2008年09月15日13時22分掲載
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野添憲治の”列島最深部からの報告”
強制連行された朝鮮人労働者の墓石、陽をあびることもなく
同じ村を歩くもの書きなのだが、野添さんにはとてもかなわない。柔和さがちがう、立ち位置がちがう、話を聞き取る深さがちがう、人と接するときの謙虚さがちがう。中学を卒業して山林労働と出稼ぎ労働に従事、青年時代から73歳になる今日まで、東北の地に足を踏ん張り、山びと、百姓、猟師、職人の生き方の聞き書きを続けてきた。それはこの列島に生きる人びとの壮大な民衆史となって、私たちの前に置かれている。野添さんの仕事のもう一つの山脈は、アジア太平洋戦争の最中、日本に強制連行された中国人、朝鮮人の記録の掘り起こしである。秋田県北の花岡鉱山で起こった、重労働や虐待に端を発して蜂起へと至る「花岡事件」の発掘にはじまる野添さんの調査と聞き取りの旅は、全国各地さらには朝鮮半島、中国と東北アジア全域の及ぶ。その野添さん折々のエッセイを不定期でお送りする。題して「野添憲治の“列島最深部からの報告”」(大野和興)
◆60数年ぶりの青空と太陽を浴びて
ことし07年は北国秋田でも、お盆を中心に35度前後の暑い日が続いた。普段、猛暑になれていないので、こんな暑さに襲われると北国の人たちは元気がなくなる。日中は家のなかで暑さをしのぎ、早朝と夕方に田畑で働く。
8月12日も朝から暑く、昼過ぎには35度を超えた。道端の草も水分不足と暑さで、地上に葉をつけるくらいしおれている。田畑には人の影が見えなかった。
この日の午後3時から発盛精錬所(秋田県山本郡八峰町八森)の朝鮮人犠牲者の墓地で、一日早いお盆の墓参りをすることにしていた。墓地からは日本海がすぐ目の前に見えて、いつも海風が吹き寄せているのに、この日は木の葉や草がまったく動きがないほど風がなかった。海にも小皺がなく、碧い水面が果てしなく続いていた。
だが、目の前の朝鮮人犠牲者の墓抱はきれいに草が刈られ、黒い墓基があちこちに見えた。地元八森の望海クラブの人たちが、早朝に草刈りをしてくれたのだ。墓石が建っているので、草刈機では刈りにくかったことだろうが、お盆を迎えるにふさわしく整理されていた。この墓地に眠っていると思われる約70人の朝鮮人たちは、これまで六十数年間の間、雑木林のヤブのなかに捨てられていたのだ。お盆の日に青空と太陽、そして碧い海が見られるのは、埋没されてことしがはじめてなのだ。
何という長い歳月を、賠い異国の土のなかで明るい陽をあびることもなく、過ごしてきたことだろうか。
秋田県は鉱山県といわれるほど多くの鉱山があり、敗戦の時にも約六五の鉱山が操業していた。日中戦争から太平洋戦争にかけては多くの朝鮮人たちが連行され、労働をさせられたと考えられるのだが、その調査は行政も労働界でもまったく手をつけてこなかった。
敗戦から長い歳月が過ぎた1996年に秋田県朝勝人強制連行真相調査団が発足し、ようやく調査に着手したものの、資料がほとんどないので実態の究明は進まなかった。しかも、このときに操業しているのは1社だけで、その他は廃業し、坑夫たちも四散して廃墟になっており、聞き書きも取れない状況だった。発盛精練所も同じで、調査を重ねても成果はでなかった。
◆藪のなかの墓地を発見
それでも細々と調査を続けていたとき、日本の旧厚生省が1964年に調査した『朝鮮人労働者に関する調査』の秋田県分を人手した。これによると、1942年から4年間で201人が発盛精錬所の来ていることがわかった。官斡旋と徴用で、所轄は日本の軍需省である。
この人たちは朝鮮長屋に入り、精練所の仕事をさせられた。この資料を元に調査を続けたが、労働は厳しいうえに、監督は何かあると「制裁を加える」と叫んで叩いた。食糧も不足し、死亡者も5〜6人はでたと地元の人は証言するようになった。
ところが、日本の敗戦で朝鮮人が解放されたとき、病気帰国3人、不詳九入、逃亡42人、帰国119人と名簿にはある。28人が不足するが、この中に満期で帰った人が若干いるものの、逃亡と不詳で51人、これに28人を加えると79人が判然としない。
旧厚生省名簿の分析がやられている県を見ると、逃走や不詳の多くは死者である。その後は朝鮮入の墓が町内に残っていないか、朝鮮入が埋没されている場所がないかを中心に調べたが、見つからなかった。
それから数年が過ぎた2006年秋に、八峰町の知人から朝鮮入の墓地があると知らせが届いた。さっそく案内して貰ったが、わたしが車を持っていたころはよく走った道のそばで、雑木林にバラなどがからまり、とても中に入って歩ける場所ではなかった。しかも雨の日に墓をさがすのに苦労したが、約二〇基ほどを確認した。雑木を刈り払ってから発表しようとしたがその後は雨が続いたので、12月8日の敗戦の日に報道関係に墓地を公表した。
◆名前も遺族も不明、あるのは墓石だけ、
朝鮮人たちの遺骨は、長い冬をヤブのなかで過ごしたが、一日でも早く明るい世界に出してあげたいと思った。寒さもいくらかおさまった2007年3月25日に望海クラブ
の人たちにお願いして雑木林を刈り払いして貰った。県内からかけつけた約四〇人が、刈り払った木や草を一ヶ所に運んだ。約一時間で作業を終わったあと、墓石と思われるのを地元の人だちと一緒に確認したところ、七〇基以上はあった。支援者や報道関係に伝えると、「おーう」と驚きの声が上がった。予想もしない多さだった。
そのあと、調査団と地元の人たちが相談し、案内板と墓標をたて、簡素な慰霊式をおこなうことになった。資金は調査団の会員を中心にカンパをお願いした。そして7月1日に墓地で、追悼慰吉武をおこなったが、40人をこえる人たちが参加してくれた。
ことしの春、六十数年ぶりに太陽をあびた朝鮮人犠牲者にとって、ことしのお盆は新仏だった。墓石はあるものの、死者の名前も遺族もわかっていない。今後、どのようにすればいいのか、重い課題が残されている。
(初出:『協同紙・未来』、現『コモンズ』、2007年9月10日号)
《野添憲治著作》
社会評論社 野添憲治セレクション『みちのく・民の語り』全六巻
http://www.shahyo.com/book/nozoe.html
社会評論社 シリーズ・花岡事件の人たち=中国人強制連行の記録=1ー4集
社会評論社のホームページ http://www.shahyo.com/
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