2008年10月11日15時44分掲載
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山は泣いている
44・窮屈な世の中 環境維持のルールやマナーは必要だが… 山川陽一
第10章 登山の大衆化がもたらしたもの・3
「俺の若い頃は…」ということばをわたしは好まない。自分の過ごしてきた過去を上位において、現代の世相や若者を批判しても、いまや過去形でしかものが言えなくなってしまった自分を浮き彫りにするだけだ。わたし自身が若かった頃を考えてみても、同じことを年長者に言われて大いに反感を覚えたものである。そうは言っても、自然環境の問題に限って考えてみると、どうも話が逆転する。過去の状態の方が明確に上位である。
それを戦後社会の復興を担ってきた人たちが主役になって破壊してきた結果が今日の憂うべき状況を作り出している。第二次大戦後の社会を自然環境の側面から眺めてみると、戦後の60年は自然喪失の60年であった。だから、度々昔話を引き合いに出してしまうのだが、それは過去の姿を知っている生き証人としてやむを得ないことである。
わたしの学生時代の山を思い出してみると、一日の山歩きを終えてテントを張り終えたら、最初にやることは炊事用の薪集めだった。テント場も特に指定の場所があったわけではない。人気の山は大体自然発生的にテント場と呼べる場所が出来ていたが、そんなものもなければ、ここが良かろうと思った場所を整地してテントを張り、雨に備えてテントの周りにピッケルを使って溝を掘った。
薪は、近くの樹林帯やハエマツ帯の中に分け入って集めてきた。ラジュースやホエーブスなどの外国製の携帯用コンロは冬山以外使わなかったから、どんな雨の日でも、どんなに疲れていても、薪が集まらなければあたたかい食事にありつけなかった。まだ日が高ければお花畑に寝転んでみんなで山を眺め、歌を歌った。野で用を足すのは当然だったし、咎める者は誰もいなかった。
「アルプス一万尺小槍の上で小便すれば虹が立つ。お花畑で昼寝をすればチョウチョが飛んできてキスをする。ランラランラランララン・・・」と唄ってはばからない楽しい時代であった。
さらにもっと昔の登山の草創期に遡れば、小暮理太郎の本の中には黒部や木曽の山中でライチョウを手掴みで捕まえる話などが出てくるし、尾瀬の父と呼ばれて崇められている植物学者武田久吉も尾瀬ヶ原の湿原を泥んこになりながら歩き回って高山植物の採集をしていた。そんなことをしても気にならないぐらい自然は豊かだったし、入山者も少なかったから、人が及ぼす自然へのインパクトは小さなものであった。もし今日同じことをしたら、自然破壊だとひんしゅくを買う。
下界でも、村が町になり都会になって人口密度が高まるにしたがって、いろいろ面倒くさいルールができてきて、それを守らない人間はコミュニティから締め出される。同じように、山も入山のアクセスが容易になって、大勢の登山客、観光客が押しかけるようになると、気持いい環境を維持するため守らなければならないマナーやルールができるのは当然で、仕方がないことである。
昨日までよかった行為が今日では自然破壊だと言われてしまうのだが、そもそも環境保全とか自然保護と呼ばれる概念は、絶対的概念ではなく、時代と条件次第で変わる相対的なものである。
昔を知っているものにとっては窮屈な世の中になってしまった。しかし、それもこれもみんな自分を含めた人間自身が作り出してきた結果なのだから、この状況を甘んじて受け入れ、さらに状況が悪化しないように自らできる努力を惜しんではならないと思っている。
(つづく)
(やまかわ よういち=日本山岳会理事・自然保護委員会担当)
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