〉政策転換を強いられるグローバル化推進者たち 
 グローバル化の推進者たち(米ブッシュ政権をはじめ日本を含む各国の保守政権、世界銀行、WTO=世界貿易機関など)が、「人類の危機的な行く末」も含めて、その弊害に気づいているかどうかは、無視できないテーマである。ヘレナさんは、推進者たちも「根は善人」、あるいは「洞察力の乏しい人々」という認識らしい。しかし私(安原)はそこまでお人好しにはなれない。 
 
 グローバル化の推進者たちは、多様な矛盾が露呈している資本主義体制=自由市場体制の救済者気取りではあっても、弱肉強食の競争の結果、大量につくられる負け組への慈悲心は皆無に等しい。このことに気づいていないのではなく、それを承知でやっているとみるべきで、彼らはまやかしの「改革」を売り物にしながら、体制擁護のための最後の勝負、つまり賭(かけ)に出ているのではないか。 
 しかし米ブッシュ政権の先制攻撃論にもとづく戦争と殺戮(さつりく)― これも米主導のグローバリゼーションに不可欠の側面 ― はもはや切り札にならないだけではなく、むしろ自らの墓穴を掘ることになりかねない状況にある。このことに彼らも気づき始めて、政策転換への調整を強いられている。 
 
問い:良い「グローバル化」、一方、悪い「グローバル化」とは? 
答え:グローバリゼーションを、国際的な協働や国際的な貿易と混同してはいけない。グローバリゼーションとは、グローバルな貿易に関する規制を緩和していることを指していう言葉である。コカ・コーラやIBM、またトヨタや三菱のような地球規模で事業展開する企業にとって、地球の隅のローカルな市場に入っていく、あるいはそこから退出していく、そういう自由がどんどん与えられていくこと、これがグローバリゼーションである。 
 
 いいかえれば、グローバル化はグローバルなビジネスの規制緩和を推進するシステムのこと。この動きとリンクした形で、むしろ国内や地域でのビジネスが過剰に規制される状況を生んでいる。国や地域レベルの生産活動では、衛生、保健、福祉、環境面で厳しい規制を設けられているにもかかわらずグローバルな企業に対しては、そういう規制がない、あるいはあったとしても実際には守られないところに大企業はどんどん出向いて大儲けができる。このようにグローバリゼーションは非常に不平等な仕組みだということを強調したい。 
 
 規制緩和といいながら、実際には過度の規制が弱小企業に押し付けられている。 
 例えばアメリカのコロラド州では、自分の家のストーブで焼いたビスケットを売るビジネスをしていた人が営業許可を取り消された。当局からこれまでのストーブは不衛生だから、新しい1万ドルのストーブに買い換えなさい、といわれたが、買えなかったためである。 
 またフランスでは何世代にもわたってチーズをつくっていたある農家がチーズを販売する権利を剥奪された。チーズを発酵させる納屋にタイルを貼るなど衛生的な環境に改築するよう当局から求められたが、改築できず、廃業となった。 
ローカルなビジネスの規制の多くは、大企業が政府に入れ知恵をしてつくらせているものも多い。 
 
〈コメント〉「グローバリゼーションは不平等な仕組み」は正しい 
 いま世界を席巻(せっけん)しつつあるかにみえるグローバリゼーション=グローバル化の正体は何かをはっきり理解する必要がある。単純にいえば、良いグローバル化と悪いグローバル化に分けられる。 
 前者の良いグローバル化は国際的な協働や通常の国際貿易を指しており、これは拒否すべきものではない。問題は後者の悪いグローバル化で、これは地球規模で展開する多国籍企業など巨大企業のビジネスに対する規制の緩和・自由化を推進するシステムを指している。その一方で弱小企業は過剰な規制を受けて整理され、没落していく。ヘレナさんの「グローバリゼーションは不平等な仕組み」という指摘は100%正しい。 
 
問い:会社を辞めて、グローバリゼーションの流れから離脱すべきなのかどうか? 
答え:自分ひとりが会社に残るか辞めるかは、重要な問題ではない。それよりも、この世の中の全体像とその仕組みを自分でしっかりと勉強し、オルタナティブ(代替的)なあり方に関するビジョンを人に伝えていけるようになることが大切である。 
 一人ひとりがよく生きることも大切だが、もっと大切なのは、どう生きたいのかというビジョンを自らが持ち、それを周囲と共有していくこと。そういう意識の人たちの数が、ある時ある臨界点に達し、わたしたちが望んでいる世界を創っていくような力、政策を転換していくための大きな力となるかもしれない。 
 
〈コメント〉大切なのは変革のビジョンを共有すること 
 ここでも重要な問題提起が行われている。一人の良心的な個人がグローバル化に抵抗して、大企業を辞めるかどうかは、たしかに重要とはいえないだろう。大切なことは「どう生きたいのか」、つまり社会を、ひいては世界をどう変革したいのか、そのビジョン(構想、未来像)を持ち、それを周囲の人々と共有していくこと、と言い切るヘレナさんは、未来を見つめる楽観主義者といえる。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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