2008年08月24日00時17分掲載  無料記事
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アブハズ人と南オセチア人の声を聞け グルジア紛争の解決 ジョージ・ヒューイット

openDemocracy  【openDemocracy特約】2008年8月8-12日のグルジア・ロシア戦争の2日目、アブハジア沖の黒海でロシアの警備艇は、上陸しようとしていたと思われるグルジアの船4隻を沈没させた。それらの船の名前は不明であるが、グルジア政府が所有する軍装備品の公表されているリストー主にグルジアの西側の友人によって何年もの間にわたって供与された装備品ーには、Mazniashvili.将軍と名付けられた船があることは興味深い。 
 
 なぜ興味深いのか?なぜなら、Mazniashvili (Maznievともいう)将軍(訳注1)は、1918−21年の間にグルジアあったメンシェビキ政府のために、アブハジアから南オセチアにいたるまで、「戦禍」を広げたことで最もよく知られているからである。船にその名前を付けたことは、これら2つの地域の支配を確立するためになされた90年前の無慈悲な試みでの中心人物に対する、現在のグルジアの公式的な感情がはっきり示されている。それはまた、アブハズ人と南オセチア人にとって、1990年代初めの残虐な戦争でグルジアの支配からやっと手にした自由は、世界の注目と理解、尊敬を得るに値する、彼らの一体性を守る長い歴史の一部であるということを思い起こさせるものである。 
 
 これらの人々、またグルジア人だけでなく、ロシア人であろうと、米国人、同地域での最新の戦争に巻き込まれただれでもが、自分自身の歴史を持っている。彼らの所産の多くは、この世代で意図的に粉砕された(1992年の戦争でアブハジアの文化財が破壊されたことを指すー訳者)。2008年8月の短い戦争の教訓は、次のようなものである。1918−21年と1991−93年の紛争は2つのエピソードに過ぎず、紛争の連鎖は繰り返されることなく、断ち切られるとするならば、アブハズ人と南オセチア人の将来に関する決定がなされる場合には、彼らの声、彼らの選択が反映されなければならないということである。 
 
政治的ブーメラン 
 
 グルジア・ロシア戦争についてのメディアであふれた評論は、強迫観念のような地政学的な計算によって特徴づけられていた。それは、グルジアと同地域に関してしばしばそうであるが、グルジアの「失われた」領土(もしそう見なされるなら)を、地球という将棋盤の上の軽率でイライラさせる駒にすぎないものとして、最初から見なしがちである。このため、アブハジアと南オセチアは、それ自体で重要であり、2008年8月の戦争に内在する問題の解決のための中心であるからこそ、彼らを参加させるべきだという議論と彼らの主張を真剣に検討することは有益である。 
 
 ミハイル・サーカシビリの屈辱という、こうした絶望的な日々にあっても、グルジアの政治状況の特筆すべき特徴は、グルジアの南オセチアへの侵攻(1990−92年)とアブハジアへの侵攻(1992−93年)がもたらした傷がいかに深いかについて、同国でほとんど認識されていないということである。いわゆる「凍結された紛争」(frozen conflicts)を解決するうえで前進がなされるためには、この時期においてグルジアが果たした役割について、同国が公式のレベルで責任を認めなければならない。 
 
 この見直しでの含まれる重要な点は、南オセチア人とアブハズ人がそれぞれの領土に関して、昔から主張している居住権を認めることである。1989年にトビリシで噴出した民族主義の時代に、ソ連後のグルジアの初代大統領になることになる男、ズビアド・ガムサフルディアは、オセチア人は1921年に赤軍が侵入したあとを追って、グルジアに現れたとさえ主張した。 
 
 それは昔も今も、神話である。いまは亡きイラン言語の専門家、Ilya Gershevitchは彼の考えとして、南オセチアの言語は北オセチアで話されている言語とは極めて異なるので、分裂は紀元前に起きたに違いない、とかつてわたしに語ったことがある。さらに、グルジアの「黄金時代」のタマル女王(在位1184年−1213年)は、少なくとも半分オセチア人であり、オセチア人の夫も持った。だが、そうした神話は―アブハズ人はアブハジアの先住民ではないと流布されているー緊張の時代には非常に危険なものになりえる。 
 
 グルジアでのソ連の崩壊の中で、南オセチアとアブハジアの知識人と生まれつつあった市民社会は、トビリシから発せられる彼らを狙った排外主義の修辞がもたらす危険に気づいた。彼らは、彼らの集団的、政治的利益を守るために民族フォーラム(南オセチアではAdamon Nykhas、アブハジアではAydgylara)を結成し、今日まで続く地域間のつながりを作った。 
 
 ガムサフルディアは、彼自身の神話―彼の一つおいた後継者であるサーカシビリも共有したーを信じて、南オセチア人をその領土(グルジアはそれをSamachabloと改名した)から排除することは簡単なことだと考えた。その結果は、1990年に始まり、1991年に拡大し、1992年春に終わった戦争であった。その後、ガムサフルディアは打倒され、軍事政権がトビリシを掌握した。1992年3月、軍事政権はソ連時代のグルジアの共産党のボスで、ミハイル・ゴルバチョフの下でソ連の外相になった、エドアルド・シェワルナゼを招いて、国を率いさせた。 
 
 ガムサフルディアとその武装支持者は、グルジア西部州のサメグレロ(ミングレリア、Mingrelia).にある基地から新政権に抵抗した。シェワルナゼは南オセチア人と妥協することを選び、両者は(ロシアの当時のボリス・エリツィン大統領の介入で)Dagomys(ソチ近郊の町―訳者)協定に調印した。合意の条項には、停戦を監視するために3者(グルジア、オセチア、ロシア)による平和維持部隊の項目が含まれていた。 
 
 その結果、1992年以降、静かな州都ツヒンバリに代表される南オセチアは、放置されたへき地となり、市民は仕事を求めてロキ・トンネルを通ってロシア連邦の共和国である北オセチアに行くしかなくなっていた。こうした状況は、シェワルナゼがグルジアを支配していた10年間続いた。サーカシビリが2004年に政権に就くと、変化し始めた。彼は、南オセチアとアブハジアをグルジアの支配の下に(2年間で)回復するという約束を民族主義的な優先課題にした。 
 
 彼の活動的、干渉的な態度の効果は、間もなく感じられた。紛争地域の境界線にあった現地の市場は、交易のために協力し、両者とも何の問題もなくやっていたが、「闇経済」の一部であるという理由で閉鎖された。言いなりになったあるオセチア人が、境界のグルジア側にある村を拠点に、南オセチアの親グルジア「政府」を率いることになった。 
 
 こうしたことは、うまくいかなかった。2008年8月の戦争の特異な側面は、2つの紛争地域のうち、より大きく、より繁栄し、より防衛されているアブハジアの問題よりも、南オセチアの「問題」の方がトビリシにとって管理し、解決しやすいであろうと長く思われていた期待を裏切ったということである。それどころか、サーカシビリの開拓プロジェクトは、南オセチアで失敗し、南オセチアはトビリシの支配からかつてないほど遠いものになっている。 
 
戦争の愚かさ 
 
サーカシビリが大統領に再選された2008年1月には、グルジアの最新の神話の作り手には、それはまったく違ってみえた。彼は再び、2期目の間に2つの領土を回復すると約束した。緊張が数ヶ月続いたのち、2008年8月7日から8日にかけての夜、何も知らないヒンバリに対するグラッド・ミサイルによる残忍な攻撃で頂点に達した。 
 
 サーカシビリは、グルジアの行動はロシアの戦車が入ってきたために対抗したものであると主張し続けているが、戦車が到着する前にロシアの平和維持部隊員15人が死んだことには触れていない。2008年の熱を帯びた数ケ月にロシアが計算したことの少なくとも一部は、世界にサーカシビリ政権の真の性格を見させるために自制しようとしたことであった。結果的には、そうした態度はロシアの平和維持部隊を救うことにならなかったし、ツヒンバリへの攻撃開始の事実を無視し、ロシアの対応を非難するのに忙しかった西側の指導者に対して、目立った効果はなかった。 
 
 しかし、南オセチアの州都を攻撃するという決定の愚かさは、発端が何であれ、サーカシビリだけのものではない。それは、サーカシビリの時代に強まったが、1990年代初めの重要な時期にすでに確立されていたグルジアに対する西側の政策と支援の幅広い形態と関係しているに違いない。 
 
 この点に関して重要な決定が、南オセチアでガムサフルディアの戦争が進行中であった時になされた。それは、ガムサフルディア派がシェワルナゼ派とサメグレロ(ミングレリア)で戦っている時であり、アブハジアに対する脅威が続いていた時であり、トビリシには合法的政権が存在しない時であり、グルジア全土で混乱が支配していた時であった。その時に西側は、ソ連の国内の同国を承認する適切な時であると判断した。 
 
 この決定は、ソ連の共和国(ユーゴスラビアの構成共和国と同様)だけを個別の国家として承認するという国際社会の恣意的なアプローチと一致していた。グルジアの場合、西側はグルジアがガムサフルディアの悪政にある時は、この方針を適用するのを避けたが、シェワルナゼがグルジアに戻るや否や、態度を変えた。「西側の友人」が政権に就いたのである。選挙は1992年10月まで予定されておらず、基本的な民主的合法性さえ主張できなかったが、西側の国家(英国のジョン・メージャー政府を筆頭にしたもので、旧ユーゴスラビアでの同じく悲惨な政策を思い出させる)は、シェワルナゼ政府の承認と外交関係の樹立に急いだ。 
 
 グルジアはこの時期に国際通貨基金と世界銀行、国連への無条件の加盟を果した。独立の権利を要求していたアブハジアにとっては、その結果は惨事であった。なぜなら、シェワルナゼは国連への加盟を、アブハジアへの戦争を始めることで祝ったからである。それは、この熱狂的なグルジア民族主義の大義へ、反対者たち(武装したガムサフルディア派を含む)を結集させるためであった。賭けは無数の破壊をもたらした。その多くの犠牲者には、アブハジアに住む数千人のメグレル(Mingrelian)人とグルジア人を含んでいた。それは13ヶ月続き、結果は長く不安定であった。賭けは失敗した。1993年9月30日にアブハズ人と彼らのコーカサスの同盟者によって、シェワルナゼの軍隊に屈辱的な敗北を与えた。それは、トビリシが、緑豊かで、豊かになる可能性を秘めた共和国(アブハジアのことー訳者)を失ったことを意味した。 
 
 1994年春、南オセチアをめぐるDagomys 協定と同等の停戦合意がモスクワで合意された。その時には西側の関心は、バルカンの西側が寄与した混乱に集まっていた。時代は変わるもので、西側は平和維持の責任をロシアに喜んで任せた。その結果、ロシア軍は、グルジアのサメグレロ(ミングレリア)とアブハジアの伝統的な境界であるイングル川近くの非武装地帯に沿って展開する3000人の平和維持部隊のほとんどを構成することになった。 
 
 こうして、アブハジアと南オセチアの間のつながりが深まり、静かな首都のスフミに代表されるアブハジアもまた、放置されたへき地となり、市民はどこかで仕事を探すか、(とどまった人々にとっては)破壊されたインフラと経済をできるだけ回復させるため、ロシアが提供した援助は何でも利用するしかなかった。 
 
コーカサスの総督 
 
 グルジアのソ連時代の国境を承認することは、アブハジアの苦悩と南オセチアの苦悩の多くの源であり、グルジアの苦悩の源でもある。サーカシビリの失敗の影響がまだ出ている時にさえ、NATO事務局長と英国外相のまったくばかげた声明(グルジアのNATO加盟を支持するというものー訳者)が、(他の西側の指導者の間で)再び表明された。1990年代初め以来、2つの領土をめぐる戦争での明らかな過失にもかかわらず、危機のどの時点でも、「凍結された」紛争をめぐる議論でも、グルジアは国連加盟国に対して、領土保全の原則の順守を呼びかけることができた。それは事実上、グルジアは「国内」問題と厄介な人々に関しては、好きなようにできると言っているのと同じである。 
 
 それだけではない。1990年代、グルジアは「破たん国家」になるようにも見られたことがあった。シェワルナゼに統治された国は、あらゆる種類の援助も求めることができた。それには、分かりやすい、歓迎される経済投資だけでなく、もっと困ったことに、膨大な量の軍装備品や関連した訓練計画もあった(それは、9・11以後の時期と、ボリス・エリツィンの混乱した時代以後、ウラジミール・プーチンがロシアで一貫性のある政府と確固とした外交政策を打ち立て始めるとともに、急増した)。 
 
 グルジアはなぜそのような途方もない量の武器と軍装備品を必要としたのか?最も狂ったグルジアの指導者でさえ、ロシアとの戦争を始めることは考えないであろう(正直なところ、この判断は見直さなければならないかもしれない)。アゼルバイジャンは、バクー・トビリシ・ジェイハンを通るパイプラインの平和的管理でグルジアと利益を共有している。そのパイプラインは両国にかなりの富をもたらしている。グルジアとアルメニアは何世紀にもわたり、競り合ってきたが、軍事紛争を起こす可能性の兆しはない(グルジアのJavakheti地区のアルメニア人少数派の不満と貧困にもかかわらず)。グルジアと隣国トルコは敵対する理由がない。 
 
 結論は明らかだ。グルジアの軍備の標的は南オセチアとアブハジアであった。 
 
 その結末は、グルジアの軍事機構をだけでなく、指導者の自己権力の拡大と思い上がりを煽ることになった。彼らは、西側、特に供給者である米国は、南オセチア、アブハジアに対する支配を回復す 
 これが中国の首都での五輪の開会を前にしてのサーカシビリの醜悪な失態の背後にある一つの要素であったに違いない。 
 
 1990年代初めという極めて重要な時期に結ばれたアブハジアと南オセチアの間の絆は、相互の防衛協定を含んでいた。グルジア軍が2008年8月7-8日にツヒンバリを攻撃すると、アブハジアは、それをどのように実行するか決めなければならなかった。決定は下され、グルジア軍部隊を退去させようとした。同部隊は停戦協定に違反して、2006年7月、アブハジアの一部のコドリ渓谷上流に配備されていた。その部隊は、(南オセチアのモデルにならって)トビリシがすでに設立していた「アブハジア亡命政府」をそこに移した後に配備されていた。 
 
 コドリ渓谷上流へのその動きは、グルジアに第二戦線を開かせようとするものであり、アブハジアで新たな南オセチアの悲劇を繰り返すことを回避するためのものであった。アブハジアの陸軍部隊は8月12日の夜明けに渓谷に入ったが、ほとんどのグルジア兵は逃げたあとだった。真夜中までに、すべての地域は確保された。 
 
 その結果は意味深いものである。ロシアは南オセチアのグルジア兵から捕獲しものの中に、アブハジアの領土を段階的に確保していくグルジアの計画を描いた一連の地図を発見したと伝えられる。アブハジアは自力で、コドリ渓谷の中心で、sainpormatsio tsent'ri NAT'O-s shesaxeb (Information Centre about NATO)と書かれた額(.グルジア語と英語)を見つけた。 
 
 サーカシビリのテレビ演説は、南オセチアに対する事実上の宣戦布告したもので、彼の部屋には欧州連合の旗を見せびらかせている。グルジアはNATOの加盟国でも欧州連合の加盟国でもない。その象徴的な行動は、不協和のままの政治的機能不全の証拠である。 
 
がれきの中の道 
 
 2008年8月の戦争の軍事的、政治的後遺症は、まだ決着したとするにはほど遠い。外交的なものが待ち受けている。ニコラス・サルコジによって折り合いをつけられ、ドミトリー・メドベージェフが受け入れた停戦合意が完全に実施されるようになると、西側は、ヨセフ・スターリンが引いた国境線による同国を承認した思慮の浅さを真剣に再検討する必要がある。国際法の根拠はコソボをめぐって変わった。それは事実上の国境でのグルジアを承認し、南オセチアとアブハジアの共和国を新しい国家として承認することによって、再び動かしえる。 
 
 この文章で概説された歴史を理解(1990年代初めの重要な出来事とそれ以来に起きたことすべてを含む)することが、トランスコーサスのこの部分に住むさまざまな人々の間での平和的な関係の基礎を築く唯一の方法である。 
 
 来るべき交渉は、アブハジアの戦争が終わったあと、逃れたり、追放されたカトヴェリ人(メグレル人とグルジア人)難民の定住など、ソ連後の戦争以来そのままになっている困難な問題と取り組まなければならない。多くの人たちが1993年以来、グルジアのさまざまな場所で惨めな状態に耐えてきた。トビリシの荒れ果てたホテルに何年も収容されていた人たちは、不動産開発のために立ち退かされ、Tsqneti(トビリシの北)の一部に住んでいた人々は、その土地がサーカシビリによって、グルジア国会議会の前議長、ニノ・ブルジャナゼ(西側では西側の支援者がサーカシビリにあきた場合、彼の後継者になるかもしれないと宣伝されている)に与えられと、再び強制的に退去させられた。 
 
 シェワルナゼとサーカシビリの政権の下で、難民が放置され、虐待を受けていた一つの理由は、グルジアの極めて困難な政治にある。彼らのほとんどは、メグレル人である。彼らはカタヴェリ語族に属するが、(ガムサフルディアなど多くの者が、グルジアの超愛国者になっているにもかかわらず)グルジア人によって遠ざけられてもいる(訳注2)。しかし、これはまた、外交的、政治的、そして経済的な進歩に重要になる可能性がある。なぜなら、独立したアブハジアに平和が確立されたら、少なくとも、こうした勤勉な人々の多くは、アブハジアで生活を再び始めることができるからである。 
 
 短く、むごい戦争の後の日々は困難であった。今後は多くの危険があるであろう。ソ連後の3人目のグルジアの欠陥のある指導者は、国に惨事をもたらした。民族主義の虚飾への西側の無謀な応援は、グルジアを新たな危機に導いた。これはグルジアの人々が解決するものである。一方、サーカシビリやMazniashvili将軍が何と言おうとも、南オセチア人とアブハズ人は別の計画を持っている。世界は彼らの言うことを聞くべきである。 
 
*ジョージ・ヒューイット(George Hewitt) ロンドン大学東洋アフリカ研究所のコーカサス言語教授 アブハジアの言語と歴史研究の第一人者 
 
 
訳注1 ウィキペディアによると、Mazniashviliは亡命するが、帰国を許された。しかし、大粛清の時に逮捕され、1937年、処刑された。 
 
訳注2 グルジアは自国語では、サカルトヴェロ(SAKARTVELO)という。 
 「グルジア語の話者を狭義のグルジア人として、スヴァン人、メグレリ人を加えて広義のグルジア人とするが、グルジア語では、狭義のグルジア語の話者のみが、カルトゥリ人である。スヴァン語、メグレリ語の話者はそれぞれ、スヴァン人、メグレリ人であって、カルトゥリ人ではなく、カルトゥリ人、スヴァン人、メグレリ人を総称する固有の用語はない」(『コーカサスを知るための60章』) 
 
 「ミングレル人(Mingrelians)はグルジアの少数民族であり、主にグルジアのサメグレロ(ミングレリア)に居住している。また多くがアブハジアとトビリシに居住している。およそ18万人から20万人のミングレル人が1990年代初期に発生したアブハジア紛争とそれに続いたアブハジアからグルジア人を駆逐する民族浄化の結果アブハジアから追い出された。ほとんどのミングレル人はミングレル語とグルジア語の両方を話すが、グルジア文字のみを使用する」(ウィキペディア) 
 
コーカサスの言語地図 
 
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原文 
 
 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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