2008年08月09日16時07分掲載  無料記事
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戦争を知らない世代へ

日中戦争実録 捕虜の扱いに見る日本陸軍のモラル 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)

  私達世代(大正生まれ)は戦前、日本の軍隊は武士道を辨えた正義の軍隊であると教えられていた。然し私が戦場で体験した日本の軍隊には既に正義が無かった。兵士は只、天皇陛下の命令であるから戦う。何故何の為というには問題で無かった。天皇の為であるから、理不尽な殺戮にも罪悪感が無かった。それは日本軍本来の姿ではない。 
 
 日露戦争当時、外国観戦武官の報告に、日本軍の軍紀を賞賛する言葉も見られる。日露戦争が一年余りの短期間で終わったことも軍紀を維持できた理由であったが、捕虜に対しても人道的に扱ったことは、第三軍司令官、乃木大将と降服した敵将ステッセルの水師営停戦合意時の記念写真を見ても明らかである。ステッセルもその部下の幕僚も皆、軍刀を帯びて表情は穏やかである。敵将に対する対応に就いては明治天皇の指示も有ったが乃木大将の敵将に対する配慮は立派である。 
 海軍の東郷司令長官も日本海々戦の後、重傷を負って捕虜となったロシア海軍の司令官を長崎海軍病院に見舞い、明治天皇は見舞いの果物を贈った。第一次世界大戦に際し、中国青島で降服したドイツ軍捕虜は、四国に収容されたが松山では道後温泉を楽しみ丸亀では楽団を組織して日本初のベートーベンの第九を演奏した。当時の日本軍のモラルは世界に恥じないものであった。 
 
 それに反して日中戦争では捕虜収容施設も無く釈放もしていない。南京攻略戦の捕虜、当初発表の十二万人は何処に消えたのか。その後一ヶ月以上続いた城内残敵掃討でも多くの被疑者を逮捕しているが、其の処置も不明である。 
 
 南京占領時、北方より突入した第十六師団長、中島中将の日記に「ある処に捕虜を見る。処置に耐えず。捕虜にはせぬ方針なり」と書かれている。収容もせず釈放もしない。此の方針がその後の戦場の基準になった。私が参加した戦闘でも屡々少数の捕虜が発生したが、皆例外無く処分した。 
 只、准南大通警備隊長、柱松大尉は、住職を勤める僧侶で「無益の殺生は仏の御心にそむく」と言って「二度と兵士になるな故郷に帰って百姓になれ」と言って二、三日で釈放していた。これは私の知る限り唯一の例外である。 
 
 昭和十六年(一九四一年)春の寿県城攻略では、アメリカのキリスト教会付属病院に逃げ込んだ群集の中に紛れた広西軍兵士の捜索に部隊通訳の手不足から、特務工作班員の私も助力を依頼され言語の広西なまりから敵兵を摘出した。此の時の捕虜十三名も二日後の夜、全員処分された。未だ思い出す度、心が重い。 
 
 日本軍における捕虜処分の多くは、兵士の銃剣刺突訓練用標的として、藁人形の代用とされた。復員兵士の多くは此の事実に口をつぐんでいる。 
 
 未だに日中戦争を正義の戦い、止むを得なかった戦争、等と云う日本人が居るが論外である。如何に醜い戦いであったか真実を伝えたい。 
 
 日本軍の捕虜扱いが甚だ不当なものであったことは前に述べたが、中国正規軍の捕虜になった日本軍人の取り扱いは概して妥当であった。(他方雑軍に関しては不明である。華北方面の共産党軍は捕虜に徹底的共産主義教育を行ったと聞く) 
 昭和十八年私が南京の総司令部報道部で見た重慶政府製作の映画「東亜の光」には、日本軍捕虜総出演というサブタイトルがついていた。当時重慶の日本軍人捕虜収容施設は「和平村」と名付けられ約千五百名が収容されていた。その収容者は比較的温順な捕虜で、村長は国民党と共に上海から重慶に逃れた日本人アナキスト鹿地亘(かじわたる)であった。 
 
 日本軍には「生きて虜囚の辱かしめを受くるなかれ」という規定が厳然と存在し、私も中学生の時から教え込まれていた。捕虜になる前に自決せよという教育であった。然しその実行は容易ではない。多くの日本軍人が捕虜になっていた。日本兵は送還されても銃殺されると聞かされていたので、捕虜達は帰郷を諦め環境に順応していくしかなかった。 
 
 日本陸軍は幹部も戦時国際法に無関心であった。特に中国人捕虜の人権は全く無視していた。白人捕虜に関しては取扱いが異なっていたと聞く。 
 
 敗戦により、北はソビエト国境から南は赤道以南の島々迄広範囲にわたり数百万の日本軍人が捕虜となったが地域により大きく運命が異なった。最も幸運だったのが中国国民党支配地域で捕虜となった兵士で、最も過酷な運命に翻弄されたのは満州に於いてソビエト軍の捕虜になった兵士であった。 
 日本軍が最も長期間苛酷に接した中国が日本軍捕虜を人道的に取扱ったのは意外であったがその理由は国民党のカリスマ蒋介石の行った勝利宣言に続く布告である。蒋介石はラジオを通じ勝利宣言を行い、続いて「大国民の誇りを忘れず、怨みに報いるに徳を以ってせよ」と訓示し、その徹底を命じた。その効果は大きく日本軍人、居留民共に大きな迫害を受けることなく早期帰国が実現した。 
 それに反して満州に於いて、ソビエト軍の捕虜となった軍人六十万人はシベリヤに送られ強制労働を課せられ帰還が終わったのは十一年後であった。その間の犠牲者は六万を越えた。 
 
 六十余年以前の苦難は遠い過去となり、当時海外に在った兵士も既に多くが世を去った。 
 
 復員軍人の記録に関心をもつ国民は少ないが、再び戦うことの無い、現在の日本人にも、戦争の結末が如何に惨めなものであったか忘れないために語り継がれてほしい歴史である。 


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