2008年07月30日20時22分掲載  無料記事
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ブラジル農業にかけた一日本人の戦い

<11>世界的な農業転換の波に飲まれて 和田秀子(フリーライター)

■ブラジルの法律をも改正させたアメリカ 
 
 前回は、1990年代初頭のブラジルにおいて、米資本である穀物メジャーが力を増していったことを述べた。横田さんらが所属していた「コチア産業組合」の崩壊を待ちわびていたかのように、穀物メジャーは勢力を拡大し、ブラジル国内の穀物をすべて牛耳っていったのだ。 
 
 しかし、アメリカの国家戦略はここからが本番だった。横田さんは、周到に仕組まれたアメリカの長期戦略を、こう推測する。 
 「ブラジルの法律では、2002年まで『外国人は25ヘクタール以上の土地を所有してはならない』と定められていました。しかしアメリカは、ブラジルの連邦議員に莫大な賄賂を渡し、いままでの10倍にあたる“250ヘクタール”まで土地を所有しても良い、という法律に改正させたんです。もちろん、ブラジルに大規模の土地を購入し、そこで穀物を作るためです。賄賂のことは公にされていませんが、ブラジルではよくあることですよ」 
 
 賄賂うんぬんのくだりは、あくまでも推測にすぎないが、あながちこの推測が間違いではないと思わせる記事が、2002年6月23日付けのブラジル国内紙「フォリャ・デ・サンパウロ紙」で報じられている。 
 この記事によるとアメリカ政府は、ブラジルで外国人の土地所有制限に関する法律が改正された2002年、すぐさま自国内の穀物生産農家に約1,045億ドルの農業融資を開始し、ブラジルでの大豆生産を奨励しはじめたという。 
 
 アメリカは当時、自国内での穀物の生産性低下に頭を悩ませていたため、あらたな食糧基地として広大なブラジルの土地を確保し、穀物の生産から販売まで、すべてを支配しようと考えていたのだ。 
 
■アメリカの大豆生産者がバイア州に続々と入植 
 
 農業融資を得たアメリカの大豆生産者たちが、真っ先に的を絞ってきたのが、土地や人件費が安価であったバイア州だった。言うまでもないが、バイア州は横田さんらの「戦後移住者開拓団地」があった場所である。 
 
 当時、アメリカのアイオア州で1ヘクタールの土地を購入するためには、約6,500ドル必要だった。しかしバイア州では、未開拓値で1ヘクタール163ドル、開拓地でさえ1ヘクタール280ドルという安価で購入できた。つまり、アメリカで1ヘクタール購入する代金で、ブラジルでは40ヘクタールの土地が手に入るということだ。もちろん、人件費が格段に安かったことは言うまでもない。 
 
 これに加えてバイア州は、ブラジルの“ド田舎”であるにもかかわらず、生産物を運び出す道路網ができあがっていたことも、アメリカが着目した要因であった。 
 
 「バイア州の戦後移住者開拓団地と、国道を結ぶ158キロメートルのアスファルト道路は、日本の資金で作られたんです。俺たちが開発をはじめた1986年頃には、道路はもちろん、電気も水道も通っていなかった。『これでは収穫した穀物を運び出すこともできん…』ということで、当時、首相だった中曽根さんに陳情して道路を整備してもらったんですよ」 
 
 このとき整備された道路は、“中曽根街道”と呼ばれていたそうだが、日本人がほとんど残っていない現在では、“アネウ・デ・ソージャ”(大豆街道)と呼ばれているという。 
 
■巨大資本だけが生き残る時代へ 
 
 このように2002年を境に、どんどんアメリカ資本がブラジルに進出しはじめた。もちろん横田さんを含め、わずか4家族だけになった「戦後移住者開拓団地」の仲間たちも、これに負けまいと孤軍奮闘した。 
 
 しかし、すでにコチア産業組合は崩壊していたため、融資をしてくれる先もなければ販売ルートもない。仕方なく、高金利の穀物メジャーから融資を受けては生産し、わずかに収穫した大豆は、国際市場価格の半値で買い叩かれるという憂き目にあった。これについては、すでに前章で記した通りである。 
 
 この時期は、世界的に見ても農業の転換期であった。ブラジルだけでなく、インドやインドネシア、マレーシアといった開発途上国では、“生産性の向上”という大義名分のもとに注ぎ込まれたアメリカの巨大資本によって、それまでは細々と食いつないでいた零細農家たちが、すべて淘汰されてしまったのだ。豊富な資金力を持ち、広大な農地で大量生産できる農家や企業だけが、一人勝ちする時代になっていった。 
 
■残ったのは、たった一家族 
 
 苦労の末、日本の実業家から融資を受け「戦後移住者開拓団地」を買い戻した横田さんらであったが、もはや、こうした時代の流れに逆らうことはできなかった。 
 4家族のうち残ったのは、穀物メジャーからの融資を受けずに生産できた一家族のみ。この一家族がなんとかやってこられたのは、比較的小さな土地であったため植え付け資金が少なくてすんだことと、すでに土地の開発が終わっていたため、余分な開発資金が必要なかったからだという。 
 
 横田さんの場合、未開拓の土地が2,000ヘクタールあまり残っていたため、これを開発していくためには莫大な資金が必要だった。穀物メジャーから借りる高金利の融資では、太刀打ちできるはずもなかった。2004年、ついに横田さんは、バイア州の開発を断念する。 
 
 「最初は頭に来ましたよ。『アメリカの野郎、火事場泥棒のようなことをしやがって!』とね。だけど、これはすべてアメリカの長期的戦略だったんです。それに気づいてからは、怒りを通りこして、むしろ感心しましたね。彼らはちゃんと10〜20年先を読んで“食糧は最強の武器になる”と考えて布石を打っていたんですよ。だからこそ、俺たち日系人が、大量の資金と労力を投資して開発してきた農地を、みごと手中におさめることができたんです…。彼らの思想は『正義は力、力は金なり。金のない者は消え去るのみ』ということです。俺たち日系人とは考え方がまったくちがうわけですから、まともにやりあっちゃ、殺されてしまいますよ」 
 
 しかし横田さんは、バイアの土地開発を断念したからといって、すべてをあきらめてしまったわけではなかった。「我々は我々のやり方で、勝負する方法があるはずだ」と考え、ふたたび協力を得るために、日本へと飛んだ。「光明を見いだせるまでは、決してブラジルに戻らない」と堅く決意しての帰国であった。 
(つづく) 
 
参考文献:「フォリャ・デ・サンパウロ紙」/「ニッケイ新聞」 


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