2008年02月25日00時15分掲載  無料記事
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コソボ人とは何者なのか ロバート・エルシー

openDemocracy  【openDemocracy特約】民族のアイデンティティの問題は常に議論や論争を引き起こす可能性を持っている。政治的な国境で分断されながら、多くの類似点を共有する人々の間では特にそうであろう。Kosova(その地域はアルバニア語方式ではそうつづられる)のアルバニア人は、エスニックや民族のアイデンティティと関連した問題に過去も現在も取りつかれているそうした集団のひとつである。それは理解できることである。 
 
 何年にもわたり、彼らは何がないか知っていた。何十年間もユーゴスラビアのパスポートを持ち、アルバニアの人々が夢に見ることさえもできなかった自由を享受したが、彼らはユーゴスラビア人と呼ばれるのを好まなかった。世界の多くは彼らの国を単にセルビアの一地方と見なし、実際、一部の者はまだそう見なしているが、彼らは確かにセルビア人ではなかった。 
 
 だが、2008年2月17日に独立を宣言した国の市民であるコソボ人(Kosovar)とは何であり、何者なのか。彼らは全くのアルバニア人なのか、すなわち、アルバニア共和国の住民と同じ人々なのか。それとも、特別の種族のコソボ・アルバニア人なのか。このことについての混乱によって、1998年から1999年のコソボ戦争の前とその間に、「エスニック・アルバニア人」という幾分けなした言い方が生まれた。 
 
 わたしが「けなした」と言うのは、その言葉が外部からコソボ・アルバニア人に押し付けられ、戦争の間とその後にほとんど世界的に使われる一方、コソボのセルビア人住民に対応する「エスニック・セルビア人」という言葉は定着しなかったからである。こうして、暗黙のうちにその国は単にセルビアの一部であると示唆することになった 
 
 コソボ・アルバニア人の側での、アルバニア人である権利のための何年もの戦い中で、コソボ人の固有アイデンティティに関する話題は極めてタブーであった。その時代の政治的状況の中では、それはコソボのアルバニア人とアルバニアのアルバニア人の間にくさびを打ち込み、拡張的なセルビアのためにアルバニア民族(nation)を分断し、弱体化させることに等しいものと見なされた。 
 
 コソボ人は、特にベオグラードのかつての共産当局による陰謀のために、この問題に特に敏感である。セルビア人が主に住むところではなかったその地域に対する支配を維持するために、1945年以降、ベオグラードはアルバニア人を指す言葉としてセルビア語で二つの異なった言葉を作った。アルバニア共和国の住民を意味するAlbanci とコソボと旧ユーゴスラビアのその他の地域のアルバニア語を話す住民を指すŠiptari で、その言葉にはマイナスの響きがあった。ベオグラードの当局は、潜在的な統一の願望を抑える試みの一環として、ひとつの民族集団(ethnic group)を二つに巧みに分断した。 
 
ひとつの世界、二つの世界 
 
 西側世界は、ユーゴスラビア戦争と民族紛争、それにアルバニアにおける1997年の騒乱の結果として、1990年代にようやくアルバニア人を真に発見したのである。当時の新聞とテレビの報道はアルバニア人を二種類のものとして示した。つまり、ゲグとトスク(すなわち、北部のアルバニア人と南部のアルバニア人。方言学者と民族誌学者は彼らをそう分けている)ではなく、本物のアルバニア人とコソボの「エスニックな」アルバニア人である。 
 
 アイデンティティ、特に民族(national)のアイデンティティのような問題は他と同じように、ここでも複雑である。決定的な判断はほとんど不可能であり、短い記事では確かに不可能である。基本的な疑問が核心を示している。コソボ人はアルバニア共和国の住民と同じ人々なのかである。 
 
 表面上は、それは明確のように見える。もちろん、彼らはそうである。彼らは基本的に同じ民族性(ethnicity)を持ち、かなりの方言の違いはあるものの、同じ言語を話し、一定の同じ価値のコミュニティを持っている。従って、彼らは民族(nation)をなすものとしての基本的な属性のほとんどを共有している。アンソニー・スミスは、これを次のように規定した。「(通常、生まれながらにして)歴史的領土、共通の神話と歴史的記憶、多くの場合、共通の言語、大衆の共通文化、脅威の認識、すべてのメンバーのための共通の合法的権利と義務を分かち合った人間集団」。 
 
 これまでのところは良い。だが、この問題に完全な答えを求めるなら、それはドイツ人が言うところのjein、つまり、そうであり、かつそうでないである。 
 
 BBCのアナリスト、Paulin Kolaは、その問題の性格を次のように述べている。「アルバニア人は、彼ら自身より強い国の度重なる侵略を受ける側にあって、分裂したままで、集団的忠誠を命じる統一的な中央権威を確立できないままであった」(The Search for Greater Albania C Hurst, 2003). 
 
 アルバニア人が主に住む南東欧州の領土という民族的(ethnic)意味でのアルバニアは、オスマン帝国の一部として約5世紀にわたり一体であった。1912年から1913年の第一次バルカン戦争で消滅しかけていた帝国が最終的に崩壊すると、コソボ(当時、アルバニア人が多数派を占めていた)はセルビア王、ペータル1世のセルビア第3軍に侵略され、征服された。現在の政治的意味でのアルバニア自体は1912年11月、かなり混乱した中で独立を宣言し、1913年夏のロンドン会議において国際的な承認を勝ち取った。 
 
 その時以来、アルバニア人は二つの異なった国に暮らしている。もっと正確に言うと、6つの異なった国に暮らしている。なぜなら、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、ギリシャ(イタリアでの昔からのと新しいコミュニティは言うまでもなく)には相当数のアルバニア人のコミュニティが存在するからである。しかし、中心的な定住地は1913年にアルバニア人が絶対的な多数派であった、その二つの地域であったし、現在にいたるまでそうである。 
 
月の陰に隠れて 
 
 第一次世界大戦の終わりから第二次世界大戦の始まりまでの1918年から1939年の間、アルバニアの文化は二つの異なる世界で発展した。この期間に、特にゾグ王の時代(1928年―1939年)に、母国のアルバニア人は、欧州の基準からすれば素朴なものであったかもしてないが、同質な民族(national)文化をゆっくりではあるが発達できた。 
 
 一方、コソボ・アルバニア人はこの間に、セルビア・クロアチア・スロベニア王国の中で、迷惑な客として、かつてない程の民族差別を受け、政治的にも文化的にも進歩することができなかった。コソボにおけるアルバニア語の公的な使用(アルバニア語の学校における教育)は、オスマン帝国の時と同じように、「第一次ユーゴスラビア」では禁止された。 
 
 第二次世界大戦中のファシスト・イタリアのもとでのアルバニアとコソボの短い統一は、 ある程度の安堵をもたらした。短命ではあったがアルバニア語による行政がつくられ、小学校と中学校が開校し、多くの若いコソボ人が留学するために奨学金を受けた。多くのコソボ人がイタリアとナチス・ドイツの占領を歓迎したとするなら、それはファシズムを好んだためではなかった。それは単に、多くの人々にとってイタリアとドイツの占領は、セルビアの占領より、はるかに好ましいものであったからである。その事実は、セルビアのもとでの経験の性質を反映していた。 
 
 だが、コソボは1945年からセルビアの支配に戻り、住民の多数の意思に反して、社会主義ユーゴスラビアに取り込まれた。それは1990年代のユーゴスラビアの戦争まで続いた。けれども、1946年から1947年にかけて(ティラナでの共産主義者の勝利の後)、アルバニアとコソボの間に僅かな接触が存在した短い時期があった。実際、当時、アルバニアとコソボのだけでなく、アルバニアとユーゴスラビアの政治統合の計画が進行していた。ユーゴスラビアのディナールがアルバニアの通貨として導入され、セルボ・クロアチア語がアルバニアの学校で必須となった。 
 
 けれども、チトーとスターリンの間の大きな亀裂、それにアルバニアの指導者、エンベル・ホッジャがベオグラードに反対し、モスクワと固く手を結ぶ選択をしたことで、政治状況は根本的に変わった。1948年夏から1990年代まで、アルバニアとコソボの間の国境は完全に封鎖された。ベルリンの壁は、比較すれば、ざるであった。セルビアの「出国ビザ」を持たずにアルバニアを訪れたコソボ・アルバニア人は、1998年においても投獄された。 
 
 アルバニアとコソボの間のこの強要された分割と長期間の分断の明白な結果は、文化的分裂であった。二つの異なったアルバニア文化と、二つの異なったアルバニア民族(nations)とも言えるものである。 
 
 アルバニアのエンベル・ホッジャの孤立主義政権は半世紀近く、スターリンとその後継者の粗野で非人間的な体制を固く守り、1940年代後半、中産階級を消滅させ、その後の数十年間、経済的・文化的停滞しかもたらさなかった。国民は無知と恐怖、窮乏のもとで暮した。物質的には、彼らは生存するのに必要な最低限のもの以外は奪われた。実際、人々がいかに生存できたか驚嘆せざるを得ない。 
 
 伝統的なアルバニアの文化のほとんどの側面は破壊された。特に、1960年代においてそうであった。数十年にわたる共産主義革命、粛清、恐怖はアルバニアがかつてあったほとんどすべてのものを破壊した。今日においてもなお、アルバニアは世界から数十年間にわたり社会的・文化的に孤立したことによる犠牲者である。そうした状況の中で、アルバニアの国民はコソボに思いをめぐらす時間もエネルギーもなかった。家族のつながりを持たないほとんどの人々にとって、コソボは月の陰に隠れたどこかにあった。 
 
山の橋 
 
 一方、コソボは常にユーゴスラビアの貧乏人であったが、ある程度の経済的前進をし、1970年代までにある程度の繁栄(控え目なアルバニアの言い方で)を達成した。けれども、1974年から1981年の時期を例外にして、コソボ人の社会はセルビアから政治的にも文化的に常にすさまじい圧力を受けていた。その結果、内に引きこもり、閉鎖的で伝統的なままであった。 
 
 コソボ・アルバニア人はスターリン主義のアルバニアで何が起きているのかほとんど知らなかった。それは彼らの夢、希望、あこがれの国であった。現実には、そうした夢の場所はなかった。彼らは無邪気にも、彼らの運命は母国のそれよりずっと悪いと見なしていた。1990年代後半、エンベル・ホッジャのもとでの同胞よりも、セルビアのもとでの自分たちのほうがずっと良い暮らしをしていたという事実を受け入れなければならなかった時は、うちのめされた。 
 
 1990年代前半、ティラナの共産政権がゆっくり崩壊していく間やその後の、二つのアルバニア民族の間の数十年の分断の後の初めての接触は、偏見に彩られていた。ティラナに着いた最初のコソボ人の一部は、西欧にいる国外移住者出身の渡り者で、そこで手っ取り早く金儲けをしようとした。彼らは自由市場経済を持ち込むとともに、汚職と犯罪も持ち込んだ。 
 
 地元のアルバニア人は、新しい資本主義のやり方に衝撃と敵意で対応し、やってきた人々を外国人と見なした。実際、1990年代前半に、コソボ・アルバニア人はティラナでよりベオグラードで歓迎されたと言っても過言ではない。西欧に生まれたアルバニア人移住者の多くのコミュニティも、はっきりと分断したままであった。アルバニアからのアルバニア人とコソボからのアルバニア人は公的、私的に交わることはなかった。そして、ほとんどの場合、潜在した、あるいは公然とした敵意でもって相対した。1990年代には、確かにアルバニア人のアイデンティティはひとつではなく、二つであった。 
 
 転機が訪れたのは、1999年3月から6月のNATOとソロボダン・ミロセビッチのベオグラード政権の間のコソボの支配をめぐる戦争が始まってからであった。その時、セルビア民兵によって追い出された(多くの場合、燃える家から)約80万人のコソボ人のうち、約50万人が隣のアルバニアに避難した。 
 
 アルバニアはまだ非常に貧しく、立ち遅れ、人々は過度に「難民」を受け入れようとはしなかったが、彼らはコソボ人を精一杯受け入れた。アルバニア人が互いに知り合うようになったのは1999年のこの3ヶ月であり、言語、文化的に大きな誤解があるにもかかわらず、彼らはひとつの民族(nation)であると自覚し始めた。その時以来、国境が開かれ、アルバニア人は共に育っている。文化的、政治的、経済的、個人的な接触はアルバニア民族の歴史ではかつて見られなかったほど盛んになった。 
 
 アルバニアの歴史の曲がりくねった経過は、はっきりと異なる二つのアイデンティティを強固なものにし、それはしばらくの間、疑いなく存在し続けるであろう。だが、彼らが好むと好まざるとをかかわらず、彼らは一緒に成長していくであろう。コソボの政治的独立はアルバニア人に、彼らが乗り越えてきた歴史を踏まえて、自身の自己認識を獲得する機会を与えるであろう。 
 
*ロバート・エルシー(Robert Elsie) アルバニア文学の研究者。1950年、カナダ・バンクーバー生まれ。ブリティッシュ・コロンビア大学卒。ベルリン自由大学、パリ大学、ボン大学などで研究を続ける。1982年から1987年にドイツ外務省に勤務。以後、アルバニア語とドイツ語の通訳。アルバニア文化に関する著作多数。ドイツ在住。 
 
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 原文 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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