2008年09月10日12時02分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200809101202013

山は泣いている

40・世界遺産の価値 白神山地や屋久島、知床を「掃きだめの鶴」にしてはならない 山川陽一

第9章 価値観を見直さないと・7 
 
 富士山は良い意味でも悪い意味でも日本の象徴である。日本人の心に宿る美しい山。日本人なら一生に一度は登ってみたいと思い、また、日本を訪れる外国人の憧れの山でもある。 
 他方、富士山は、昔から「一度登らぬ馬鹿二度登る馬鹿」などと揶揄され、近年では「第二の富士山にしないように」などと言われて環境破壊の代名詞として引き合いに出されるのも、否定できない事実だろう。 
 
 わたしも、会社の現役時代、外国のお客さんから富士山に連れて行ってほしいと頼まれることがあり、さてどうしたものかと悩んだものである。あの夏山シーズンの行列登山の喧騒、まるで城壁を張り巡らせたような登山道、スシ詰めの山小屋、ゴミとトイレの問題などを考えると、日本の恥部をさらけ出すようで、はなはだもって気が進まないのであった。 
 そんな富士山を世界自然遺産にという話が出てきたときは、正直なところびっくりもし、本気なのかと思った。さすがに、選考からもれる結果となったが、それは当然といえば当然の帰結である。そして今、地元を中心に自然遺産がダメなら文化遺産にという運動が繰り広げられているが、果たしてどうなることだろう。 
 
 世界遺産というのは、ユネスコの世界遺産条約に基づいて人類が共有すべき「顕著な不変的価値」と認められるものについて登録されるものである。そして、世界遺産として認定された場合、その価値を失わないよう保全していく義務を負う。 
 
 一方、認定されれば結果として大きな観光価値を生むことから、純粋に子孫に価値を残したいと願う行為というよりも、多くの場合、観光価値に着目して登録を画策する意図が見え隠れする。あの白神山地や屋久島、そして知床。どれもが世界遺産に登録されたとたんに一気に人気が沸騰して、観光客がどっと押し寄せることとなった。 
 こんな状況を見れば、地域振興の切り札として世界遺産登録をもくろむ気持ちは解からぬでもないが、それが本来の趣旨でないことは言うまでもない。富士山についても、これを機に、今までの無定見な集客目当ての開発行為と決別して、官民一体になって「顕著な普遍的価値」にふさわしい実態を確立する努力がなされるなら、それはそれとして、大きな意味がある。 
 
 白神山地などは、世界遺産に選ばれるまでは、一部の山岳愛好者、釣りマニアを除いては、この山で生計を立ててきた地元の人以外ほとんど知る人もいない場所であった。そんな場所が世界遺産として登録され、一躍脚光を浴びることによって、周囲の道路は整備され、観光客目当ての施設がつぎつぎ作られて、観光バスを仕立てたツアー客が引きもきらない状態が現出した。 
 確かに、世界遺産として線引きされた中核部分のブナ林はしっかりと保全されることになったが、周辺部については、国や地方自治体が旗を振って野放しの観光開発行為がおこなわれるということでは、なんとも節操がない。観光客目当ての箱物作りや、今はやりの体験エコツアーなど、誰でもどこでも考えつく振興策はほどほどにして、かつてブナ林を伐採してスギの稙林地にしてしまった場所の数分の一でも元のブナ林に戻すプランを官民が共同で提案したらどうだろう。 
 
 日本山岳会が赤石川源流域でおこなっているようなブナ林再生事業が大々的におこなわれれば、それこそ白神の世界遺産の価値を何倍にも高めることになるだろう。白神山地全体の面積は13万ヘクタールであり、そのうち原生のブナ林が残っているとして世界遺産登録されている部分はわずか1万7千ヘクタールだから、仮に指定されなかった部分の六分の一を再生対象地域にしたとしても1万9千ヘクタール。現在の世界遺産地域より広大なブナ林が再生できることになる。 
 
 屋久島も状況は大同小異である。江戸時代から続いたスギの伐採は、戦後の材木需要の盛り上がりとともにピークを迎えた。屋久島の大半は国有林である。霧島屋久国立公園の指定に際しても、国はヤクスギの宝庫である谷筋は除外して、スギの木の育たない尾根筋を中心に指定の対象にしたといわれている。 
 大型チェーンソーの威力は抜群である。手斧の時代であれば一日がかりの大径木の伐倒も、今や30分。屋久島の天然スギは樹齢千年を超えてはじめてヤクスギと呼ばれるのであるが、そんなヤクスギも瞬く間に切りつくされていった。世界遺産に指定された頃には、林野庁も島全体の天然スギの伐採禁止措置をとったが、そのときは、一握りの場所を除いてはもう切る木がなくなってしまっていたといっていい。 
 
 そんな屋久島であるが、島全体が急峻な花崗岩の山岳地帯から成り立っており、九州一の高峰宮之浦岳を頂点に織り成す特異な地形と豊富な雨量がもたらす気候が育んだ大自然の魅力は、人々を魅了してやまない。世界遺産指定後の島の主産業は観光になった。押し寄せる観光客目当てに周辺部の開発は進む。放置すれば周囲わずか130キロメートルの小さな島は、たちまち食い荒らされ、早晩、日本中どこにでもあるありきたりの観光地と化してしまうこと必定である。 
 救いは、屋久島の森林の大半が国有林だということである。適正な管理下におけば森は必ず再生する。このまま、自然を台無しにするお決まりの観光地化の道を歩むのか、数百年先を視野に入れ、明確なコンセプトの下に保護と利用のバランスを取りながら、世界遺産の価値をより高める形の新しい観光地のあり方を模索していくのか、いまが正念場である。 
 
 世界遺産は「掃きだめの鶴」であってはならない。白神山地や屋久島を歩いて感じることは、世界遺産として指定された部分と、世界遺産を取り巻く周辺部との落差の大きさである。もう一度、周辺部のあり方について厳しく問い直してみる必要があろう。新しく指定された日本で三番目の自然遺産知床では、ぜひとも、周辺部と一体になった世界遺産のあり方を実現してほしいものである。 
(つづく) 
(やまかわ よういち=日本山岳会理事・自然保護委員会担当) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。