2008年05月29日09時20分掲載
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経済
食・農・グロ−バリゼ−ションと対抗経済 近藤康男
私たちの食卓が、食が安定の面でも安全の面でも大きく揺らいでいる。食糧危機が世界を襲い、飢餓と貧困を拡大、農薬混入のギョーザ、牛肉のBSE(牛海綿状脳症)と次々起こる問題に人びとは振り回される。この事態を私たちはどうとらえ、どう考えればよいのか。穀物交易に長く従事し、さらにフェアトレード(民衆交易)の現場で、具体的な経済事業を通してアジアの人々をつなぐ活動に携わっている近藤康男さんに食をめぐる状況とそれへの対抗経済のあり方について寄稿してもらった。(ベリタ編集部)
◆冷凍餃子問題−食の本質は既に忘れられ、刷り込まれた排外主義だけが残るのでは?
食と言えば冷凍餃子、冷凍餃子と言えば中国であったのはつい最近のことであるが、その問題は何ら解決されないまま、既に新聞紙上、人々の話題に上ることも無くなっている。食料価格の異常な高騰とも相まって、“国産”、“自給”という言葉も散見されるが、残念ながら本質に迫る議論が不充分な中、多分“国産”、“自給”と言う言葉もまもなく姿を消すに違いない。牛肉のBSE然り、93年の米不足の時然り、更に遡れば70年代初頭の食糧危機然り、であった。
しかし、しっかりと中国という言葉の刷り込みに煽られた排外主義だけが多くの日本人の意識に、ひっそりとではあろうが、残されることとなるのではないだろうか?余りにも繰返される“中国だから…”(あり得るだろう)、“中国は…”(怪しからん)、と言うマスコミの大合唱は、チベット・聖火問題も加わって、不安な時代状況において陥りやすい安易な排外主義的空気を既に生んでいる。
不幸なことに輸入の食が問題となる度に“食料安全保障”という言葉が使われ、所謂発展途上国の国々の農産物が、発展途上国故に危険とされ、その後意識しないまま輸入品の消費に戻りつつも意識には産地である国々をあなどる気持ちが刷り込まれるという排外主義を再生産することになっている。93年に輸入されたタイ米や中国米はまるで上等な?日本人がクチに入れるに価しないものであるかのような言も飛び出したものである。そして互いに同じ立場であるはずの日本の農民や農業団体も、タイ・中国産米も彼の地の農民の汗の結晶であり、輸出による利益は流通段階に吸い込まれ農民にはさほど届かないことに想いを馳せることなく、“一粒たりとも日本には入れない”と叫ぶばかりではなかっただろうか?自らの農のあり方を見直すこと、消費者に語りかけることをどこまでしただろうか?
◆消費者、農業者は、冷凍餃子問題をどこまで教訓にできるか?
冷凍餃子問題の当事者である、日本生協連は、6月の総会を待たずに「コ−プ商品の品質保証体系再構築に向けた当面の対策」をまとめている。「1.輸入食品対策」から始まる8つの対策分野20項目の具体的項目からなる当面の対策の主要部分は組合員に向けた事後の危機対応を別にすれば、産地の管理強化、検査項目の拡充、検査体制(=人員)の強化が中心となっている。全て、やったほうが良いことである。しかし、その見える姿は、益々強まる生産者に対する厳しい締め付け、膨大な管理作業、膨らむコストなどを超えるものに出来るだろうか?
作る人と食べる人の関係が心理的にも物理的にも離れる中では、食に関する危険要素は当然に増加せざるを得ない。ある意味で消費者は危険を覚悟すべきなのである。危険は管理を強化するだけでは防ぐことは不可能である。その仕組みを担保するのは、食べ物の作られ方を充分に生産者との間で共有し、信頼関係を常に醸成することであるが、当面の対策では触れられていないようである。消費者組合員からの信頼を裏打ちする最も重要な要素は生産者との信頼関係であるはずである。また、日本生協連はイオンやセブン・アンド・アイのプライベ−トブランドを意識して普段に輸入、コスト低減に傾斜して来ていることもあるのか、生活協同組合としての購買のあり方、見直しにつながる表現はどこにも見られない。
さて、消費者、生産者はやっぱり中国は…、だから国産なら…、と言って済ますことが出来るだろうか?有機農業や、地域再生の鍵としての多面的機能を持つ持続可能な農業が表舞台に登場してきているのは事実であるがまだまだそれは小さな流れである。
農薬や化学肥料の問題が広く認識され始めたのは60年代から70年代であった。その後90年代から最近まで続く食の安全の問題は主として偽装問題・表示違反であった。直接的な安全の問題は最近では2001年の牛肉のBSEであったと記憶している。肉牛用の餌原料としての肉骨粉使用の禁止と混入防止策、全頭検査と生産流通履歴の追跡などの対策が採られ、消費者重視の食品・農業政策への転換が強調されるようになった。BSEの最大の被害者、コストのしわ寄せを受けたのは実は農家であったにも関わらず、そのことは忘れられていた。農家・農業団体も、BSEが各国で問題になっている中で、自らの畜産の有り方を見直す作業はしないまま今日に至っている。
欲しい時にはいつでも手頃な価格で簡単に食べ物が手に入ることを当たり前とし、また農家も流通側に押されてそのことに必死で応える状況が続いてきている。BSEはその一因とされる肉骨粉多給などの技術に頼り、消費の要求に応えようとする畜産の有り様の結果であったはずである。冷凍餃子の事故は“故意の混入”の可能性が強いという点では異なるが、食と農が見直されないままであるという点ではBSEとも同根である。
◆最近の食料(穀物)の暴騰は異常である!?しかし、その異常であることはまた通常である。
最近食料、特に穀物の暴騰が、食料問題として経済誌で何度も特集されている。エコノミスト、東洋経済、そしてとうとう、世界、週刊金曜日が特集記事を組むまでになった。少し気になっているのは“異常”という言葉の使われ方と、(例外はあるが)価格推移が概ね2000年以降を中心に“暴騰、高騰”として扱われていることである。
専門家・研究者でもない故、超長期の俯瞰までは出来ないが、せめて第2次世界大戦後のスパンでは見たいと思う。主として供給要因による70年代の危機、新興国とバイオを中心に主として需要要因による21世紀初頭の危機、共通項として原油高騰と時を同じくしている点、として概ね語られているが、更にいくつか論点を加えたい。
第2次世界大戦後の冷戦期、平和共存期、冷戦崩壊・グロ−バリゼ−ションと、その都度“異常”潜り抜けつつ、時代が転換してきた。
一つは、価格推移の捉え方で、2000年以降の急騰を語ることで、異常な高騰、そしてこの状況が継続しそうなモノとして語られている点である。異常であるが、しかし、異常な市場価格が起きること自体は市場経済にとって歴史的にも極通常であり、市場経済の魔物をどう捕らえるかという論点が必要ではないだろうか?
70年代以前はアメリカにとって余剰農産物問題が意識されていた時代、例えばとうもろこしのシカゴ先物相場は概ね1ブッシェル当り120〜130セント、大豆は1ブッシェル当り250前後で推移していた。それが72年、73年、一気に400セント(とうもろこし)、12ドル台(大豆)という“異常”な相場圏に達し、その後はとうもろこしで140セント、大豆で400セントを下回ることはなく、余剰農産物時代の相場は過去のものとなった。時代は変わってしまったのだ。
しかし、一方向で価格が上昇する“異常”も続かず、90年代末〜最近までは80年初頭の第2次石油ショック・大豆の対ソ連禁輸を経過しつつもほぼ循環的に上下する時代が継続していた。
そして今回である。今回も原油価格との裁定(バランスあるいは調整と言っても良い)が少しずつ働くはずである。従って異常な価格は一本調子で続くものではなく、しかし、以前の世界には戻らない、ということである。最近の価格推移だけ見ているとこのことを見落とし勝ちである。異常は通常であり、しかし後戻りのない時代の転換をもたらす市場経済の構造変化の魔物を捉えることである。
◆穀物価格の背景にある戦略・政策とその影響
もう一つは、政策あるいは戦略が食料価格の動きにも強く関わっていると言うことである。平和共存以前の冷戦期は共産圏に対する輸出規制という政策ゆえに日本・ヨ−ロッパの戦後農業復興が進む中で穀物相場の低迷が続いていた。その梃入れとして平和共存下で徐々に輸出規制が緩和され(64年対ソ連小麦売却法)、かつ余剰農産物解消のための輸出補助政策が強化され(54年農業法に基づくPL480 )、そこに生産要因が加わって70年代初頭の異常な世界が現出したと言えるだろう。そして今回、新興国の需要とバイオエタノ−ルという需要要因の爆発。
しかし、アメリカは80年代からバイオエタノ−ル生産助成をエネルギ−政策・農業政策として力を入れ始めており、食品コングロマリットの一つADM社はなかなか利益拡大につながらない中で着々と設備拡大を進めてきたのである。そして原油高騰下でのブッシュ政権によるバイオエタノ−ル政策の積極的強化を迎えての異常相場なのである。
◆食料品価格の異常な高騰も、政策の圧力に晒され、市場経済に振り回される結果
もう一点は、私自身素人故に把握できていない点だが、多分今回が70年代初頭と異なるのは投機資金といわれる要素である。しかし投機資金が利益を求めて徘徊するものである限り、また戻ることがあるとしても、いつまでも相場を押し上げ続けることはないはずである。これは投機が良い悪いという問題よりは、通貨制度による増幅された問題として認識すべきという気がしている。
71年ニクソンショックと言われた金とドルの交換が終わり本格的な変動相場制となったこと、そして輸出入などの実態経済の通貨需要から離れて通貨そのものを商品として取引が出来るよう実需原則が徐々に撤廃(日本では84年)されてきたことと市場経済との関連として分析されるべきと感じている。
ただ、新たな不安定要因としての、多分後戻りの出来ない環境問題という制約、上述した実体経済と乖離した通貨、そしてあり得るものとしてのドルの基軸通貨としての表舞台からの退場は、市場経済では当たり前のこととしての今の“異常”の次に来る世界がどのような世界となるかを不透明なものにしていることは確かである。
しかし、我々は戦略・政策という圧力を受け、市場経済に振り回されるという中で食糧問題に直面しているのであり、自然的な需要や供給の結果ではないと認識すべきだろう。
そして、今までも、これからも、グロ−バリゼ−ションのもたらす食料の高騰、不足は最も貧しい人々を更に苦しめ、また食料を生産する農民の財布を豊かにするものでないことを見ておくべきである。グロ−バリゼ−ションとの関連において、いのちを育む食を必要とする生活者、その食が依拠する農の現場の人々をつなぐオルタ−ナティブが求められている。
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