2008年01月26日17時12分掲載
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「今日はお寺で6時間過ごそう」 原子力発電と仏教をテーマに 安原和雄
「今日はお寺で6時間!」というタイトルの一風変わったビラが手に入った。イベントの主催は「お寺で6時間!実行委員会」とある。プログラムには原子力発電にかかわる映画と仏教講話が盛り込まれており、「原子力発電と仏教を考えよう!」がテーマとなっている。
原発と仏教がどうつながるのか、興味を抱いて、早速出掛けてみた。時は2008年1月19日(土)午後1時から6時間、場所は青松寺(せいしょうじ・東京都港区)で、目指すこの寺は東京タワーがそびえ立つ、その麓のビル群の谷間に広い庭を構えている。会場の観音聖堂に人の群れが入り込み、あっという間に定員の約200名を超えて、はみ出す人もかなり出た。以下は私の参加印象記としたい。
▽「足るを知る。こだわりのない自由な心で・・・」
ビラには以下のように綴ってある。私は「足るを知る。こだわりのない自由な心で」つまり貪欲という際限のない欲望を排す、という趣旨と受け止めた。
知る・感じる・ただ坐るetc. with映画「六ケ所村ラプソディー」
お寺は癒しの場だけじゃない。
禅僧たちの毎日がそうであるように、
大切な気づきの場なんだ。
話題のドキュメンタリー映画を見て考えよう。
今生きていることや、自分にとって大切なこと。
身体をほぐすための時間もあるよ。
6時間たっぷり、身も心も、深呼吸。
お寺に行くのが初詣だけなんてもったいない。
なるほど、たしかに「もったいない」 ― 読んでみて、こういう発想、アイデアもあるのか、と感心した。ビラの呼びかけ文をもう少し紹介しよう。
足るを知る。
こだわりのない自由な心で知るべきことを知る。
誰かの言い分をうのみにせずに、いろんな情報を知る。
これからの先のいのちのために。
心休まる観音聖堂で過ごす一日。
映画上映、仏教系ヨガ&坐禅教室、トークセッション&ライブ、お寺かふぇ&しょっぷなど盛りだくさん!
美味しい精進スイーツ、玄米おむすびなどの軽食や、身体が温まるお茶などで、ほっとひと息タイムもご自由に。
プログラムがまた多彩である。
まず映画「六ケ所村ラプソディー」の上映、その後にヨガ、原子力講座、さらに曹洞宗住職を加えたトークセッション&ライブ、坐禅講座など―と。どうやら中心テーマは「原子力発電と仏教」らしい。
さて私は会場の観音聖堂に入る前にイベントの詳しい小冊子をもらい、玄米おむすびをいただき、腹ごしらえをして6時間という長丁場に備えた。
▽映画が語りかけるもの ― 「光と影を見て自分で考え、選択する」
映画「六ヶ所村ラプソディー」は何を語りかけようとしているのか。監督・鎌仲ひとみさんは、小冊子の中でつぎのように書いている。なお六ケ所村は青森県下北半島の付け根にあり、人口1万2千人である。
くらしの根っこ、そこに核がある(見出し)
原子力発電所で電気を作っていることは誰でも知っている。原発に反対する人々と容認・推進する人々がいる。普通の人が原発について考えようとすると、両極端の情報が混在し、多くの人々は良く分からない。仕方ない、自分には関係ないと思っている。
この映画は日本の原子力産業の要、使用済み核燃料再処理工場(注・安原)がある六ケ所村に生きる村人を取材している。六ケ所村に生きることは核と共に生きることを意味している。けっして他人事ではない。日本に55基の原発があり、総電力の3分の1をまかなっている。私たちの暮らしに電気は欠かせない。そう、日本人1億2千万人、全員が核技術による電気の恩恵にあずかっている。それは私たちにいったいどんな意味を持っているのだろう?
賛成、反対を超えてその内実や意味を見つめてみようとこの映画を作った。
六ヶ所村の再処理工場は世界で最も新しいプルトニウム製造工場となる。ここが稼働すれば日本は新たな原子力時代に入ってゆく。
どんな素晴らしい科学技術にも光と影がある。その両方をみて初めて私たちは自分で考え、選択することができる。(中略)映画には賛成・反対、双方の村人が出て、語ってくれる。原子力、それは一方では未来の可能性であり、また一方では命を脅かす存在として捉えられている。六ヶ所村の人々はそれぞれ、自分自身の選択を生きている。そんな人々の暮らしや日常から私たちの未来が立ち上がってくる。
(注)六ヶ所村再処理工場は日本原燃を事業主体に、電力業界などが約2兆2千億円をかけてつくった。初の大規模な商業用再処理工場で、今(08)年2月中に試運転を終え、3月に本格操業に入る予定である。再処理工場は一度使った使用済みの核燃料を再処理してプルトニウムを取り出す工場で、フル稼働すれば年間800トンの使用済み燃料を処理して約5トンのプルトニウムを取り出せる。(朝日新聞・08年1月18日付)
なおプルトニウムはウランからつくる人工放射性元素。容易に核分裂するので原子爆弾、水素爆弾にも利用できる。半減期は約2万4000年。毒性はきわめて強い。
毎日新聞(08年1月23日付・東京版)に「低レベル埋設施設 住民側控訴を棄却 六ヶ所村訴訟」という見出しの記事が載っているので以下に紹介する。
日本原燃が操業する青森県六ヶ所村の低レベル放射性廃棄物埋設施設をめぐり、住民らでつくる「核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団」が国を相手に事業許可取り消しを求めた訴訟で、仙台高裁は22日、1審・青森地裁判決(06年9月)を支持、原告側控訴を棄却した。
放射能による地下水汚染の可能性や施設の耐震性などが主な争点となった。高裁は「都合の悪い地質調査データを隠ぺいした」と原告側主張を認め、原燃に詳しい調査結果を提出させたが、裁判長は国の安全審査について「誤りがあるとは認められない」と判断した。原告側は「上告を検討したい」としている。
▽「仕方がない」が悪事をはびこらせる
映画の中で印象に残った地元の人の言葉が二つある。
一つはつぎの言葉である。
県民の中には国策だから推進するという人もいる。私にはお金が貰えるから受け入れている、に聞こえる。安全だと言っているから賛成だという人もいる。私には安全なんだと自分に言い聞かせているように見える。
なんで私が中立から心配派に変わったかというと、ある先生が、中立というのは、いい言葉なんだけど、核燃に関しては賛成か反対しかない。中立っていうことは賛成なんだよ、って。だって反対を言わないし、行動もしない。原燃がやってることをただ見てるだけだ。見てるってことは容認してる。賛成派なんだよ、って。
(中立は)楽だよね、だって賛成していないと思っているから、自分で自分を。中立の怖さみたいなのを誰も、考えないの、深くね。
もう一つ、紹介しよう。
こういう風に(工場が)できてからなんだかんだ言ったって、どうもならないしょ。本当は青森に来てほしくないの。でも私たちがなにやかや言っても、まあ仕方ないんだけど。
以上の「中立」という立場、「仕方がない」という心の動き ― は、多くの日本人の体質なのだろうか。当初、盛り上がった反対運動も、再処理工場建設を推進する権力側のごり押し、そしてカネの威力でつぶされていった。
「(中立は)楽だ。賛成していないと思っているから」が印象に残る。「中立」は結局、事実上賛成に回ってしまったことになる。
「仕方がない」は「長い物には巻かれろ」(権力者とは争わないで従った方が得策という意)と重なり合っている。
あのアジア・太平洋戦争(1931〜45年)のとき、「仕方がない」を繰り返しているうちに開戦となり、敗戦を迎え、日本人だけでなんと300万人(軍人のほか、米軍の空襲による一般民間人の死者も含めて)を超える犠牲者を出した。これはまだそう遠い過去の歴史ではないことを想起したい。仕方がない、というあきらめに近い思いが悪事をはびこらせる。日本語から「仕方がない」を追放できれば、この現世をかなり変革できるような気がしている。
▽ 曹洞宗住職の仏教講話 ― 「自他一如」と「少欲知足」
映画上映後のトークは監督の鎌仲ひとみさんと曹洞宗住職の佐藤達全(育英短期大学教授)さんらとの間で行われた。ここでは以下に住職の「環境破壊と仏教 一人だけの幸せはありません」と題した講話の一部(要旨)を紹介しよう。そのキーワードは「自他一如」(じたいちにょ)と「少欲知足」(しょうよくちそく)である。
私たちの「豊か」な生活は、地球の犠牲(環境破壊)のうえに築かれている。ものごとを役に立つかどうかだけで取捨選択するのは、大きな間違いである。それは、ものの一面しか見ていないからで、どのようなものにも、必ず相反する二つの面がある。(中略)役に立つものばかりを追い求めていると、いつのまにかすべてを失ってしまうのではないか。
地球という閉鎖された世界では加害者も被害者になる。地球の反対側で発生した汚染も、やがては自分のところに影響してくるから、「私だけは安全」という保証はない。このまま進むと、とりかえしのつかないことになるのではないかと、多くの人びとが気づきはじめた。なかなかよい考えが浮かばないが、この袋小路から抜け出すヒントは何か。
仏教に「自他一如」という教えがある。これは自分と他人とは別のものとして対立しているのではないという意味である。
みんなが幸せになるためには、自分以外のあらゆる人やものを大事にしなくてはならない。それは大量生産・大量消費による使い捨てをやめることである。
ものを大切にすることは水や空気が循環している地球の姿にかなった生き方で、それを仏教では「少欲知足」と教えている。人間の欲望は、満たされるとさらに大きくなるから、おさえることが必要である。大量生産・大量消費こそが幸せにつながるという発想を転換し、リサイクルを生活の基本にしなくてはならない。
私たちが際限なく豊かさを追い求めると、森も川もきれいな空気もなくなってしまう。人や動物や植物を、すべて大切にすることが、地球というかぎりある世界で生きる正しい方法なのである。それこそが仏教で理想と考える彼岸の世界へつづく道といえるのではないか。
▽ 女性たちの手作り、イベント「原発と仏教―いのちを軸に」
イベントの場所がお寺であったせいか、講話のキーワード、「自他一如」、「少欲知足」という仏教語が違和感を感じさせることはなかった。多くの参加者も同じ印象だったのではないだろうか。
この二つのキーワードはまさに今日の地球環境時代のそれである。欲望をほしいままに行動すれば、地球環境の汚染・破壊によって地球上の生きとし生けるものすべてのいのちが損なわれる。逆にいのちを尊重するためには「自他一如」と「少欲知足」の社会的実践が求められる。
「仏教は、非社会的な宗教」という認識は仏教界には意外に根強い。しかし仏教を「自分だけの宝物」として囲い込み、社会的実践を拒む狭い心根はいかがなものか。偉大な教え、思想は時代とともに発展し、時代が投げかける課題に正面から応えるものでなければ、存在価値はないだろう。仏教も例外ではない。その意味では佐藤住職の講話は、仏教の社会的実践のよき見本である。
一方、映画「六ケ所村ラプソディー」の監督、鎌仲さんが「くらしの根っこ、そこに核がある」という一文で書いているように「原子力、それは一方では命を脅かす存在」である。そうだとすれば、いのちを大切に育むためには「原発推進」に待った!を大声で掛ける必要があるだろう。
こう考えると、仏教も原発もともに「いのち」に深くかかわっている。一見縁遠いものに見えるが、実は「いのち」を軸に深くつながっているといえる。
特筆すべきことは、今回のイベントを盛り上げる役割を演じたのが若い女性たちであったことである。実行委員会の面々もほぼすべて女性であった。参加者たちも若い女性が圧倒的に多かった。
私は数年前に慶応大学で「地球環境時代と仏教経済学」というテーマで講話をする機会があった。そのときの聴講生もやはり女子学生が多かった。しかも感想文に「仏教経済学の話は初めて聞いたが、これからの時代に合っているように思う」という趣旨の女子学生の声がいくつもあったように記憶している。
男性優位の時代は終わりを告げて、女性がリードしてゆく時代が始まりつつあるのではないか、― 若い女性たちがお寺を一時的にせよ、占拠(?)状態にした手作りの「お寺で6時間」から得た印象であり、収穫である。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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