2008年04月06日13時58分掲載
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チベット問題
汎チベット民族主義の時代の到来 ジョージ・フィッツハーバート
【openDemocracy特約】最近のチベットでの騒乱の報道に関して、西側メディアが明らかに反中国に偏向していることに中国の市民が不満を持っていることは理解できることだ。2008年3月14日のラサでの暴動では数人の罪のない中国人が死亡し、多くの財産と仕事を破壊した。しかし、中国市民は抗議活動の原因となったものに目をつぶるべきではない。
中国国内で混乱が起きるといつも、政府の反応は常に本能的に、責任を「中国の内政に干渉する」外部の反中国の勢力のせいにする。だが、チベット高原全土で起きている現在の暴動と抗議デモの波について、ダライ・ラマが直接的な役割を演じていないことは明らかである。むしろ、チベット人のダライ・ラマの帰国を求める強い願いを、中国政府が拒否していることが現在の騒乱の根本原因である。
歴史的瞬間
この抗議活動が、このように激しく、民族的に敵対する様相を帯びるようになったのは、急速な経済発展をしているチベット高原の多くの部分で、チベット人が先祖代々の祖国で、急速にかつ不本意に少数派になっているためである。同じような形で、中国内蒙古の「自治区」でモンゴル人がすでに、ごくわずかな少数派になっている。中国人の移住者が数で上回るようになれば、チベット人の民族主義は必然的に見込みのない時代錯誤的なものになり、チベット人は中国が彼らに与えた地位、つまり祖国中国の「大家族」の不可分の一員としての地位を受け入れざるをえなくなるであろう、ということを中央政府は十分承知している。
チベット人自身も、彼らの土地への移住者の流入と中国の経済的企業体の設立が、彼らの文化を続けていくうえでの最大の脅威となっていることに敏感に気づいており、そうしたものが抗議活動の主要な標的になった。物質的な生活水準が上がったにもかかわらず、高原全土のチベット人は植民地的に権利が奪われていると感じており、伝統的文化では、生活に価値と意味を吹き込んでいた、かつて神聖で生き生きとしていた環境が変わってしまったと感じている。
自然発生的な抗議行動が、ラサからアムドとカム(四川省、甘粛省、青海省)の境界地域にいたるまでのチベット高原全土で起きたという事実は、汎チベット民族主義の時代の到来が遅ればせながらやってきたということを示している。過去においては、チベット文化世界全体を示すのにはカワチェン・ジ・ユル(「雪の国」)という言葉を除いて、チベットに名前はなかった。
「チベット」という名前が由来するチベットの名前、Bod(p�と発音する)は、ウとツァンの中央チベット地域だけをさし、チベットの文化言語地域である、人口の多いカムとアムドは除かれていた。カムとアムドの統治は緩んでいて、伝統的に多くの独立、半独立の小国の間で分割されていた、それらは連合的な僧院生活の制度を通じて、中央チベットといくらか文化的、社会的に結合されていた。
実際、汎チベットのアイデンティティの感覚を無意識のうちに促進させたのは中国共産政権の到来であった。それは、漢族と回族(イスラム教徒)の中国人という形の「他者」との出会いと、中国共産党の民族政策の実施への反応であった。その民族政策はソ連のモデルに基づいたもので、すべての地域のチベット人は、ひとつのチベット民族として分類されている。それはまったく正しい分類であった(今日では、nationality民族は中国政府の文書では、ethnic group「族群」と訳されていることが多い)。
その結果、四川省の地域の約50%、青海省の80%以上、甘粛省のかなりの部分が、いわゆるチベット自治州、自治県として組織されている。2008年3月中旬以来、抗議行動と暴動が起きているのは、こうした地域である。
極東アムドでのチベット人がチベット国旗を掲揚している光景(カナダのテレビが撮影した)は、チベット人の民族意識の進化において歴史的な瞬間である。なぜなら、チベット「国」旗は実際にはダライ・ラマ13世(1895−1933)の治世の時に当時のできたばかりのチベット軍の軍旗として導入されたものであったからだ。その軍隊はチベット世界のこうした遠い部分に支配を及ぼすことはなかった。事実、中央チベット政府の軍隊は、19世紀後半と20世紀前半において、東チベットではかなりの疑いと反感で見られていた。チベット人はいまや、大チベットという概念を受け入れる準備ができているようだ。7世紀と9世紀の間のチベット帝国(訳注1)の期間以来、政治的表現として大チベットという概念はなかった。
政治的見通し
けれども、中国内でチベット地域の政治的統一を求めることは、中国国家にはきわめて脅威である。チベット地域のそうした行政的統一を求めた初期の者は、カム出身のチベット人共産主義者、ババ・プンツォク・ワンギェル(訳注2)であった。彼は1951年のチベットの中国編入に力を尽くした。旧政権のもとで扇動したため、チベットから追放されたババ・プンツォク・ワンギェルは1950年から1951年にかけて、人民解放軍をチベットに導いた。彼は捕獲されたチベット軍のアボ・アワン・ジグメ司令官(訳注3)を取り込むうえで重要な役割をはたした。アボ・アワン・ジグメは後に、チベットにおける中国支配を正当化する最も名高いチベット人となった。
彼は当時、中国政府と北京で1951年に17ヶ条協定に調印したチベットの代表団との間の重要な仲介者であった。その協定は今では都合よく忘れ去られているが、チベットのために1国2制度を銘記したものであった。彼はまた、ダライ・ラマが1954年から1955年にかけて中国を6ヶ月間、旅行した時に主任通訳を務めた。当時、若きダライ・ラマは毛沢東と中国の共産主義者に非常に感銘を受けて、中国共産党に入党を求めたほどであった。
けれども、こうした重要な出来事と共産中国への編入に彼がはたした歴史的な役割にもかかわらず、ババ・プンツォク・ワンギェルの破滅のもとになったのは、中国内のチベットの言語的、文化的地域の統一という彼の願望であった。1958年に彼は逮捕され、「地方民族主義」の罪で訴追され、18年間、独房に入れられた(ネルソン・マンデラよりも長い)。
現在のチベットの抗議活動は、軍事支配を一時的に敷くこと、チベットの宗教に対する支配を強めること、チベット高原の中国化をさらに強めることしかもたらさないであろう。けれども、チベット人の間の敵意と一触即発の不満はおさまることはないであろう。チベットにおける現在の騒乱を、いわゆる「ダライ集団」のせいにすることによって、中国政府にとって、チベット人の不満と政治的疎外感が続くことは確実である。
チベット文化の世界全土で、亡命している精神指導者とかかわりを持ちたくないと思っているチベット人は、ほとんどいないからだ。中国側に政治的な意欲があるならば、チベット問題は解決しうる。だが、ダライ・ラマを悪魔化し、チベット人の願望に一歩も妥協しないでいるなら、中国は中国西部のこの広大な地域での厄介な民族関係を必ず悪化させるであろう。
*ジョージ・フィッツハーバート オックスフォード大学のチベット研究学者
訳注1 吐蕃(中国名)のこと
訳注2 Bapa Phuntso Wangye 同氏の伝記である阿部治平著「もうひとつのチベット現代史」では、プンツォク・ワンギェル、「ダライ・ラマ自伝」(山際素男訳)ではブンツォ・ワンギャルと表記されている。通称ブンワン。
訳注3 Ngapo Ngawang Jigme 当時カム省長 「もうひとつのチベット現代史」ではガボ・アワンジグメ、「ダライ・ラマ自伝」翻訳ではアボ・アワン・ジグメと表記されている。
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 .
原文
(翻訳 鳥居英晴)
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