2008年01月30日23時16分掲載
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トルコ、表現の自由の行方
トルコで大学でのスカーフ着用禁止令の解除の動き 「女性たちにチャンスを与えよう」
トルコで、大学キャンパスでのイスラム教徒のスカーフ着用に対する禁止令が、解除される動きが出ている。サラエボ国際大学で英語を教えるアリ・ギュン氏が、トルコの英字紙「ターキッシュ・デイリー・ニュース」(1月29日付け)の中で禁止令解除の意味合いを分析した。氏から日本語訳無料掲載の了解を得たので、以下に紹介したい。
「女性たちにチャンスを与えよう」
エルドアン・トルコ首相は、先日訪れたスペインで、「スカーフは宗教上の選択か、それとも政治上のシンボルなのか」と問いかけた。これをきっかけに、1980年代初頭から、トルコの大学で事実上禁止されてきた、イスラム教スカーフの着用に関する議論が再燃している。
ここ1週間ほど、スカーフ問題に関し、新聞やテレビで様々な論点が議論されてきた。最近の世論調査によればトルコ国民の大部分がスカーフ着用禁止の解除を支持しているが、これまで、この問題を解決しようという断固とした動きがなかったのは、特に与党公正発展党(AKP)の側に根深いためらいがあるからだった。
民主主義、人権、欧州連合(EU)の面ではいくつかの改革や前進を実現したAKPだが、スカーフ問題の処理に関しては不治の病にかかっているか、身動きできない状態となっている。禁止を解除するには「全国民の同意」が必要となるが、この「同意」がどんなものになるのか、見えてこないのだ。
過去の経緯を見ると「2月28日事件」(注:1997年2月28日、国家安全保障会議が、スカーフ着用の禁止解除を進めようとしていた与党福祉党に対し、イスラム教的政策を停止するよう宣言。これをきっかけに福祉党は解党措置に。福祉党の流れを汲む美徳党も着用禁止に動いたが、総選挙で負けた後、非合法化された)以降、福祉党と美徳党の2政党の運命や政治活動の禁止といった結末が、常にAKPを悩ませてきたのは明らかだ。
最近になって、スカーフ問題は宗教上の選択と考える民族主義行動党(MHP)が憲法第10条を改正することでスカーフ禁止を解除することを提案したが、野党共和人民党(CHP)からの強硬な反対や、妥協を知らない政教分離原理主義者たちが解除への大きな障害となっている。
スカーフ禁止の解除支持の理由は様々だ。まず、テレビでの議論や新聞記事を読むと、CHPや、極端な世俗主義の裁判官、検察官、官僚側は、スカーフは、与党AKPが頻繁に使う、政治上のシンボルに間違いないと主張する。スカーフ問題が議論に上ると、直ぐにAKPと結びつけるのだ。この主張は正しいかもしれない。しかし、スカーフ問題に関しては中立の政党はないというのも事実だ。AKPによる政治問題だとする主張は正当ではなく、確固とした証拠もないのだ。
▽スカーフ:政治の利として使われるトピック
トルコの政党の歴史を検証すると、多くの政党がスカーフを政治の手段として使ってきたし、今でもそうしていることが分かる。例えば、1990年代、政党の指導者たちが、自分たちも頭髪を布で被い、スカーフ姿の女性たちと一緒にいるところを写真に撮らせ、もし政権を取得すれば、大学でのスカーフ着用禁止を解除する、スカーフを被っても被らなくても女生徒たちが共に勉学できるようにする、と約束していたことを思い出す。こうした政党は、政権取得後、この約束を守らなかった。理由は「世俗主義」や「軍部が何と言うか分からないから」だった。
さらに、CHP,MHPや民主左派政党(DSP)の総会の様子をテレビで見ると、女性出席者たちの多くがスカーフを被っているし、女性支部の会合でもそうだ。こうした女性たちはそれぞれの政党の活動に参加し、政党への支持を増やそうとしている。全く普通の光景だ。
大学で着用するスカーフが政治のシンボルだとどうやって分かるのだろう?女生徒の心の中に入って、答えを見つけるとでも言うのだろうか?判断の基準は何なのだろう?
もしトルコの諜報機関や警察が、スカーフを被る女生徒や女性たちがスカーフを政治的シンボルとして使い、違法な活動に従事し、トルコのイメージに損害を与えているのだと思うなら、検察官、裁判官、法廷、刑務所を使って罰すればいい。スカーフ問題は政党間の利益や権力の衝突でもある。どの政党も清廉潔白ではないのだ。国民を欺くのはやめよう、正直になろう。
また、スカーフ着用を批判する一部の女性たちは、少女や女性たちがスカーフを被るのは、父親や夫が強制させているからだ、と言う。トルコは家父長制が非常に強い国なので、特に封建主義的な地方や田舎ではそのようなこともあるかもしれないが、世論調査の結果を見れば、こういうケースは少ないと思う。
最後に、信仰心を考えてみたい。スカーフを被る女性たちは、政治的な意思からではなく、父や夫に要求されたからでもなく、聖なるコーランが教える、自分たちの信仰に基づいて着用する、と言っている。また、トルコが、民主主義や政教分離体制を持つ近代的な法治国家で、宗教面でも政治面でも個人の選択や価値観を重要視するとすれば、自分たちはスカーフを被ると言う生き方を自分たちで選択しているだけだ、と主張する。スカーフを被らない他の女性たちに対して、自分の信仰や行き方を押し付ける気持ちは全くない、と言う。
▽大きな苦しみ
この最後の議論がスカーフを被る最も合理的な説明ではないかと思う。この理由をいろいろと避ける必要はないのに、誰もこうした意見を信じないのだ。こうした声に誰も耳を傾けない。この結果、多くの若い女性たちが、着用禁止で過去20年間心理的に非常に苦しんできた。多くの女性たちは、他の女性たちがそうであるように、それぞれ自分たちの人生や将来に関して、夢や願い、期待を持ちながらも、教育を中途で停止せざるを得なかった。多くの女性たちが何の印も跡に残さず、静かにどこかに消えてしまった。そしてまた多くの女性たちが、スカーフを被らずに教育を続け、現在でも続けている、怒りを感じ、不当な扱いを受けて傷つきながら。
トルコは過去25年間、スカーフ問題で何を達成したのだろう?不幸なことに、何も達成していない。スカーフ問題の議論は、私たちトルコ国民をますますばらばらにさせた。女性たちをものの見かたや振る舞いの点で周辺的存在にした。時間とエネルギーを無駄遣いさせ、復讐、パラノイア、恐れ、憎悪、社会の分断化の文化を作った。私たちは互いを信頼しなくなった。誰かが何かをしようとすると、その裏に何かがあると思ってしまうのだ。こんなことでは国として成功出来ない。
スカーフを被っても大学での高等教育が受けられるよう、女生徒たちにチャンスを与えよう。禁止が解除されれば、以下のような利点があると思う。
第1に、大学で勉学する女性の数が増えるかもしれない、認めようと認めまいと、道徳観や文化がトルコ社会では重要な位置を占めるからだ。道徳上の懸念から娘を大学に送りたがらず、直ぐに結婚させてしまう親もいるのだ。
第2に、スカーフを被りながらも大学に通う女性たちは、トルコの次世代の声や灯火になるかもしれない。女性たちは自己犠牲の状態から、自己認識の状態に移行し、家庭でも職場でも自分たちの声を持てるようになるばかりか、1914年の著作「女性の世界」で作家ネディム・サラ・ハニムが書いたように、教育を破滅の印と見てきた考え方に挑戦することにもなる。
第3に、高等教育は男女の格差を解消するための橋になり、近代的で繁栄する社会を作ることを可能にするかもしれない。こうした社会では、誰も他人の信仰や生活様式に干渉せず、自由、民主主義、人権平等、正義、多様性との調和を享受する。
最後に、重要なのは、スカーフの禁止令解除は、トルコ全国で国民同士に互いへの信頼感を作り、司法制度、軍隊、議会、大学やそのほかの機関を本当の意味で受け入れることにもなる。
(翻訳・文責:日刊ベリタ小林恭子)
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