2008年07月16日16時57分掲載
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ブラジル農業にかけた一日本人の戦い
<9>窮状訴え日本への陳情の旅 和田秀子(フリーライター)
■ 日本に飛んで帰ってみたものの…
コチア産業組合の手により、今まさに売却されようとしているバヘイラスの「戦後移住者団地」。その土地を自らの手で買い戻すべく、横田さんは入植者を代表し、1991年に自費で日本に向かった。「戦後移住者団地」を買い戻すために必要な額は、土地代や農業機材をひっくるめて約240万ドル。日本円にしておよそ2億5千万という大金だ。
まずは、農林水産大臣をはじめ、当時、ブラジルとつながりの深かった国会議員たちを訪れては、窮状を訴えた。皆、同情を示してくれるものの、いざ融資となると、なかなかスムーズに話は進まなかった。さらに、当時「日伯セラード農業開発協力事業」を推し進めていたJICA(国際協力機構)にも出向き、融資の打診をおこなった。しかしこちらも、色よい返事はもらえなかった。
■ 元首相、田中角栄の思惑とは裏腹に…
不毛の大地セラードを“世界の食料庫”とするために、第一線で開発を進めてきたのは、まちがいなくコチア青年たちだ。なのに、なぜ彼らに、日本政府からの救いの手は差し伸べられなかったのだろうか―。
コチア産業組合の財政状況が、あまりにも悪すぎたことと、「あくまでもブラジル政府に経済協力をしているのであって、組合単独に融資はできない」というのが、その理由であったようだ。
しかし、日本政府が総額600億円もの開発資金をつぎ込んでいた「日伯セラード農業開発協力事業」そのものは、この時点でもストップすることなく続けられていたわけで、コチア産業組合という受け皿が機能しなくなった以上、その資金の大半は日系農家ではなく、オランダ系やドイツ系の農家に流れていたという。
もちろん、「日伯セラード農業開発協力事業」は、日系農家を支援するためのプロジェクトではなく、日本とブラジルのナショナルプロジェクトであったわけだから、日系農家以外に開発資金が流れたからといって、それが問題なのではない。
しかし、このナショナルプロジェクトは、「日本に安定して食物を供給したい」という田中角栄元首相の発案からはじめられたことを考えると、第一線でセラード開発に携わっていた日系人に、充分な開発資金が届いていなかったことは、なんとも皮肉な話であろう。
■12家族だけは助けたい
話を戻すが、横田さんはそれでもあきらめずに、企業や友人・知人に協力を求めていた。しかし運の悪いことに、時は1991年。日本ではバブルが崩壊したばかりで、どの企業も個人も、負債整理やリストラに追われていた時代であったため、遠く離れたブラジルの日系人を、手助けする余裕などあろうはずがなかった。
しかし、それでも融資先を求めて走り回っていた横田さんに、ある実業家が声をかけてくれた。
「横田さん、240万ドル(2億5千万)は無理だけど、少しなら融資できるかもしれない。」
横田さんは考えた。この時点で開発団地に残っていたのは、入植当時の約3分の1にあたる12家族。他州に土地を持っていた者は、すでにこの時点で開拓団地に見切りをつけ、引き上げていたからだ。残っている12家族は、すべての財産を開拓団地につぎ込み、家族ぐるみで入植していた者たちばかりだったので、ここを失えば他に行くところはない。
「せめてこの12家族だけでも助けたい。5,000万円融資してもらえないでしょうか…」
横田さんは、融資を申し出てくれた実業家にそう告げた。1家族あたりの開拓面積は400ヘクタールだったため、12家族分で4,800ヘクタールになる。1ヘクタールあたりの売却金額が約100ドルであるから、12家族を助けるためには、日本円で約5,000万円の資金が必要だった。
「わかりました。それなら、なんとかなります」
実業家はそういって、その場で5,000万円を用意してくれたという。
「助かった。これで12家族だけは救うことができる…」
横田さんは、その金を抱えて、すぐにバヘイラスの開拓団地へと戻った。しかし、本当の地獄は、これからだったのだ。
(つづく)
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