2008年06月19日11時16分掲載
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G8
宗教者の「環境・平和」提言 洞爺湖G8サミットに向けて 安原和雄
宗教者達は地球環境問題や平和にどう対応しようとしているのか。世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace)日本委員会(庭野日鑛理事長)という宗教団体のメンバーが7月開かれる北海道・洞爺湖G8サミット(先進8カ国首脳会議)に向けて提言を行っている。
「環境」では科学・技術、経済よりも精神文化の重要性を、「平和」では核兵器廃絶と軍事費削減こそ緊急の課題だと強調している。サミットに集う先進国首脳達の思考とは異質の環境・平和論となっている。
WCRPは仏教、神道、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教など世界の諸宗教をメンバーとしている。第1回世界大会(1970年)は「非武装・開発・人権」をテーマに京都で、さらに最近の第8回世界大会(2006年)は「あらゆる暴力を乗り超え、共にすべてのいのちを守るために」をテーマにやはり京都で開かれた。
そのWCRP日本委員会発行の『WCRP』(月刊)は08年1月号から「平和をめざして〜G8北海道・洞爺湖サミットに向けて〜」を連載している。その中から以下の2つの提言(要旨)を紹介する。
▽環境問題と宗教者の役割
稲貴夫・神社本庁渉外部長は「洞爺湖サミット ― 環境問題と宗教者の役割」と題して次のように指摘している。(『WCRP』・08年1月31日号から)
元旦(2008年)の新聞各紙は温暖化問題を大きく取り上げた。これらの記事を見て、私の心配は大きくなった。非常に複雑な環境問題がマスメディアによって「温暖化=気候変動」の問題に一元化され、私たちの生活に直結した環境問題が逆に見えなくなっているのではないかと危惧するからである。
そもそも温暖化予測は、コンピューター・シミュレーションによるもので、その手法の科学的整合性には様々な問題点が指摘されているが、そこには宗教者にとって根源的な問題が内在していると思う。
環境問題は人間と自然との関係の問題であり、その基層には私たちの人間観、自然観がある。そう考えると、コンピューター・シミュレーションに基づく環境問題の認識には、少なからぬ違和感を覚える。
50年先、100年先の予測に基づく「温暖化の危機」は、生命の営みとしての環境を考え、自然と人間の関係を問い直してゆくための行動理念たり得るだろうか。それは「エコ商品」の販売促進のためのキャッチコピー(というより脅し文句?)としては役立つだろうが、宗教者には、人間の生き方としての理念が求められているはずだ。
今日の地球温暖化をめぐる動きは、未来の地球環境(気候)も科学・技術によって予知し管理することが可能だという前提で成り立つものである。しかし果たして科学・技術はそこまで万能だろうか。
少なくとも宗教者としては、環境問題を精神文化の課題として受け止めてゆく姿勢が必要ではないかと感じている。
そう思いめぐらすと、「自然を慈しみ感謝する心」や「物を大切にする心」という、日本人が理想としてきた謙虚な姿勢と心のあり方にたどりつく。それは古い価値観といえるものだが、現代人がそれを忘れてしまったことに、本質的な問題があるのではないか。
環境問題の対応には、資源エネルギーの枯渇や食糧問題、貧困と格差、野生動植物の保護など、現在進行形の諸問題を広く学びながら、それを人間の生き方の問題として受け止め、生活実践として具現化してゆくことが何よりも大切であり、そこにこそ宗教者の役割があると考えている。
〈安原のコメント〉― 「自然を慈しみ感謝する心」を育むとき
地球環境問題の中心テーマとして昨今浮かび上がってきているのが温暖化問題である。
7月の洞爺湖G8サミットを控えて、喧騒に近い響きさえ奏でている。温暖化問題を解決できるかどうか、その成否は地球そのもの、さらに人類を含む多様ないのちの命運にかかわっているといっても過言ではない。
そういう認識自体は間違いないとしても、その対応のあり方として科学・技術万能主義が頭をもたげてきている。その典型が技術革新によるCO2(二酸化炭素)の排出削減にこだわる経済界主流の考え方である。しかも安全性に深刻な懸念があるにもかかわらず、CO2を排出しないことを理由に原子力発電への依存度を強めようとしている。一方、市場メカニズムを利用する排出量取引も先発組のEU(欧州連合)にならって08年秋から日本も「試行」したいと福田首相は記者会見(08年6月9日)で言明した。
このような技術革新、原発さらに市場メカニズムの活用という企業の算盤勘定を前提にした従来型の手法で、果たして現下最大の地球環境問題を根本的に打開できるのか、と改めて問い直してみると、たしかに違和感を感じないわけにはいかない。
宗教者の立場からすれば、科学技術や経済よりも人間の生き方、すなわち精神文化こそ重要である。その柱の一つが「自然を慈しみ感謝する心」である。さらに「物を大切にする心」という日本人の古くからの価値観の再生にほかならない。いいかえれば欲望をほしいままにして、地球を汚染と破壊に追い込んだ従来型の貪欲路線上での技術革新や市場メカニズムの利用は万能ではなく、限界があることを認識する必要があるだろう。
▽核兵器より解放された世界を目指して
鈴木克治・WCRP日本委員会渉外部長は「核兵器より解放された世界を目指して」と題して以下のように論じている。(『WCRP』・08年2月20日号から)
*具体的提案に向けて
1.国際社会における核軍縮の提唱を真に説得力あるものにし、結果として核兵器の不拡散を期するために、2006年10月の北朝鮮による核実験に対してWCRP日本委員会が表明した「例外なき核兵器の廃絶を実現するため、すべての核兵器保有国が核不拡散条約(NPT)の中で誓約した核兵器の軍縮及び廃絶に向けて誠実に取り組むこと」を要請する。
2.広島市、長崎市が推進する世界市長会議は2020年までに、世界中の核兵器を廃絶すべく「2020ビジョン」を進めている。そのためには、2010年のNPT再検討会議が「核兵器禁止条約」を採択することが絶対の前提条件である。私たち宗教者は、G8指導者に強く要請する。
3.現在、世界には約2万6000発の核弾頭が存在している。そのうち約1万発を保有しているアメリカ政府は、2030年までにアメリカ保有の核弾頭を更新する計画「コンプレックス2030」を議会に提案している。この計画が実施段階に入れば、核兵器生産能力を一気に高め、新たな核兵器の生産を無制限に許すことにもなり、まさに核不拡散条約、世界の核兵器廃絶への流れに逆行することになる。同計画を放棄するようアメリカ政府首脳に強く要請する。
4.この地上で、飢え、蔓延する感染症、貧困、抑圧、テロの暴力の恐怖に苦しむ人が一人でもいる限り真の平和はありえない。莫大な軍事費をこのような人間安全保障(人間としての基本的ニーズ)のための資源に転換していくことを強く要請する。
*目指される方向性
原爆の犠牲となった広島、長崎の20数万の犠牲者は、いのちの尊厳と核兵器は決して両立しえないことを証した。原爆被爆後、筆舌に尽くしがたい苦難の中、伝えられてきた「二度とこのあやまちはくりかえしません」との核兵器廃絶への願いと祈りを真摯に受け止めるようG8首脳に強くアピールする。
WCRPとしては、すべてのいのちを尊ぶ宗教者の立場から、WCRP創設以来積み上げてきた核軍縮への取り組みの基礎の上に、今こそ不拡散を超えて、核兵器そのものの廃絶の声を明確に提案したい。
〈安原のコメント〉― 核兵器廃絶と軍事費削減こそが緊急の課題
最近のメディアの多くは「核廃絶」を無視し、「核不拡散」の大合唱を繰り返している。核拡散、つまり北朝鮮、イランなどが核兵器をもつことがいかに危険であるかに焦点を合わせた論調が多すぎる。もちろん核拡散を歓迎するわけにはいかない。それは自明のことである。しかしそのためにも核保有大国(米露英仏中)の核軍縮、核廃棄こそが緊急の課題であり、核不拡散の重要なカギを握っている。
現在、世界には約2万6000発の核弾頭が存在、そのうち約1万発をアメリカが保有している。そのアメリカ政府は、2030年までにアメリカ保有の核弾頭を更新する計画「コンプレックス2030」を議会に提案している。貪欲に核兵器に執着する核大国・アメリカの素顔を十分認識する必要があるだろう。
第二次大戦末期(1945年8月)に広島、長崎に原爆を投下したのもアメリカである。当時、私(安原)は広島県生まれの小学5年生であった。間もなくケロイド症状の原爆被爆者と出会ったことを記憶している。それ以来「核兵器と平和」というテーマが私の心から消えたことはない。「宗教家は核廃絶」、一方「メディアは核不拡散」 ― という引き裂かれた状況は悲しすぎる。メディアは、アメリカを筆頭とする核大国に免罪符を与えるようなお人好し(?)のレベルから抜け出て、核廃絶を求める共同歩調に参加するときであろう。
もう一つ、鈴木克治氏が指摘している「莫大な軍事費を人間安全保障(人間としての基本的ニーズ)のための資源に転換していくこと」という視点も重要である。世界全体の年間軍事費は1兆ドル超(110兆円超)で、その大半をアメリカ一国が占めている。軍事力の保有自体が巨大な浪費であり、しかも軍事力行使は地球環境にも甚大な負の影響を与える、つまり環境保全と軍事費削減は表裏一体の関係にあることに着目すべきである。
地球環境問題に真摯に取り組むのであれば、軍事費削減も7月の洞爺湖サミットの主要議題となるべきであろう。軍事費を削減し、浮いた資金を世界の医療、教育、福祉、貧困対策、つまり「人間としての基本的ニーズ」に回せば、どれほど住みよい地球となることか。その期待に反してG8サミットが地球と人類と多様ないのちに貢献することを怠るようでは、サミットの存在価値はない。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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