2009年06月18日15時09分掲載  無料記事
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外国人労働者

「ペルーと日本の架け橋に」 静岡県吉田町のハローワークで働く日系ペルー人3世、タカラ・カレンさんの軌跡

  高良カレンさんは、日系ペルー人3世で現在26歳。デカセギのために来日した両親を追って、10歳で来日。以後、ペルーと日本を行き来しつつ、両国の文化を学びながら成長してきた。現在は、静岡県榛原郡吉田町 という人口約3万人の小さな町で、母や姉夫婦と共に暮らしている。 
 ここ数年は、ずっと町内の食品加工工場で働いてきたが、今年2月からは堪能な日本語を活かし、吉田町のハローワークで仕事を失った外国人のための相談員として就業している。 
 そんなカレンさんに、これまでの生い立ちや、日本語を教えてくれた先生についての思い出をお聞きした。(和田秀子) 
 
▽ デカセギの両親とともに転々した小学校時代 
 
 「両親が日本に“デカセギ”に行ってしまった後は、どうしたらいいか分からないくらい淋しかった…」と、ひとりペルーに残された時のことを振り返るカレンさんは、当時まだ9歳。 
 「言葉も分からない日本に連れて行くよりも、ペルーで教育を受けたほうが良い」という両親の判断でペルーに残り、親族の家から学校に通っていたという。 
 
 しかし、まだ両親が恋しい年頃―。離ればなれの生活に我慢ができなくなり、一年後、10歳で両親が働いている九州の宮崎へとやってきたのだ。 
 
 「両親は朝から晩まで工場で働いていましたから、私ひとりで家に居るのも淋しいでしょ。だから、いつも両親にくっついて工場に行き、休憩所で勉強していたんです」 
 と、カレンさんは来日当初の思い出を語る。 
 
 そんな生活が数ヶ月続いたあと、カレンさんは地元の公立小学校へ入学することになった。しかし、まったく日本語が分からないため、授業について行けないのはもちろんのこと、友だちすらできない日々が続く。 
 
 そのうえ、“派遣”で働いていた両親は、契約が終了するごとに仕事場を移るため、その都度引っ越しせねばならない。そのためカレンさんも、1年も経たないうちに転校することが度々あり、学業はもちろん、日本語をマスターすることも困難だった。 
 「日本語が分からない、授業について行けない…」 
 
 すっかり自信を失っていたカレンさんに転機が訪れる。 
宮崎から佐賀の小学校に転校したとき、カレンさんの担任となった若い女性教諭との出会いだった。 
 「内田先生っていうんです」 
 16年経った今でも、カレンさんは先生の名前を覚えている。 
 「私のためにスペイン語の辞書を用意して、ひとつずつ単語をひきながら、私が理解するまで教えてくれました。両親もまったく日本語が分からなかったので、わざわざ家庭訪問までして、両親にも学校のことを説明してくれたんです」 
 
 内田先生と出会ってから、カレンさんの日本語は急速に上達。学校へ通うのも楽しくなっていった。 
 しかし、日常会話は理解できても、授業についていくのは容易ではない。 
 「このまま日本で勉強を続けていても、高校・大学まで進学できるほどの学力を身につけるのは難しい」 
 そう考えたカレンさんの両親は、彼女をペルーに帰らせ、母国で進学させることを決意する。 
 
▽ペルーでも戸惑いの日々 
 
 来日から5年経った15歳の春、ふたたび家族と別れ、カレンさんはペルーに戻った。 
 しかし、成長期の子どもにとって 「5年」 という歳月は、大人の2倍以上の重みがある。 
 ペルーの学校に通い始めたものの、カレンさんは大きな違和感を覚えていた。 
 
 「日本とは、なにもかも違いました。ペルーの子どもたちは、日本人と比べてずいぶん大人びているから、15歳でもクラブに行って遊んでいます。でも、私は行ったことがない。友だちとの共通の話題が見つからないんです…。それに、むずかしいスペイン語は理解できなくなっていたから、授業についていくのも大変だった」 
 
 自分の居場所が見つけられずに、学校の帰り道、いつもひとり泣いていた。 
 しかし、日本では両親が身を粉にして働きながら、カレンさんを「大学まで通わせたい」と願っている。ここで負けるわけにはいかない。 
 カレンさんはその後、なんとかペルーで義務教育課程を終え、地元の大学進学を目指すことになった。しかし今度は「入学金が足りない」という問題が浮上した。 
 
 「すでに還暦を迎えようとしている両親に、もうこれ以上頼ることはできない。今までさんざん私たちのために働いてくれたんだから―」 
 そう考えたカレンさんは、学費を稼ぐために17歳でふたたび来日を決意する。 
 
▽機械の一部となって働き続ける 
 
 家族が住む静岡県榛原郡吉田町に戻ったカレンさんは、朝8時から夜10時まで、学費を稼ぐために来る日も来る日も工場のラインで働いた。 
 「片時も手を休められないし、立ちっぱなしで足は固まっていくんです」 
 気づけば自然と涙がカレンさんのほほを伝っていた。 
 
 心配した日本人の上司が、カレンさんにイスに座って作業するよう勧めてくれたが、涙が出たのは作業がきついからではなかった。 
 「自分がまるで、“機械の一部”になってしまったような気がしたの。それが悲しかったんです」 
 とカレンさんはいう。 
 
 しかし、他の日系人たちは、来る日も来る日も、“機械の一部”となって働き続けている。カレンさんも、大学の入学資金を貯めるため、2年間工場のラインで働き続けた。 
 
▽ペルーで大学に進学、しかし学費が底をつき… 
 
 カレンさんが、大学の入学資金を貯めてペルーに戻ったのは19歳。すぐに予備校へ通い、半年間猛烈に受験勉強をして、みごと経営学部に合格した。 
 それから1年間、カレンさんはペルーで大学生活を送るが、親からの援助を受けずに、毎年継続的に学費を支払っていくのは大変なことだった。 
 
 「結局、学費が底をつき、また日本で働かなければならなくなったんです」 
 
 大学に休学届けを出したカレンさんは20歳で日本に戻り、ふたたび工場で働き始める。 
 せっかく苦労して入った大学にも通うことができず、ふたたび単調な工場での仕事―。自暴自棄になっても不思議ではない境遇だが、カレンさんは違った。 
 
 「今、置かれている環境で、できるだけのことをしたい」と考え、日本語能力試験を受けることにしたのだ。 
 
▽「日本語能力検定1級」に合格 
 
 そんな彼女の思いを支えたのが、吉田町国際交流協会のボランティアスタッフたちだった。 
 吉田町には、人口の4%にあたる約1000人の外国人が住み、地域の製造工場や食品加工工場などで働いている。 
 吉田町国際交流協会では、外国人が増え始めた95年以降、「彼らが日本の生活に困らないように」という思いから、週に1度有志が集まり、ボランティアで日本語を教えていた。 
 
 カレンさんの場合、日常会話は問題なかったが、「読み」「書き」が弱かった。とくに“漢字”の習得は、漢字圏ではない外国人にとっては大きなネックだ。 
 そこで彼女は、吉田町国際交流協会が主催する「日本語教室」に通い、徹底的に漢字をマスターすることにしたのだ。 
 
 「ボランティアの先生たちは、本当に親身になって教えてくれました。仕事が忙しくて教室を休みがちになったこともあったんですが、わざわざ家に様子を見に来てくれて、『検定試験、もうすぐだからがんばろう!』と励ましてくれたこともありました」 
 
 カレンさんは工場で働きながらも、一日一時間は日本語の勉強に充てていた。そして22歳で、「日本語能力検定1級」に合格したのだ。 
 
 勉強の励みになっていたのは、「いつかカレンさんが、日本とペルーの架け橋になれるといいね」といってくれた吉田町国際交流協会のボランティアスタッフの言葉だった。 
 
▽ハローワークで生活相談員に 
 
 自分の学費を稼ぐために日本に戻ったカレンさんだったが、「家族や親戚を少しでも楽にしたい」という思いから1年また1年と年月は過ぎ、26歳となった現在もまだ帰国のめどはついていない。 
 
 カレンさんは得意な日本語を活かして、今年の2月から吉田町のハローワークで通訳の仕事を始めた。経済不況のあおりを受け、雇い止めになった外国人たちの就職や生活の相談にのっているのだ。 
 
 先日は、失業中の両親と子どもが相談のために訪れた。 
「解雇されて学費を支払えないが、どうしても子どもを高校に進学させてやりたい」という相談だった。 
 カレンさんは進学で苦労した自分自身の体験と重ね合わせ、「なんとかこの子を学校に通わせてあげたい」と必死に策を考えた。司法書士とともに県の社会教育委員会にかけ合い、低額の融資を受けられるように段取りを整えたという。 
 
 「高校に進学できることが決まったときは、子どもさんも両親も、とても嬉しそうだった。私、やっとペルーと日本の“架け橋”になれたのかな…」 
と照れたように笑うカレンさんは、とても嬉しそうだった。 
 
▽将来はペルーと日本を結ぶビジネスを興したい 
 
 「大学では経営を学んでいたんです。いつか日本で起業したいと思って…」 
 そう将来の夢を話してくれた彼女は、まだペルーへ帰って復学する夢を捨てたわけではない。 
 卒業後は、ペルーから質の良いシルバーアクセサリーを輸入して、日本で販売することを計画しているのだ。 
 「ビジネスがうまくいけば、ペルーの貧しい若者たちにも“雇用”が生まれます。 学校に通えない子どもたちも大勢いるから、なにかしてあげたいんです」 
 
 カレンさんのように、ふたつの国を背負うミックスルーツの子どもたちが、今日本には増えている。 
 異国で生活していくには困難がともなうが、日本社会が彼らに学ぶ環境さえ用意できれば、かならず“架け橋”となる人材が育っていくことだろう。 


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