2008年09月28日10時34分掲載
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野添憲治の”列島最深部からの報告”
雑草田が続く向こうに廃屋が見える
農山村を歩くと、耕す人がいなくなった荒廃田にヤナギ・ススキ・雑草などがぼうぼうと生えている風景をいたる所で見かける。身の丈もある雑草田が何ヘクタールも続く向こうに見えるのは廃家である。
◆各地の農山村にひろがる荒廃田と廃屋
夏には道に、車に隷き殺されたヘビを見かけることが多い。雑草田でカエルが増え、それを食べるヘビが繁殖する食物連鎖のためだ。山間部には「クマに注意」「マムシに注意」と
いう看板が多いが、人の姿はほとんど見えない。
ここは秋田県南の羽後町にある、24戸の山間部の集落だ。筆者は20年ほど前から、この集落へ年に二、二回は行き、追跡調査をしてきた。15年前、この集落の20歳以上の男性の未婚者は11人で、そのうち5人が30歳以上であった。それから15年たったいまも、この集落に結婚した者は一人もいなく、若者たちは絶望してこの集落を去っていった。
そればかりか、農業を支えてきた老人たちも次々と転居している。また、70代の老人家族では農作業が無理になり、耕作放棄がはじまった。24戸のこの集落では7戸が捨て作りになっているが、それが冒頭の風景をつくっているのだ。
家族が崩れ、農家が崩れ、地域が崩壊している。この音が聞こえないだろうか。この集落はまだいい方で、いまは各地で挙家離村が起きている。地響きをあげながら、山間部は崩壊をはじめている。
◆六〇年代をピークに人口が減少
秋田の県北にある上小阿仁村の人口がことし三月末で3000人を割り、ついに初の2000人台に突人した。この村の発足は1889年で、この時の人口は3267人だった。この村は天然秋田杉の宝庫で、その杉が盛んに伐り出されていた1960年ころは村も元気で、この年の人口は6972人とピークを迎えた。その後、天然秋田杉が枯渇をはじめ、農業もまた減反政策がはじまり、高度経済成長が終わったころから村は衰退をはじめた。
天然秋田杉が枯渇することはわかっていたが、豊かな資源で活気があったころ、やがて訪れる至言のない時代の生き残り策を、村ではほとんどやらなかった。他町村と同じに役場の新築などに巨費を注ぎ込んだ。村内に就職する大きな企業がないため、中卒の集団就職で村から多くの少年少女たちが都市部へ流出したことも、現在の人目減少と高齢化の原因となった。
村内には二〇集落かあるが、そのうち6落が65歳以上の高齢者が住民の半数を超す限界集落である。また、村内に200人近くいる35〜55歳の独身男性は、今後もすぐに結婚できるという見通しはなく、村を去っていく心配がある。
村では付加価値をつけた本材製品の生産や販売、農産物の特産化などの構想を打ち出しているが、その作業を第一線で担う男たちがいないため、実施できないでいる。村内はいまも賠いが、今後も有効策はなく、先行きは曇っている。
◆農林業の衰退と集団就職による流出
秋田県には同じような村がもう一つある。県南の東成瀬村で、4月末の集計で男1439人、女1561人の計3000人。五月末の集計で2000人台になることが確実視さ
れている。
同村は1889年の発足で、その時の人口は3311人たった。上小阿仁村の林業のように、特筆するような基幹産業もない農山村だ。しかし、敗戦直後に戦災地や引揚者などで一時的に人口が増加したのに加えて、戦後のベビーブームで急増し、1947年には6220人とピークを迎えた。その後は集団就職を契機に減少に転じ、高度経済成長期には減少傾向にいっそう拍車をかけた。農林業の衰退とともに、人びとは働き口を求めて村を出て行った。
村では村営住宅を整備するほか、雇用剔出を目的に第三セクター(秋田栗駒リゾーート株式会社)を設立して運営するなど、定住促進に力を入れたものの、歯止めをかけるには至あなかった。現在も人口減たいさくとして有効な手だてもなく、農林業の疲弊が深まるとともに、人口は減少していくことだろう。
昨年の11月6日、地元の民放は今村農水副大臣が横手市旧山内村三つ又集落へ現地調査に入った映像を放映した。三つ又集落は反収量が四二〇キロと低いが、かつては豊富な山野草をエサに乳牛や肉用和牛を飼い、集約型農家が生まれ、実績を上げていた。山菜やキノコなども豊かなうえに温泉もあり、のどかな集落であった。
しかし、低乳価や肉類の下落、減反に継ぐ低米価に耐えきれなくなり、廃業に次ぐ離村が相次ぎ、田んぼの耕作放棄となり、荒廃田が続く。集落の代表が「集落営農は20ヘクタールをクリアするにはハードルが高い。緩和して欲しい」と訴えたが、則大臣は「農は日本のふるさと。集落を守ってほしい」と言い、山村集落の切実な要望に応えることもなく、わずか三〇分で引き上げた。
野添憲治:のぞえ・けんじ。秋田県能代市在住、作家。中学を卒業して山林労働と出稼ぎ労働に従事、青年時代から73歳になる今日まで、東北の地に足を踏ん張り、山びと、百姓、猟師、職人の生き方の聞き書きを続けてきた。それはこの列島に生きる人びとの壮大な民衆史となって、私たちの前に置かれている。野添さんの仕事のもう一つの山脈は、アジア太平洋戦争の最中、日本に強制連行された中国人、朝鮮人の記録の掘り起こしである。秋田県北の花岡鉱山で起こった、重労働や虐待に端を発して蜂起へと至る「花岡事件」の発掘にはじまる野添さんの調査と聞き取りの旅は、全国各地さらには朝鮮半島、中国と東北アジア全域の及ぶ。
《野添憲治著作》
社会評論社 野添憲治セレクション『みちのく・民の語り』全六巻
http://www.shahyo.com/book/nozoe.html
社会評論社 シリーズ・花岡事件の人たち=中国人強制連行の記録=1ー4集
社会評論社のホームページ
http://www.shahyo.com/
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