2009年04月20日15時19分掲載
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タイの混乱は新たな民主的変革への陣痛 メディアに欠ける歴史的視点(下)
▽民主化への試行錯誤の始まり
クーデターによって絶対王政を廃した1932年の「立憲革命」の主役は、欧米への官費留学生エリートたちを中心とする人民党だった。この政変によってタイは、立憲君主制のもとで議会制民主主義への一歩を踏み出したが、人民党内部の軍人と文民の路線対立で政局は不安定化する。やがて軍人が政治の主導権を握るようになり、議会制民主主義は後退を余儀なくされていく。
軍人支配が頂点にたっしたのが、1957年のサリット政権の登場だった。クーデターで政権を握ったサリットは、独裁的な権力のもとで積極的な経済開発政策を開始するとともに、西欧型民主主義はタイの国情に合わないとしてタイ式民主主義をとなえ、国民の基本的な諸権利を抑圧した。また自らの政治的正当性の後ろ盾として、立憲革命後は政治の舞台裏に退いていた国王と王室の権威を高める政策をうちだした。
この「開発独裁」路線によって、日本など先進国からの外資を導入した民間主導型の工業化が軌道に乗り、経済は大きな発展をとげた。だが、その矛盾も深刻化していった。軍人を頂点とする特権層に富が集中し彼らの腐敗がすすむ一方で、都市と農村、都市内部での貧富の格差がひろがっていく。貨幣経済の浸透によって自給自足経済が破壊された農民は、現金収入を求めてバンコクに出稼ぎにいき、開発のすすむ華やかな表通りの裏側には貧しい彼らが不法占拠したスラムが目立つようになった。
こうした問題に危機感をいだいた学生や知識人が主導してときの軍事政権を打倒したのが、1973年の「学生革命」(10月14日事件)だった。民主化を求める学生と市民の非暴力デモに軍が発砲し、77人が死亡、444人が負傷する惨事となったが、流血の拡大をさけるため、プミポン国王の調停によりタノムら軍事政権の指導者は国外に逃亡した。
この政変によってタイは「民主化」の時代を迎える。開発独裁政権下で抑えつけられていた労働者や農民は、さまざまな要求を掲げて立ち上がった。労働組合の結成を認められた労働者はストライキや集会で賃上げなどの労働条件の改善を求め、農民は土地改革や小作料の引き下げなどを要求した。学生らは彼らを支援するが、自らの力への過信から一部は過激化し、学生勢力は分裂していった。
軍人にかわって登場した文民政権は統治能力に欠けた。くわえて1973年の石油危機による経済の悪化と75年のサイゴン陥落と前後したインドシナの共産主義化に危機感をいだいた支配層は民主化への巻き返しにでる。76年、バンコクのタマサート大学で政府への抗議集会を開いていた学生らに警察と右翼団体が襲いかかり、学生40人が虐殺され、逮捕者は3000人以上に上った。これを機に、軍が混乱収拾の名目でクーデターを起こし、権力を奪還する。
つかの間の民主化は「冬の時代」に入り、学生指導者や活動家の一部は弾圧を逃れてジャングルで武装闘争を展開していたタイ共産党に合流した。彼らは毛沢東路線をモデルに、農村から都市を包囲して武力で現体制を打倒する革命をめざした。
1980年に首相の座に就いたプレム(現・枢密院議長)は、軍人出身ながら権力欲が強くなく清廉なイメージから人望を集め、調停能力にもたけた指導者だった。彼は王室、軍、そして経済発展のなかで発言力を強めてきた実業家や都市中間層などの利害のバランスをとりながら、「上からの民主化」を徐々に進めた。共産党に合流した学生指導者らに対しても恩赦による帰順をうながし、国内の安定を図った。
8年にわたるプレム政権のもとでタイは順調な経済発展をとげ、民主化も進んだ。軍の不満分子は2度クーデターをこころみるが、いずれも失敗に終わった。しかし、彼の政策はまだ「半分の民主主義」と評された。
▽貧困問題をいかに解決するか
88年にプレムの後継首相となったチャーチャイは、12年ぶりの政党政治家の首相として歓迎されたが、なりふりかまわぬ利権獲得で腐敗し国民の信頼を失っていく。チャーチャイ政権は91年、腐敗政治の一掃を旗印に掲げたスチンダー陸軍司令官のクーデターで崩壊する。だがスチンダーは、「首相にならない」と公言していたにもかかわらず翌92年に首相に就任したため、バンコクを中心にスチンダー首相の辞任を求める集会が連日のように開催されるようになった。
この反政府集会で注目されたのが、多数の中間層の参加だった。彼らは出勤帰りに自家用車で集会に参加し、携帯電話で連絡をとりあった。タイのメディアは、これまでの反政府行動の中心だった学生や知識人とは異なるニューフェイスの登場を「中間層の反乱」と呼んだ。
だが、彼らが軍人宰相に反対したのは、民主化の流れの逆行への異議申し立てよりも、経済的な理由からだったされる。市場原理にもとづく経済発展によって自らの利益を追求していこうとする彼らにとっては、軍人政権はこうした経済原理を乱す時代遅れな存在とみなされた。失うべきもの持った中間層は急進的な政治改革には及び腰だった。
反政府行動は地方にも広がり、同年5月、首都バンコクでは反政府デモと軍・警察が衝突、またしても多くの市民の血が流された。政府側の発表でも死者40人、負傷者600名以上とされたが、実際の犠牲者は行方不明者をふくめこれをはるかに上回るものとみられている。
犠牲者の多くは、中間層ではなくスラムの住民をふくめて都市の貧しい人びとだった。つまり国民のあらゆる階層がスチンダー政権打倒に立ち上がったのである。
「5月の暴虐」とよばれる惨事は、プミポン国王がスチンダーとデモの指導者チャムロン(現・PADの指導者のひとり)を呼んで和解を求め、スチンダーが辞任したことで落着した。
この反政府闘争の勝利をうけて、97年に新憲法が制定された。これはこれまでのタイの民主化運動の成果を集大成したもっとも民主的な内容を盛り込み、「人民のための憲法」と称された。上院議員の民選、下院議員選の小選挙区・比例区併用制、下院議員の閣僚兼任禁止、不正選挙のやり直し、憲法裁判所の設置など、権力の集中排除と選挙の浄化が大きな目的とされた。
新憲法にもとづく上院選では、これまでの任命制時代の官僚や軍人らとともに住民運動の指導者や法律家などの新しい顔ぶれも選出された。
だが憲法には、議員の要件を大卒以上とする条項も盛り込まれた。貧困のために高等教育を受けることがむずかしい人たちを事実上国政から排除するものである。このため新憲法は「人民のための憲法」を謳いながら、実態は都市中間層の意見を代弁する「エリート憲法」とも評される。
タクシンの率いるタイ愛国党が圧勝し、彼を首相の座に就かせた2001年の総選挙は、この新憲法にもとづいて実施された最初の下院選挙だった。
タクシンの政治がどのようなものであり、それをめぐりこの数年タイでさまざまな混乱を重ねてきたことはすでに述べたとおりである。
後世の歴史家がタクシンをいかに評価するかはわからない。「改革者」としての彼に期待したのは農民や都市の貧しい人びとだけでない。かつての民主化運動の活動家らの一部もタクシン政権の政策助言に参加した。だが彼が「背広を着た独裁者」の顔を見せはじめると、彼らは政権に距離を置くようになり、さらに首相一族の株売却疑惑が明るみにでるにおよんで、バンコクでは首相の退陣を要求する市民の声が高まった。
彼の政治の荒っぽさは、企業の最高経営責任者(CEO)的なトップダウン手法やメディアへの介入だけでなく、麻薬対策や南部のイスラム武装勢力への対応にも示された。2003年に開始された麻薬撲滅戦争では、密売などとは無関係の人たちの逮捕や殺害により2600人もの死者がでたといわれる。イスラム武装勢力との闘いでは、平和的な話し合いや南部の開発推進路線をこばみ、武力弾圧をつづけたために流血が拡大し泥沼の状態に陥ってしまった。
ただ、タクシンの真意がどこにあれ、彼の政策によって農民や都市の貧しい人びとが自分たちの一票が政治を動かすことができるのだという政治意識に目覚めさせられたことは否定できないだろう。彼らはこれまでの経済発展を縁の下で支えながらその恩恵にじゅうぶんに与れず、開発政策の過程からも排除されてきた。彼らがその過程に参加できる希望を与えてくれたのがタクシンである。
彼らにはまだ独自に国政を動かせるだけの組織的な発言力はない。農村部も南部はいまだに反タクシンの民主党の地盤である。だが、都市と農村、都市内部の貧富の格差というこの国のもっとも深刻な問題の解決のためには、開発の成果の公正な分配から取り残された人びとによる「下からの民主化」は不可欠である。
労働組合やNGO、学生組織などの市民社会をめざす活動が、UDDやPADとどのような関係をとろうとしているのかはわからないが、これらの勢力もこの点では一致しているはずである。
▽農民や労働者の声を聞きたい
今回のタイの混乱にかんして、日本の新聞はとくにASEAN関連会議が中止に追い込まれたことをとりあげ、「アジアの信頼回復を急げ」(朝日)、「タイの責任は重大だ」(毎日)、「混乱事態で失う国際的信用」(読売)、「タイの秩序回復に日本政府も発信せよ」と題する社説を掲げている。あるいは、東南アジアの「民主化の優等生」とされてきた国の将来への悲観的見通しや、政治的な混乱がタイのみならず日本企業に与える打撃に焦点を当てた報道が目につく。
もちろん、それはそれでひとつの事実である。しかし、タイの現代史をたどるなら、それは社会・経済的な変化に適合する民主政治のあり方を模索する試行錯誤の軌跡であり、民主化は複雑な一進一退を経ながら確実に前進してきているといえる。
一握りのエリートが「立憲革命」で切りひらいた議会制民主主義が、学生・知識人らが主導した「学生革命」によってそのすそ野を広げ、さらに経済発展とともに新興ビジネスエリートや都市中間層も民主化の舞台に登場してきた。だがそのドラマは、バンコクを中心とした都市で展開されてきた。国民の多数をしめる農民・労働者も当然、しかるべき役割を果たすべきであるにもかかわらず、彼らはこれまで参加を拒まれてきた。
いま起きている混乱は、民主化の舞台が都市から農村にまで全国に拡大され、社会の成員すべてをそれぞれの役回りでドラマに巻きこもうとしていることによるものといえよう。
その意味で、タクシン派支持者がいう「真の民主主義の実現」や、海外亡命先からタクシンがさけぶ「人民革命」は、反政府運動の参加者へのアジテーションの意味合いはあるにしても、あながち的外れとは言えないのではないだろうか。
また、これまでの混乱の調停者となってきた国王がうごきを見せていないことは、高齢化と健康問題によるものかどうかわからないが、国王といえども解決に苦慮するほどさまざまな要因が複雑にからみあっているからかもしれない。
民主化は西欧をふくめ多くの国で一朝一夕に実現したわけではない。よしあしはべつとして、多くの血が流される混乱のなかで勝ち取られてきた。非西欧の東南アジアの一角で起きている政情不安も、そうした産みの苦しみへのひとこま、と私はとらえたい。
そのような視点からメディアにのぞむことをひとつだけ提言したい。タクシン派のデモに参加する農民やバンコクの貧しい労働者たちの何人かに密着取材し、彼らが日々どのような暮らしをしているのか、なぜタクシンを支持するのか、彼らはどのような政治を望んでいるのかなどを時間をかけてレポートしてはどうか。一人ひとりの小さな民の胸のうちに分け入ることで、大上段にふりかざした混乱批判記事ではなく、混乱の底流に何があるのかをうかがいしることができるはずである。
(おわり)
<参考資料>
柿崎一郎『物語 タイの歴史』(中公新書)
石井米雄他監修『東南アジアを知る事典』(平凡社)
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