2008年06月25日10時07分掲載
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故・土本典昭監督の「水俣」への思いを継ぎたい 小さなドキュメンタリーを準備
「水俣−患者さんとその世界」(*1)などたくさんのドキュメンタリー映画を撮った土本典昭(つちもと・のりあき)監督が24日、亡くなった。79歳。ちょうど水俣での新たな産業廃棄物処理場計画が中止になった翌日である。やるべきことをやって亡くなった、力の限り生きた土本さんを見せつけられる思いである。私はいま、もちろん土本監督には及びもつかないが、水俣に関する小さなドキュメンタリー映画と撮ることで、監督の遺志を継ぎたいと思っている。(加藤〈karibu〉宣子)
私が1996年、水俣病公式確認から40の年に相思社の職員だったとき、土本さんは患者さんの遺影を集めていらっしゃった。当時、職員として近くにはいたのだが、土本監督のいくつもの映画を見て、とても私に近づける人ではないと思っていた。水俣病50年の2006年アースディ東京やその他のイベントで、土本監督の映像を使うことになり、ご本人と話すこととなった。 当時すでに、自由にしゃべることがかなわず、お連れ合いの基子さんを通じての会話やメールのやりとりだったが、こちらは緊張することこの上ない。
その後のある集会で、「水俣一揆─一生を問う人びと」(*2)の中の、患者さんがチッソの社長に啖呵を切る一部分を使いたい旨伝えると、「見るなら全部きちんと見てほしい」と断られた。記録映画として、一部分では伝わらない、40年水俣に関わり続けた土本監督の強い思いに「すみません」というほかなかった。今はそれが私にとっての土本監督である。
水俣の話をしてほしいと頼まれるときもあるが、その時には「水俣病−その20年」(*3)をいつも使う。子どもたちなど水俣病を知らない人に話をするのに、うまく編集された映像である。
そして私は「小さな水俣の会」の共同代表をしているが、なぜ「小さな」なのかといえば、土本監督や宇井純先生など、「大きな水俣」の人々がたくさんいるからだ。そして今、「支援者たちの水俣」というこれまた小さなドキュメンタリーを撮ろうとしている。
最初から土本監督をこえられるわけはないし、完成も見えないが、土本監督とは別の小さな映画を作ろうとしている。そこには土本監督の映画をくり返し何度も見た、土本監督の遺伝子というものが、少しは入っているように思う。
最近になって、全学連の副委員長であったことや水俣以外の映画、特にアフガニスタンを描いた「よみがえれカレーズ」や「原発切抜帳」などを知った。見るチャンスがなかなかないが、土本監督が残したもの、それはとてつもなく大きい。お礼とともに、ご冥福を祈ります。
*1・「水俣─患者さんとその世界」167分、1971年、第1回モントリオール世界環境映画祭グランプリ
*2・「水俣一揆─一生を問う人びと」108分、1973年
*3・「水俣病─その20年」1976年
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