2009年01月28日20時23分掲載  無料記事
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「知ろうとしない責任」を考える 「自己責任」などの論議を超えて 安原和雄

  破綻した新自由主義路線の中で犠牲者たちに「自己責任」が説かれ、一方、オバマ米大統領の就任演説に盛り込まれたキーワードの一つは「新たな責任の時代」である。にぎにぎしい責任論という印象があるが、さてその責任とは一体いかなるものなのか、となると、話はそれほど単純ではない。人に責任を押しつける責任論ほどいただけないものはない。21世紀版責任論があるとすれば、私は「自己責任」など従来の論議を超えて、「真実を知ろうとしない責任」、「変革に参加していく責任」を考えてみたい。 
 
▽仏教者が自己責任論を批判 
 
 仏教者の佐々木 閑・花園大学教授が「因果応報と自己責任」と題してつぎのような一文を書いている(朝日新聞夕刊=東京版・09年1月22日付)。その要旨を紹介する。世に言うところの自己責任論への批判となっている。 
 
 因果応報という考えがある。「善いことや悪いことをすれば、それは皆、潜在エネルギーとなって保存され、未来の幸せ、不幸せの種になる」という教えだ。「だから悪いことはするな」という忠告なのだ。 
 因果応報があったとしても、この世の誰もが、善悪のエネルギーを山のように背負い込んで生きているはずだから、皆平等だ。しかも潜在エネルギーは、幸、不幸の一因として働くだけで、人生の流れ全体は、他の様々な原因の積み重なりによって決まる。 
 今、生活がうまくいかなくて、苦しい目に遭っている人たちのことを「自己責任だ」と切り捨てる人がいる。では聞くが、その苦しんでいる人たちは過去にどんな悪行を行ったというのか。自己責任という以上は、「どんなことをした責任で今苦しんでいるのか」をはっきり言えるはずだ。 
 
 人生は、才能や努力だけで成り立つものではない。偶然の巡り合わせに大きく左右される。それは自分の人生を振り返れば、誰でも分かるはずだ。だから幸・不幸の理由は人それぞれ全部違う。それを十把一からげにして「不幸は本人のせい」とは、不合理きわまりない。 
 今、不況の中で苦しんでいる多くの人たちは、因果応報でもなく、自己責任でもなく、この社会の巡り合わせのせいで苦しんでいる。社会の巡り合わせが一番の原因なのだ。だからこそ、その苦しみをなくすために必要なのは、社会を動かす側に立つ人たちの「責任ある行動」なのである。 
 
▽オバマ大統領の就任演説にみる「新たな責任の時代」 
 
 厳寒のワシントンにおけるオバマ米大統領就任演説(1月20日・現地時間)のキーワードの一つが「新たな責任の時代」である。その趣旨はつぎの通り。 
 
 我々の試練は新しいのかも知れない。我々が成功するかどうかは勤労と誠実さ、勇気、フェアプレー、忍耐、好奇心、忠誠心や愛国心にかかっている。これらは真理であり、歴史を進歩させた静かな力だった。今求められているのは、こうした真理への回帰だ。責任を果たすべき新たな時代だ。我々米国人一人ひとりが、自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し、こうした義務を嫌々ではなく、喜んで受け入れることだ。私たちにとって、困難な仕事に全力で立ち向かうことほど、自らの性格を定義し、精神をみたすものはない。 
 これが市民であることの代償と約束だ。これが私たちの自信の源泉だ。神が未知の運命を自らの手で形作るよう、我々に求めたものだ。 
 
 以上のオバマ演説は、かつてのジョン・F・ケネディ米大統領の就任演説(1961年1月20日)の有名なつぎの一節を思い出させる。そのケネディ大統領は1963年11月、テキサス州ダラスで遊説中に暗殺された。 
「祖国(国家)があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが祖国のために何をできるかを考えて欲しい」と。 
 
▽〈安原の感想〉(1)― 変革の主体としての責任 
 
 昨今の我が国での責任論は、政治家や企業経営者の責任というよりも、自己責任論がにぎやかである。特に小泉政権時代のいわゆる構造改革(=規制廃止、自由化、民営化によって弱肉強食の競争を強要し、貧富の格差、貧困、失業、人間性無視などを増やす新自由主義路線)による多くの被害者、犠牲者たちに向かって「お前たちの努力が足りない責任だ」と責められる。 
 
 それを仏教者は批判している。その批判にはつぎの意味が含まれる。 
 一つは、「苦しんでいる多くの人たちは、自己責任ではなく、社会の巡り合わせのせいで苦しんでいる」という自己責任否定であり、もう一つは「苦しみをなくすために必要なのは、社会を動かす側に立つ人たちの〈責任ある行動〉」という、政治家や企業経営者などへの責任追及論である。この認識には私は基本的には賛同したい。 
 
 ただこの際、指摘しておきたいのは、小泉改革花盛りのとき、それを批判する人が少なかったことである。その典型例はいわゆる郵政改革(小泉改革の中心テーマ)が焦点になった総選挙で、その時自民党を圧勝させた多くの国民のそれぞれの一票に責任はないのか、と問いたい。率直に言えば、小泉改革なるものの本性を見抜かないで、賛辞を添えて一票を投じたのだ。私は国民の多くがいささかお人好しになったのではないかと当時考えたし、今もそう思っている。 
 今後もこの種の事態は、起こり得るだろう。これは日本の変革を良い方向にすすめるうえで、国民一人ひとりが主体的にどうかかわっていくか、その責任 ― あえていえば、その歴史的責任 ― はいかにあるべきか、というテーマでもある。 
私事で恐縮だが、私は小泉改革は、新自由主義路線であるが故に当初から批判論を講演や論文で指摘してきた。しかし力不足であったことを今、自己反省している。 
 
▽〈安原の感想〉(2)― 知ろうとしない責任 
 
さてオバマ大統領の「新たな責任の時代」をどう評価すべきか。彼はこう述べた。 
 「我々米国人一人ひとりが、自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し、こうした義務を嫌々ではなく、喜んで受け入れることだ」と。 
 日本の政治、経済のリーダーにはとても期待できないセリフである。しかしその意味するところをどう受け止めるかは、単純ではない。新たな変革の時代に米国人一人ひとりが積極的に立ち向かい、変革を担うべきだという含意なら、賛成できるが、一方ではつぎのような責任転嫁論だという批判的な見方も根強い。 
 
 「史上最大の金融危機は金融機構に寄生するウオールストリートの経営責任者とヘッジファンドマネージャーらが、金融の不正操作によってシステムの破綻を引き起こし、経済を破局に導いたことによるものだが、〈新たな責任の時代〉とは、その責任を、何百万もの職の喪失と住宅差し押さえ、社会保障の削減に直面した一般市民に転嫁しようとするものだ」と。(インターネット新聞「日刊ベリタ」・1月24日掲載の記事「真のチェンジを期待できるのか 就任演説と米メディアの報道を読み解く」から) 
 オバマ大統領の真意がどこにあるのか、責任転嫁論であるのかどうかは遠からず明白になってくるだろう。 
 
 それにしても責任論は扱いにくい。政治、経済の指導的立場にある者が責任逃れの言動を弄するのは論外であるが、それでは国民の多くが被害者となった場合、その被害者に責任はまったくないのかというと、そうとは言い切れない。 
 
 私は今、昨年(08年)暮れにテレビで放映された「あの戦争はなんだったのか」というドラマを想い出している。ビートたけしが戦争指導者・東條英機を演じたドラマである。敗戦の昭和20年(1945年)まで15年間にも及んだアジア太平洋戦争で日本人の犠牲者は一般市民も含めて310万人にのぼった。なぜその戦争を防ぐことはできなかったのかが、このドラマのテーマである。 
 「国民は真相を知らなかったから」という釈明に対し、登場人物の一人、新聞記者がこうつぶやいたのが印象に残っている。 
 「知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ」と。 
 
 知ろうと努力しなかったその責任はないのか、という問いかけであろうと私は受け止めた。ただ当時は、新聞は戦争推進の記事であふれて、国民の目も耳も閉ざされていたし、真相を知ろうとすれば官憲に弾圧される社会状況下にあった。自由、人権、民主主義とは縁遠い社会でもあった。 
しかし現在は当時とは大きく異なっている。真実を知ろうと努力すれば、それをつかむ自由も機会もある。今日ほど「知ろうとしない責任」の大きい時はないのではないか。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です 
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