2008年11月08日14時11分掲載
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山は泣いている
47・車社会の山歩き 自動車の魔力と人間の心理の葛藤 山川陽一
第10章 山の大衆化がもたらしたもの・6
「霧島山の韓国岳(からくにだけ)とその隣の獅子戸という山に登った。正直言えばこの山も、歩く道は残されているとはいえ、有料観光道路が、どうも私には未だになじめないセロテープみたいに、あっちこっちに伸びていて山の姿を見るのには都合の悪い部分がある。
もっとも私にしても、そういう道路を利用させてもらって、短時間に山を見てくる場合もないわけではないので、あんまりわるぐちをいいすぎることは謹んでおかねばならない。・・・ どうしてこんなところに自動車道をつくらないのだろう?そんなことを考える人の方があたりまえになって来る。歩きすぎると損をしたと思う不思議な登山者が現れる。向こう側から登ればもっと上までバスがあったのにと口惜しがる人も現れる。・・・」
引用が少し長くなったが、これは串田孫一さんのエッセイ「山のパンセ」の中にでてくる一節である。今から45年前の文章であるが、自動車の魔力と人間の心理について言い得て妙である。
それにしても、人間の心理とは不思議なものである。山歩きに来たというのに、何とかして少しでも歩かないですむ方策を考えてしまう。少しでも奥まで車で入りたいと思ったり、帰路は出来るだけ早く車の待っているところにたどり着きたいと思ったりしてしまう。登山家の端くれと自認しているわたしにしたところでこんな風なのだから、観光気分で山に来る人たちが、歩かないで山を楽しみたいと考えるのはまったく不思議なことではない。
そんな車社会の人間心理を味方につけて、ほとんど山頂まで山岳道路ができて、歩かないで行ける山も沢山できた。ようやく山頂にたどり着いてひょいと反対側を見たら、すぐ下にゴルフ場が広がっていたり、ロープウエーの終点があったり、駐車場があったりという山に出会うことも結構あるが、あれは興ざめだなあと思う。美ヶ原、乗鞍岳、立山、入笠山、甘利山、阿蘇山などは、いまや観光地そのもので、登山の対象としては魅力半減の二流の山になりさがってしまった。
そんなわけで、高度経済成長時代以降、山の観光地化が一気にすすんで、〇〇スカイライン、〇〇ハイウエイ、○○アルペンロードなどの名前がついた山岳道路が日本全土で次々と誕生していった。林道という名の山岳観光道路「スーパー林道」も同様である。山頂に至らないまでも、登山口と呼ばれる起点は一様に繰り上がって、車で入ることができる範囲は格段に広がり、登山の大衆化の基盤が作られていった。
さすがに、私も、山頂まで車で行けてしまう山にすすんで出かける気にはならないが、すでに自動車道があるのに車を使わないでそこを歩くほど偏屈者でもないから、みんなが利用している道路は車の利用をさせてもらっている。だからといって、それでよしと考えているわけではない。こんな都会生活と同等な利便を得るために、自然環境の喪失というとてつもない大きな代償を払ってきた人間の愚かさに想いを馳せるのである。
(つづく)
(やまかわ よういち=日本山岳会理事・自然保護委員会担当)
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