2009年06月08日14時18分掲載
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社会
外国人排斥に狂奔する日本の草の根保守運動 「在日特権を許さない市民の会」の足取りを探る
本紙では、「在日特権を許さない市民の会(以下、在特会)」などの新興の右翼市民運動による外国人排斥の動きを追ってきた。日本における外国人排斥の潮流は、書店で「嫌韓流」の類の出版物が氾濫している状況に見るように、確実に広がっている。その「嫌韓」的言説を主張の中心にした運動を起こしたのが「在特会」である。「在特会」は現在、「維新政党・新風」などの古参の右翼と連携しているが、「在特会」自体は普通の市民に基盤を置く草の根保守運動として出発した歴史を持つ。その「在特会」がなぜいまのように日の丸を掲げて街頭に進出し、外国人排斥運動の先頭に立つようになったのか。幾人かの関係者の証言をもとに、「在特会」の出発から現在までの足取りを探る。(村上力)
●ネット右翼から「政治サークル」へ
「在特会」は、「嫌韓流」の流れを汲む運動である。そこでは、お隣の国である韓国・朝鮮人を犯罪者若しくは危険分子として扱う「嫌韓」的言説が飛び交っている。会名にある「在日特権」という言葉自体、そうした中で生み出された言葉である。当時のネットユーザーに話を聞いたところ、「嫌韓」的言説は2002年頃に台頭してきたという。当時の日本と朝鮮半島の間では、日朝首脳会談と「拉致」告白、韓流ブーム、日韓共催ワールドカップなど、様々な出来事が起こっていた。
現在の在特会会長桜井誠氏は、2002年ごろからインターネットの翻訳掲示板(日本語の書き込みがハングルに訳され、ハングルが日本語に訳されるもの)で「韓国人」と議論をしてきたという。当時から日本のインターネット上のコミュニティ「2ちゃんねる」などで「嫌韓」的言説はあったが、今ほど過激ではなかった。その中で桜井誠氏は「Dronpa」というハンドルネームを使い、「嫌韓」的言説の中でも群を抜いて過激な書き込みをしていたという。2003年頃に桜井誠氏は、「Dronpa’s Page 不思議の国の韓国」というホームページを開設した。そこには「嫌韓」感情を煽る様々な文章が掲載されている。
2005年、「嫌韓」的言説が注目されたのか、日本テレビの深夜番組「ジャネジャン」に、桜井誠氏が出演する。その後、「チャンネル桜」(注1)などのメディアに、桜井誠氏は頻繁に出演するようになった。桜井誠氏はブログ「Dronpaの独り言」を開設し、「日韓歴史問題研究会」代表という肩書きで、「在日全員強制送還論」などを主張していた。関係者によれば、上の研究会は桜井誠氏を中心に、一般的な「右翼」のイメージとは程遠い市民が20名程参加したサークルのようなものであり、二週間に一回程度の会合を持っていたという。
次第に台頭してきた「嫌韓」的言説の中で、2005年7月に「マンガ嫌韓流(山野車輪作 晋遊舎)」が出版され、ベストセラーとなる。これにより、日本社会の中で「嫌韓」感情はさらに高まった。
●会員1万人目標に「在特会」発足
桜井誠氏率いる「日韓歴史問題研究会」は、2006年1月に初めて市民参加のシンポジウムを行う。当初は資金があったわけではなく、カンパを募り、公共施設を借り上げて行われた。このシンポジウムは「チャンネル桜」などが協力し、「外国人参政権に反対する会・東京」村田春樹氏、ジャーナリスト西村幸祐氏などを招いたもので、100人程の参加があったという。
桜井誠氏は2006年2月に、「日韓歴史問題研究会」代表として、「嫌韓流実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル(晋遊舎)」を出版、同年9月に「東亜細亜問題研究会」代表として「嫌韓流実践ハンドブック2 反日妄言半島炎上編(晋遊舎)」を出版した。桜井誠氏が上の二つの研究会の代表していることを見れば、これらの研究会が「在特会」の前身組織にあたることは間違いない。
2006年11月に、「在特会」の設立にあたっての準備会合が行われ、在特会は2007年に発足した。関係者によれば、在特会の運動方針は「在日特権を無くす」ことであり、具体的には「入管特例法」(注2)の廃止である。しかしそれをいかに廃止するのか、その戦略などが不鮮明であったため、運動は桜井誠氏のワンマン状態で進められることになっていたという。在特会はこのとき、会員1万人と、全国4支部の設立を掲げた。活動は現在のような街頭行動ではなく、全国各地での講演会が主流であった。そして、2007年中に全国4支部を実現した。
●「語る保守から行動する保守」への転進、街頭へ
在特会が街頭行動に運動の重点を移すのは、2007年の後半からである。同年の中頃に、在特会の公式サイトに他の保守系団体のイベント告知が掲載されるようになった。これは桜井誠氏の、他の保守系団体との横のつながり作ろうという意図によってのものであるという。また、現在も言われている「語る保守から行動する保守へ」というフレーズが使われはじめたのはこの頃からである。
桜井氏が現在の「行動する保守運動」を担う西村修平氏(主権回復を目指す会)、瀬戸弘幸氏(維新政党・新風副代表)などの人物と接触したのは、この2007年後半頃からだと思われる。同年11月に行われた小平市役所前での街頭行動には、この二人が同行している。また、現在の在特会副会長八木康洋氏(維新政党・新風茨城)は、2007年中頃に運営の補助として在特会に参加していた。
そして2008年の在特会全国大会の「年頭教書」で、他団体との連携が明確に打ち出された。2008年2月に在特会主催で行われた民団前での街頭行動には、「主権回復を目指す会」「外国人参政権に反対する会」「NPO外国人犯罪追放運動」など、「行動する保守運動」のお馴染みの面々が名を連ねている。
つまり、2007年の後半ごろに、2つの流れが合流した。一方は「嫌韓流」の流れを汲む草の根保守運動である。もう一方は、「維新政党・新風」などの古参の右翼運動である。これらの流れが一緒になって「行動する保守運動」が完成したのである。これにより、在特会の活動に、「維新政党・新風」関係者が同伴し、「維新政党・新風」関係者の行動に在特会が同伴する関係が出来上がった。かつて、「在特会」の活動の対象は、在日コリアンや、東アジアの歴史問題などが主であった。しかし、昨今のカルデロンさん一家に対する入管前や蕨市での街頭活動のように、いま彼らの対象は外国人一般に広がっている。
●仮想敵の上でしか団結できなかった哀しき日本の草の根保守運動の末路
これら日本の草の根保守運動の歩みをたどっていくと、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、{つくる会})の存在に行き着く。「つくる会」を検証した出版物は、「在特会」の理解にも大いに参考になる(注3)。ここで「つくる会」の下部組織にあたる「史の会」に参加する市民の雰囲気が述べられている部分を引用する。
「『史の会』参加者たちを観察して強く感じたのは、『価値観を共有している』ことを示すためにある特定の言葉が繰り返し用いられているということだ。『朝日』『北朝鮮』『サヨク』という言葉は、非常に心地よいフレーズとなって参加者の耳に響いている。朝日新聞にもさまざまな記者がいるだろうし、記事も同じ論調で揃っていることはありえないが、『史の会』では『朝日』とひとくくりにしてしまうことにより、『アンチ朝日』としての共同体がつくられる。『朝日』を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた」
「在特会」の源流ともいえる草の根保守運動においても、ある仮想敵の上に意識の統一を図る側面があったことが、上の文章によって理解できる。ただ「つくる会」の場合、タテマエであっても運動の目標は「新しい歴史教科書をつくる」こと、「理想の日本人像」を探ることであったから、上のような意識の統一は内面的なものであった。
だが、新興の草の根保守運動の「在特会」においては、「在日特権」「在日韓国人・朝鮮人」「反日左翼」「変態毎日(新聞)」など、さまざまな敵を自らつくり出して、それへの抗議を運動の柱に据えて、そこに終始するという行動形態をとっている。日本の草の根保守運動は、結局仮想敵を罵倒し続けることによって(そして多くの人々を傷つけながら)しか、自身をアピールできないし、自らのアイデンティティも保てない存在でしかないようだ。
(注1)http://www.ch-sakura.jp/
(注2)1991年(平成3年)11月1日に施行された「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(略称・入管特例法)で、第二次世界大戦の終結時における日本の降伏文書調印日(1945年9月2日)以前から引き続き日本に居住している平和条約国籍離脱者(韓国・朝鮮人及び台湾人)とその子孫を特別永住者として在留の資格を与えた。「在日特権」とはそのことを指している。
(注3)『<癒し>のナショナリズム――草の根保守運動の実証研究』 小熊英二・上野陽子 慶応義塾大学出版会
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